雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  女帝輝く世紀 ( 9 )

2017-02-22 11:16:38 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 9 )

つなぎの天皇

三十有余年に渡って天下を治めて来た推古天皇が崩御した後の後継者の選択は、決して容易なことではなかったと想像される。
推古天皇は後継者を定めていなかったとされるが、当時、後継者は群臣により擁立されるのが常のようであった。もちろん、有力皇族や有力豪族などの意見が強く反映されたことであろうが、形式としては群臣の推挙を必要としていたようである。
推古朝は、推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の三人が中心として運営されていたとされるが、おそらく、真実に近いと考えられている。しかし、厩戸皇子は六年、蘇我馬子は二年ばかり推古天皇に先立って没している。つまり、推古天皇が崩御した段階では、推古朝を支えてきた有力者は皆無になったということである。

そうした時代の流れがあってこそ、舒明天皇は後継者として即位できたように思われる。推古朝を支えた三人のうち二人が残っている間であれば、血族的に推古天皇からも蘇我氏からも遠い関係にあり、いわんや厩戸皇子には山背大兄王という後継者がいるのであるから、田村王(舒明天皇)の出番はなかったはずである。
しかし、推古天皇崩御の十か月後には舒明天皇が即位している。後継者をめぐっては、蘇我一族内、あるいはその他の豪族も複雑に絡み合った主導権争いがあり、戦乱も起こっている。それでも、表面的には豪族間の争いに止まって、新天皇は無事即位に至っている。推挙された要因としては、もちろん田村王の人望があったという面もあるとしても、一番の理由は、皇族や豪族たちに対して特別の色が少なかったからだと思われるのである。つまり、積極的な推挙というよりは、有力者たちの多くが容認できる最大公約数として浮上したのではないだろうか。
女性天皇を語る時、「つなぎの天皇」と言われることがままあるが、むしろ、舒明天皇にこそその表現が当たるように見えるのである。

舒明天皇とい人物は、その即位に当たっては、妥協の産物のように見える部分がある天皇だと思われるが、その後の歴史を見ると、実に重要な鍵を握っていた天皇なのである。
舒明天皇の父は、何度も登場している押坂彦人大兄皇子であり、敏達天皇の第一皇子に当たるが、圧倒的な勢力を誇っていた蘇我氏との血縁は無く、皇族としては傍流とされていたと考えられる。母は、糠手姫皇女といって、敏達天皇の皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹にあたり、やはり蘇我氏との繋がりはないようである。
しかし、この天皇の妻と子供を見ると、歴史の重要な位置に立っていることが分かる。

当時の天皇には多くの妻がいた。天皇に限らず、豪族や、もっと下級層でも複数の妻を持つことは珍しくなく、第一婚姻という形態自体が現在とは相当違う。
天皇の場合は、后、皇后、妃、夫人、あるいは、中宮、女御、更衣、御息所など、様々な呼び名があり、それぞれに順位があったようだ。しかし、この天皇の御代、皇后という呼び名はなかったと考えられているが、複数の妻には順位付けがあったと考えられる。
それはともかく、この天皇の妻を三人紹介してみよう。
一人目は、田眼皇女(タメノヒメミコ)である。文献には「妃」と書かれていることが多いが、敏達天皇と推古天皇の間に生まれた皇女である。舒明天皇より数歳年上と考えられているが、子供がいたかどうかは不詳で、どうやら即位以前に亡くなっているらしい。推古天皇からすれば、傍系の王に過ぎないように思ったのではないかと考えられるが、もしかすると舒明天皇には若くして輝くものがあったのかもしれない。この皇女が早く亡くなったことは残念に思われる。
二人目は、皇后とされる宝姫王(タカラノヒメミコ)である。後の皇極・斉明天皇であるが、ドラマチックということでは舒明天皇を凌ぐと思われるが、それは後述する。この皇后は、葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)、大海人皇子(天武天皇)を生んでいる。
そして三人目は、夫人とされる法提郎女(ホテイノイラツメ)である。蘇我馬子の娘で皇族ではないが、古人大兄皇子(フルヒトノオオエノオウジ)という第一皇子を生んでいる。
実は、蘇我氏と血縁のない舒明天皇が即位できた大きな原因は、この古人大兄皇子の存在があったからで、蘇我本宗家はこの皇子の将来に夢を託し、舒明天皇を推挙したものと考えられるのである。

