雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

若気の至り・小さな小さな物語 ( 1339 )

2020-12-26 16:17:25 | 小さな小さな物語 第二十三部

「京都五山の送り火」として名高い大文字焼の「大」の文字が焚かれる所に、サーチライトのような物を50ほども並べて点灯するといういたずらがあったと報じられていました。
どういう人がどういう意図で行ったものか今のところ不明ですが、伝統を守り続けている方々にとっては、表現しきれないほどの怒りと虚しさがあるのではないかと、痛々しく感じてしまいます。
それにしても、いたずらというにはスケールが大き過ぎますし、費用も掛かるし、一人や二人で実行できないような気もしますし、何が目的なのか理解に苦しんでしまいます。あえて想像すれば、幼児などにみられるらしいのですが、誰かに注目されたいとか、自慢をしたいといったようなことぐらいしか思い浮かびません。

「若気の至り」という言葉があります。言葉の意味は、「若さゆえの未熟さから、血気にはやって無分別な事をしてしまうこと」といったものでしょうが、最近はあまりお目にかからないような気がします。
この言葉を使う時は、どちらかといえば、若者の失敗をかばうような場面で用いられることが多いように思うのですが、この言葉が活躍の場を狭めている理由は、「年功序列をベースにした考え方が薄れていること」「AIと呼ばれるような機器や、デジタル化、簡単にリセットできるゲームの異常なまでの普及」などがあるように思うのです。
今回の「大」文字に対するいたずらから「若気の至り」という言葉を連想したのには、もしかすると、「ご先祖様の御霊を浄土にお送りする大切な行事が、コロナの影響とはいえ中止になったことを大変悲しんだ若者が、『伝統を守り続けている人々がどのような思いで中止を決断したのか』といった事などに想いをいたす余裕もなく、結果としては多くの人の心を傷つけてしまう行為を行ってしまったのかもしれない」と思いたかったのです。
これは事件だとは思うのですが、犯罪として立件するのはなかなか難しそうで、警察は捜査しないようなことも報じられていました。この犯人(?)たちが、私が空想するような若者たちであれば許せるとしても、一人前のおじさんたちが、世間を騒がせるだけが目的で行ったものであれば、私はどこに憤懣をぶちまければいいのでしょうか。

「若気の至り」という言葉は活躍の場を失いつつあるとはいえ、若者は存在しており、その若さゆえの、未熟さを吹き飛ばすような行動力といった特権があり、失敗しても後悔という生涯にわたって己を律する源泉となるべき経験をものにすることが出来るという強さを持っています。
「若者」の定義となれば、当ブログ程度では荷が重すぎますが、基本的には年齢に寄りますが、「相対的な若者」という現象も存在します。
例えば、地方の町内会や老人会などにおいては、七十五歳になって後期高齢者だなどといっても、「若いなあ」と言われてしまい、言われた方もいつの間にか勘違いしてしまって、人生設計を間違ってしまう可能性があります。

なお厳しい状況が続いている新型コロナウイルスによる感染症は、病原菌との戦いもさることながら、家庭生活や社会生活の在り方に一石を投じることになったような気もします。
新規感染者数が発表がなされる場合に、年齢層による動向が重視されたり、旧盆の帰郷に関しては大論争という表現さえできそうな気がします。
親しい間柄や、近隣関係が、その中の一人にコロナ感染者が出たことにより、微妙な変化が起こることがあり、感染しないまでも、家族全員が家庭にいることが多くなったことで、家庭内の在り方や力関係が明確になり過ぎて、さざ波や大波さえ発生している所もあると聞きます。
そして、この第二波と考えられる感染拡大のキーマンと考えられる年代層は、三十歳代以下の「若者」です。さて、「若気の至り」が廃れつつあるこの時代、若者たちはどのような行動を心がけるのでしょうか。

( 2020.08.13 )


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