運命紀行
たきぎを負える山人
歴史上の人物について、その足跡が定かでない人物は少なくない。
その人が、天皇を中心とした皇族関係や有力貴族などは、真偽のほどはともかくとして、それなりの記録が残されていることが多い。
しかし、それ以外の人物の場合、和歌や伝承などに様々な記録が残されている人物であっても、その経歴などが不明なことは珍しくなく、複数の人物の足跡が混同したり、時には、架空の人物が生き生きと行動していることもある。
本稿の主人公、大友黒主も、やはり経歴の分かりにくい人物である。
黒主は、古今和歌集に和歌が四首採録されるなど、勅撰和歌集に全部で十一首残されている歌人として知られている。
八代和歌集とも呼ばれる勅撰和歌集は、平安時代から鎌倉時代にかけて、天皇の命により編纂された八つの歌集を言う。
因みに、時代順に列記してみると、「古今・後撰・拾遺・後拾遺・金葉・詞花・千載・新古今」である。
その八つの歌集に採録されている和歌の数は、重複分も含めてであるが、一万首を超える。歌人の数が何人になるかは調べていないが、詠み人知らずとされる和歌の数も少なくないので、正しい調査は不可能であろう。
いずれにしても、その一万余首の中に十一首採録されているということが、歌人としてどの程度の位置にいることになるのか知らないが、当時の歌人として大友黒主の名は著名である。
後に述べるが、大友黒主という人物の足跡をたどるのは極めて困難である。小野小町なども同様に、正確な足跡をたどるのは難しいが、その代わり満ち溢れるほどの伝承がある。真実とは思えないものが大半であるが、歴史上の人物としては、生き生きと息づいて見える。
しかし、黒主にはそれほどの伝承も、史実らしい足跡も乏しい。それでいて歌人として著名な理由は、間違いなく「六歌仙」の一人に挙げられているからと考えられる。
「六歌仙」とされるのは、僧正遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、そして、大友黒主の六人である。
「歌仙」という言葉が、正しくはいつ誕生したのかは分からないが、普通に考えれば、「歌の上手」それも相当の名人にあたる人という感じを受けるのは自然だと思われる。後世、「三十六歌仙」「中古三十六歌仙」「女房三十六歌仙」などの選定がなされているのも、いずれも和歌の上手という位置付けを表現したものであることからも分かる。
しかし、上記の六人が「六歌仙」と呼ばれるようになったのには、いささか誤解が入っているように思われる。
そもそも、「六歌仙」というものが登場することになるのは、古今和歌集の仮名序において、柿本人麻呂と山部赤人の二人を別格の「歌聖」とし、「近き世に、その名聞こえたる人は」として、六人の名前を挙げ、その後には、「このほかの人々、その名聞こゆる野辺に生うるかつらの這ひ広ごり林に繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし」と記している。
つまり、六人に対する評価を書きならべた後で、その他の人は評価にも当たらない、と述べているものだから、六人はそれより上、すなわち、その他大勢より上で、歌聖よりは下という位置付けのように勘違いしてしまった後世の人たちが、「歌仙」などというとんでもない称号を付けてしまったのである。
仮名序は、紀貫之が書いたものであるが、彼は六人のことを「歌仙」などとは全く表現していないのである。
仮名序をもう少し広げてみてみると、六人を挙げる前に、紀貫之はこう述べている。
「つかさ位高き人をば、たやすきやうなれば、入れず」と。
つまり、六人を挙げる前に、官位の高い人から歌の上手を選ぶのは簡単なので入れないとして、それ以外として挙げているのである。
しかも、紀貫之の六人の評価を見ると、どうして「六歌仙」などと表現がなされ、定着してしまったのか不思議に思う。
因みに、評価の部分を記してみよう。
僧正遍照は、歌の様に得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