つまり、舒明天皇の即位の陰には、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を皇位に就けるための「つなぎの天皇」であった可能性が見えるのである。
しかし、この推定が正しいとしても、蘇我氏の血を引く天皇の実現が目的であれば、蘇我一族は山背大兄王をなぜ天皇に推挙しなかったのだろうか。謎が残る。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 10 )

2017-02-22 11:15:50 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 10 )

再び女性天皇に

舒明天皇の御代はおよそ十三年、決して短い期間ではない。
日本書紀によれば、その間には、大陸との行き来が激しかったらしいことや、天候不順からくる飢饉があったことなどが記されている。しかし、舒明天皇の巻の記事の半分以上は即位に至る諸豪族の争いが記されていて、山背大兄王を強く推挙していた境部摩理勢(サカイベノマリセ)を蘇我蝦夷(ソガノエミシ)が討ち果たす記事など、こちらが主題かのようにさえ見る。
つまり、舒明天皇の御代は、国内政治的には比較的平穏な期間だったように思われる。

舒明天皇十三年の冬十月九日に、天皇は崩御された。
十八日に宮の北で殯(モガリ・仮の安置所に祭ること)を行った。この時、東宮・開別皇子(ヒラカスワケノミコト・中大兄皇子)が御年十六歳で誄(シノヒコト・弔辞のようなもの)を奉った。(日本書紀)
翌年の正月十五日に舒明天皇の皇后であった宝皇女が即位した。皇極天皇である。
日本書紀の巻第二十四は、皇極天皇の血脈を簡単に記し、即位したこと、蘇我蝦夷を引き続き大臣として、何の変りもないとしている。つまり、皇極女帝の即位はごく自然の流れといった書き出しなのである。

それでは、舒明天皇が崩御した時点で、次期天皇候補は皇后に限られていたのかといえば、とてもそのような状況ではなかったはずである。
舒明天皇と皇極天皇の皇子である中大兄皇子は、皇太子の地位にあり有力候補の一人とも考えられるが、日本書紀に従えば、この時十六歳であり、当時の皇位継承者としてはあまりにも若過ぎる。そうなると、かねてより皇位を狙い続けている厩戸皇子(聖徳太子)の御子である山背大兄王と、舒明天皇と蘇我馬子の娘である法提郎女(ホテイノイラツメ)との間の皇子である古人大兄皇子とが有力候補であったはずである。
古人大兄皇子は、蘇我本宗家である蝦夷や入鹿が強く支援しており、山背大兄王も勢力を有していて対抗していたようである。結局は、両者の対立が大戦乱となるのを避けるために皇后である宝皇女、つまり皇極天皇の登場となったという見方が強いようである。しかしそれは、考え方によっては、皇極天皇であれば両者を含め群臣を納得させることが出来るということになる。
再び女帝誕生となったのは、単なる対立の先送りの為であったと考えるのはあまりにも安易な考えのような気がする。皇極天皇自身の存在の重さをもっと考慮する必要があるように思うのである。

皇極天皇即位の翌年十一月、蘇我入鹿は山背大兄王を斑鳩(イカルガ)に兵を送り不意打ちした。
山背大兄王の舎人たちは奮戦し、敵将の一人を討つなどし、その隙に山背大兄王は妃や一族を率いて脱出し、生駒山に身を隠した。四、五日経ち、従っていた家来たちは、東国に行き、軍を起こして引き返せば勝利できると勧めたが、「戦えば、きっと勝つであろう。しかし、自分の為に万民を苦しめることはできない」と言って、斑鳩寺に入った後、一族もろとも自ら死を選んだという。ここに厩戸皇子(聖徳太子)・山背大兄王と続いた上宮王家は滅亡した。