在原業平は、その心余りて言葉足らず、しほめる花の色なくて、にほひ残れるがごとし。
文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。
喜撰法師は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。
小野小町は、古のそとほり姫の流れなり。あはれなるようにして強からず。言わば、良き女の悩めるところあるに似たり。強からぬは女の歌なればなるべし。
大友黒主は、そのさまいやし。言わば、たきぎ負える山人の花のかげに休めるがごとし。
いずれも、どう贔屓目に見ても、優れた六人を選び出した評論とは思えない。
特に、大友黒主にいたっては、紀貫之に対して「お前は、どれほどの者なのだ」と言いたい気持ちになってしまう。
☆ ☆ ☆
「そのさまいやし」と酷評された大友黒主の和歌を見てみよう。
『 春雨の降るは涙か桜花 散るを惜しまぬ人しなければ 』
歌意は、「春雨の降るのは、涙だろうか桜花だろうか。桜の花が散るのを、惜しまぬ人はいないのだから」
『 思ひいでて恋しきときは初雁の 鳴きて渡ると人知るらめや 』
歌意は、「あなたを思いだして恋しい時には、初雁が鳴きながら空を渡っていくように、私があなたの家の周りを泣きながらさまよっていることを、あなたは知っているのでしょうか」
また、この歌には題として、「ある女性とひそかに愛し合ったが、なかなか逢えなかったので女の家の周囲を歩き回っていた時に、雁が鳴くのを聞いて、女に詠んで贈った歌」とある。
『 鏡山いざ立ち寄りて見てゆかむ 年へぬる身は老いやしぬると 』
歌意は、「さあ、鏡山に立ち寄って、鏡に映して見てみよう。年を重ねた我が身は、老いただろうかと」
なお、鏡山は、近江国にある小さな山で、近江国の歌枕にもなっている。
『 近江のや鏡の山をたてたれば かねてぞ見ゆる君がちとせは 』
歌意は、「近江の国に名高い鏡山には鏡が立ててあるので、ずっと先まで見えますよ、大君の千年に及ぶ長寿が」
なおこの歌には添え書きがあり、「これは今上(醍醐天皇)の御べの近江の歌」とある。
寛平九年(897)醍醐天皇の大嘗祭において、「神あそびの歌」として、歌舞に用いられた歌らしい。
以上の四首の和歌は、古今和歌集に収録されている大友黒主の作とされるものである。
これらの歌から、黒主という人物の人品骨柄を推し測るのは乱暴な話ではあるが、紀貫之をして、「そのさまいやし」とまで論評されなければならないほどの作品なのかと同情してしまう。それとも、貫之は実際に黒主にあっていて、その様子や人柄が卑しいと言っているのだろうか。
もしそうだとして、歌論の中でそのようなことを評価対象としているのなら、紀貫之という人物の底が見えてしまった気がしてしまう。
それはともかく、四首について個人的な感想を述べさせていただくと、最初の歌は、その歌の調子が、現代の演歌を髣髴させるような気がするのである。まさか黒主が現代演歌の模倣をしているわけはないから、現代演歌が少なからぬ影響を受けているのではないかと思ってしまう。
二首目は、恋の歌である。おそらく若い頃の作品だと思うが、その巧拙を私は判断できないが、黒主も血の通った普通の人物だと思わせてくれる歌である。
三番目と四番目の歌には、鏡山が登場している。それも誇らしげに感じられる。このことから、黒主が近江国と縁のある人物であることは間違いあるまい。また、伝えられている足跡のうち、官職にあった時期があるらしいこと、神職あるいはそれに関与するような立場であった可能性も想像できる。
大友黒主の生没年は不明である。
醍醐天皇の大嘗祭で黒主の歌が歌われていること、紀貫之の生没年(868~946)などがら推定すれば、平安初期、おそらく九世紀中・後半を中心に活躍した人物らしい。
一説によれば、貞観八年(866)の大政管諜に大友村主黒主という人物が記載されており、同人物ではないかと言われている。