それにしても、山背大兄王一族が自死するあたりの日本書紀の表記は、あまりにも不自然である。
蘇我本宗家が古人大兄皇子の即位を願っていることから山背大兄王を攻めたということは分かるが、かねてより皇位を求め続けていたらしい山背大兄王が、一族諸共を呼び集めるようにして滅亡したというのである。しかも、「戦えば勝つのは分かっているが万民を苦しめるわけにいかないから」と何とも理解しがたい言葉を残したというのである。
また、蘇我氏が蘇我系の天皇の即位を求めていたことは分かるが、なぜこれほどまでに山背大兄王を憎まなければならないのだろうか。血統という面からすれば、厩戸皇子は父も母も蘇我の血を引いており、さらに山背大兄王を生んだ妻は蘇我馬子の娘なのである。
考えられる一つの理由は、欽明天皇は蘇我稲目(馬子の父)から二人の娘を妻に迎えていたが、その一人は推古天皇らを生み、いま一人(小姉君)は、厩戸皇子の母となる穴穂部間人皇女らを生んでいるのである。この小姉君の子孫はどうも蘇我氏と対立することが多かったような気配がある。もしそうだとすれば、小姉君は蘇我稲目の実子ではなく、物部氏の娘のような気がするのである。全くの想像であるが、そうであるとすれば、蘇我本宗家としては、物部氏の血を引く山背大兄王を即位させることはとても容認できなかったと考えられる。

このような推理が成立するとすれば、厩戸皇子が物部氏討伐に加わったことや、蘇我馬子と共に推古朝を支えたという日本書紀などの記録は、そのまま受け入れてよいのか疑問が残る。
さらに言えば、山背大兄王滅亡の様子を見ると、何としても山背大兄の上宮王家を歴史の表舞台から消し去る必要があったように見える。むしろ、山背大兄王という人物や一族は、本当に存在していたのかとさえ思えてしまうのである。これは、私個人の想像ではなく、そのように主張する研究者もおり、上宮王家には謎が多すぎる。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 11 )

2017-02-22 08:44:47 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 11 )

大化の改新

『 皇極天皇四年の六月十二日、天皇は大極殿にお出ましになった。古人大兄が傍らに控えていた。
中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は、蘇我入鹿が疑い深い性格で、昼夜に剣を携えていることを知り、俳優(ワザオキ・芸人)を使って剣をはずさせようとした。入鹿は笑って剣をはずし、座に着いた。
倉山田麻呂(クラノヤマダマロ・蘇我氏。入鹿の従兄弟)は玉座の前に進み出て、三韓の上表文を読み上げた。

その時、中大兄は衛門府に命じて、十二の通門を封鎖して行き来を禁じ、衛兵を一ヶ所に集めて賞禄を与えようとした。そして、中大兄は自ら長槍を取って大極殿の傍らに隠れた。中臣鎌子らは弓矢を持って中大兄を守った。海犬養連勝麻呂(ウミイヌカイノムラジカツマロ)に命じて、箱の中の二本の剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田(カツラギノワカイヌカイノムラジアミタ)とに授けて、「油断するな、不意をついて斬れ」と命じた。子麻呂らは水で飯を流しこんだが、恐怖のため嘔吐した。中臣鎌子は叱り励ました。
倉山田麻呂は、上表文の読み上げが終わろうとしているのに子麻呂らが来ないので不安になり、全身汗みずくになり、声を乱し手を震わせた。
鞍作臣(クラツクリノオミ・蘇我入鹿のこと)は不審に思って、「なにゆえ震えているのか」と訊いた。倉山田麻呂は、「天皇のお側近くなのが畏れ多く、不覚にも汗が流れるのです」と答えた。