そうだとすれば、近江国滋賀郡大友郷に本拠を持つ一族で、地方官であったらしい。
官位は、従八位上といわれ、一般庶民の中では指導的立場にあったとも考えられるが、中央の貴族などとは雲泥の差である。
また、大友は「大伴」とも表記されていることがあり、古代豪族である大伴氏の流れとされる意見もあったようだが、この時代、大伴氏は「伴氏」に改名されているので、この説は支持されていない。
さらには、壬申の乱において、大海人皇子(天武天皇)と戦って敗れた天智天皇の皇子、大友皇子の末裔だとして、それらしい系図もあるらしいが、時代が合わず、天皇末裔が「村主」の姓を名乗るのは考えられず、信憑性に欠ける。
結論としては、近江地方の豪族で、低いながらも地方官としての官位を有していた人物で、都に歌人としてその名が伝えられるような教養人でもあったと想像したい。
「六歌仙」というものが、誤解から生まれた産物であると先に述べた。
それは事実であるが、やがてそれは、歌人として優れた六人として定着していっている。誤解からであれ、官命によるものであれ、「六歌仙」とされる人たちが評価に耐えないような歌人たちであれば、やがて消滅していったはずである。卓越した和歌の名手ばかりであったかどうかはともかく、歴史上に燦然として残る「六歌仙」は、やはりその存在感を認めるべきだとも思う。
その中の一人である大友黒主は、六歌仙として挙げられている歌人の中で、ただ一人「小倉百人一首」に加えられていない。
単なる撰者の好みからなのか、やはり人物として問題があったのか、まさかそのようなことはないと思うが、「そのさまいやし。言はば、たきぎ負う山人の・・」という仮名序の評価が影響していないかと、ついつい勘ぐってしまうのである。
もし、「小倉百人一首」に加えられていたら、大友黒主が現代の私たちに今少し馴染み深い人物になっていたのではないかと、その点が少々残念なのである。
( 完 )
たきぎを負える山人
歴史上の人物について、その足跡が定かでない人物は少なくない。
その人が、天皇を中心とした皇族関係や有力貴族などは、真偽のほどはともかくとして、それなりの記録が残されていることが多い。
しかし、それ以外の人物の場合、和歌や伝承などに様々な記録が残されている人物であっても、その経歴などが不明なことは珍しくなく、複数の人物の足跡が混同したり、時には、架空の人物が生き生きと行動していることもある。
本稿の主人公、大友黒主も、やはり経歴の分かりにくい人物である。
黒主は、古今和歌集に和歌が四首採録されるなど、勅撰和歌集に全部で十一首残されている歌人として知られている。
八代和歌集とも呼ばれる勅撰和歌集は、平安時代から鎌倉時代にかけて、天皇の命により編纂された八つの歌集を言う。
因みに、時代順に列記してみると、「古今・後撰・拾遺・後拾遺・金葉・詞花・千載・新古今」である。
その八つの歌集に採録されている和歌の数は、重複分も含めてであるが、一万首を超える。歌人の数が何人になるかは調べていないが、詠み人知らずとされる和歌の数も少なくないので、正しい調査は不可能であろう。
いずれにしても、その一万余首の中に十一首採録されているということが、歌人としてどの程度の位置にいることになるのか知らないが、当時の歌人として大友黒主の名は著名である。
後に述べるが、大友黒主という人物の足跡をたどるのは極めて困難である。小野小町なども同様に、正確な足跡をたどるのは難しいが、その代わり満ち溢れるほどの伝承がある。真実とは思えないものが大半であるが、歴史上の人物としては、生き生きと息づいて見える。
しかし、黒主にはそれほどの伝承も、史実らしい足跡も乏しい。それでいて歌人として著名な理由は、間違いなく「六歌仙」の一人に挙げられているからと考えられる。
「六歌仙」とされるのは、僧正遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、そして、大友黒主の六人である。
「歌仙」という言葉が、正しくはいつ誕生したのかは分からないが、普通に考えれば、「歌の上手」それも相当の名人にあたる人という感じを受けるのは自然だと思われる。後世、「三十六歌仙」「中古三十六歌仙」「女房三十六歌仙」などの選定がなされているのも、いずれも和歌の上手という位置付けを表現したものであることからも分かる。
しかし、上記の六人が「六歌仙」と呼ばれるようになったのには、いささか誤解が入っているように思われる。
そもそも、「六歌仙」というものが登場することになるのは、古今和歌集の仮名序において、柿本人麻呂と山部赤人の二人を別格の「歌聖」とし、「近き世に、その名聞こえたる人は」として、六人の名前を挙げ、その後には、「このほかの人々、その名聞こゆる野辺に生うるかつらの這ひ広ごり林に繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし」と記している。
つまり、六人に対する評価を書きならべた後で、その他の人は評価にも当たらない、と述べているものだから、六人はそれより上、すなわち、その他大勢より上で、歌聖よりは下という位置付けのように勘違いしてしまった後世の人たちが、「歌仙」などというとんでもない称号を付けてしまったのである。
仮名序は、紀貫之が書いたものであるが、彼は六人のことを「歌仙」などとは全く表現していないのである。
仮名序をもう少し広げてみてみると、六人を挙げる前に、紀貫之はこう述べている。
「つかさ位高き人をば、たやすきやうなれば、入れず」と。
つまり、六人を挙げる前に、官位の高い人から歌の上手を選ぶのは簡単なので入れないとして、それ以外として挙げているのである。
しかも、紀貫之の六人の評価を見ると、どうして「六歌仙」などと表現がなされ、定着してしまったのか不思議に思う。
因みに、評価の部分を記してみよう。
僧正遍照は、歌の様に得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
在原業平は、その心余りて言葉足らず、しほめる花の色なくて、にほひ残れるがごとし。
文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。
喜撰法師は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。
小野小町は、古のそとほり姫の流れなり。あはれなるようにして強からず。言わば、良き女の悩めるところあるに似たり。強からぬは女の歌なればなるべし。
大友黒主は、そのさまいやし。言わば、たきぎ負える山人の花のかげに休めるがごとし。
いずれも、どう贔屓目に見ても、優れた六人を選び出した評論とは思えない。
特に、大友黒主にいたっては、紀貫之に対して「お前は、どれほどの者なのだ」と言いたい気持ちになってしまう。
☆ ☆ ☆
「そのさまいやし」と酷評された大友黒主の和歌を見てみよう。
『 春雨の降るは涙か桜花 散るを惜しまぬ人しなければ 』
歌意は、「春雨の降るのは、涙だろうか桜花だろうか。桜の花が散るのを、惜しまぬ人はいないのだから」
『 思ひいでて恋しきときは初雁の 鳴きて渡ると人知るらめや 』
歌意は、「あなたを思いだして恋しい時には、初雁が鳴きながら空を渡っていくように、私があなたの家の周りを泣きながらさまよっていることを、あなたは知っているのでしょうか」
また、この歌には題として、「ある女性とひそかに愛し合ったが、なかなか逢えなかったので女の家の周囲を歩き回っていた時に、雁が鳴くのを聞いて、女に詠んで贈った歌」とある。
『 鏡山いざ立ち寄りて見てゆかむ 年へぬる身は老いやしぬると 』
歌意は、「さあ、鏡山に立ち寄って、鏡に映して見てみよう。年を重ねた我が身は、老いただろうかと」
なお、鏡山は、近江国にある小さな山で、近江国の歌枕にもなっている。
『 近江のや鏡の山をたてたれば かねてぞ見ゆる君がちとせは 』
歌意は、「近江の国に名高い鏡山には鏡が立ててあるので、ずっと先まで見えますよ、大君の千年に及ぶ長寿が」
なおこの歌には添え書きがあり、「これは今上(醍醐天皇)の御べの近江の歌」とある。
寛平九年(897)醍醐天皇の大嘗祭において、「神あそびの歌」として、歌舞に用いられた歌らしい。
以上の四首の和歌は、古今和歌集に収録されている大友黒主の作とされるものである。
これらの歌から、黒主という人物の人品骨柄を推し測るのは乱暴な話ではあるが、紀貫之をして、「そのさまいやし」とまで論評されなければならないほどの作品なのかと同情してしまう。それとも、貫之は実際に黒主にあっていて、その様子や人柄が卑しいと言っているのだろうか。
もしそうだとして、歌論の中でそのようなことを評価対象としているのなら、紀貫之という人物の底が見えてしまった気がしてしまう。
それはともかく、四首について個人的な感想を述べさせていただくと、最初の歌は、その歌の調子が、現代の演歌を髣髴させるような気がするのである。まさか黒主が現代演歌の模倣をしているわけはないから、現代演歌が少なからぬ影響を受けているのではないかと思ってしまう。
二首目は、恋の歌である。おそらく若い頃の作品だと思うが、その巧拙を私は判断できないが、黒主も血の通った普通の人物だと思わせてくれる歌である。
三番目と四番目の歌には、鏡山が登場している。それも誇らしげに感じられる。このことから、黒主が近江国と縁のある人物であることは間違いあるまい。また、伝えられている足跡のうち、官職にあった時期があるらしいこと、神職あるいはそれに関与するような立場であった可能性も想像できる。
大友黒主の生没年は不明である。
醍醐天皇の大嘗祭で黒主の歌が歌われていること、紀貫之の生没年(868~946)などがら推定すれば、平安初期、おそらく九世紀中・後半を中心に活躍した人物らしい。
一説によれば、貞観八年(866)の大政管諜に大友村主黒主という人物が記載されており、同人物ではないかと言われている。
そうだとすれば、近江国滋賀郡大友郷に本拠を持つ一族で、地方官であったらしい。
官位は、従八位上といわれ、一般庶民の中では指導的立場にあったとも考えられるが、中央の貴族などとは雲泥の差である。
また、大友は「大伴」とも表記されていることがあり、古代豪族である大伴氏の流れとされる意見もあったようだが、この時代、大伴氏は「伴氏」に改名されているので、この説は支持されていない。
さらには、壬申の乱において、大海人皇子(天武天皇)と戦って敗れた天智天皇の皇子、大友皇子の末裔だとして、それらしい系図もあるらしいが、時代が合わず、天皇末裔が「村主」の姓を名乗るのは考えられず、信憑性に欠ける。
結論としては、近江地方の豪族で、低いながらも地方官としての官位を有していた人物で、都に歌人としてその名が伝えられるような教養人でもあったと想像したい。
「六歌仙」というものが、誤解から生まれた産物であると先に述べた。
それは事実であるが、やがてそれは、歌人として優れた六人として定着していっている。誤解からであれ、官命によるものであれ、「六歌仙」とされる人たちが評価に耐えないような歌人たちであれば、やがて消滅していったはずである。卓越した和歌の名手ばかりであったかどうかはともかく、歴史上に燦然として残る「六歌仙」は、やはりその存在感を認めるべきだとも思う。
その中の一人である大友黒主は、六歌仙として挙げられている歌人の中で、ただ一人「小倉百人一首」に加えられていない。
単なる撰者の好みからなのか、やはり人物として問題があったのか、まさかそのようなことはないと思うが、「そのさまいやし。言はば、たきぎ負う山人の・・」という仮名序の評価が影響していないかと、ついつい勘ぐってしまうのである。
もし、「小倉百人一首」に加えられていたら、大友黒主が現代の私たちに今少し馴染み深い人物になっていたのではないかと、その点が少々残念なのである。
( 完 )
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