中大兄は、子麻呂らが入鹿の威勢に押されて襲いかからないのを見ると、「やあ」と気合を掛け、子麻呂らと共に不意をついて、剣で以って入鹿の頭と肩を斬り裂いた。入鹿は驚いて立ち上がった。子麻呂は手で剣を振り回して入鹿の片足を斬った。
入鹿は転がりながら玉座のもとに辿り着き、叩頭して、「皇位に坐すべきは天の御子です。私めに何の罪があるのですか。どうかお調べください」と言った。
天皇は大いに驚き、中大兄に仰せられた。「なぜこのような事をするのか。何事があったのか」と。
中大兄は地に伏して奏上した。「鞍作は天皇家をことごとく滅ぼして、皇位を傾けようとしています。どうして天孫を鞍作に代えられましょうか」と。

天皇は立って殿中に入られた。
佐伯連子麻呂・稚犬養連網田は入鹿を斬り殺した。
この日に、雨が降り、あふれた水で庭は水浸しになった。敷物や屏風で鞍作の屍を覆った。 』

以上は、中大兄皇子と中臣鎌子が主導して皇極天皇の面前で蘇我入鹿を斬り殺した場面を、日本書紀から抜粋したものである。
この後中大兄皇子は、皇族や群臣たちや諸豪族たちを集めた上で、入鹿の屍を父である大臣蘇我蝦夷に送り届けた。事情を知った蝦夷は、宝物などを焼き自刃する。ここに蘇我本宗家は滅亡し、歴史に大きな動揺を与えたことは確かであろう。
この暗殺劇は、中大兄皇子と中臣鎌子の劇的な出会いから慎重に計画されてきたもので、かつては、この事件そのものを「大化の改新」と呼ぶことが多かった。さすがに最近では、この事件の年の干支をとって「乙巳の変(イッシノヘン)」と呼ぶのが一般的である。
それでもこの事件を、この時代における最大のクーデターであったとする意見は根強い。しかし、本当にそれほどの事件であったのだろうか。

長年大和政権に勢力を張っており、天皇擁立にも大きな影響力を持っていた蘇我本宗家の親子を武力で倒したのであるから、その後の歴史に与えた影響は小さくはないだろう。クーデターと呼ぶのも大げさ過ぎることもないかもしれない。
しかし、クーデターというのは、武力によって政権を奪取することだとすれば、少し違うような気がする。確かに蘇我本宗家の勢力は絶大で、蘇我馬子は天皇であったという研究者さえいるらしい。だが、この時代の政権の中心人物は天皇だとする本稿としては、入鹿の暗殺は、外交的な意見の対立もあったのかもしれないし横暴な振る舞いもあったのかもしれないが、要は次期天皇を廻る延長線で起きた事件のように見えてくるのである。
見事なまでに実力者の暗殺に成功はしたが、中大兄皇子も中臣鎌子も政権を手にしたわけではないのである。将来の布石となったかもしれないが。

この事件は皇極天皇は事前に知らされていなかったらしく、皇極朝の多くを担っていた蝦夷・入鹿が討たれたことは相当な衝撃であったようである。中大兄皇子も皇極天皇を支える重要人物の一人であったと考えられるが、おそらく後継者の有力候補とみなしていた実の息子によって、最も信頼していた重臣が目の前で惨殺されてしまったのである。
皇極天皇は、皇位を中大兄に伝えるよう詔(ミコトノリ)した。これまで天皇は終身在位で、存命中にその座を下りることはなかった。従って、皇極天皇の詔はわが国最初の譲位による皇位継承を実現させようとしたものである。しかし、事の経緯を見ると、皇極天皇は、「とてもやってられないわ。それならお前がやりなさい」といった気持であったのではないかと推察してしまうのである。

皇極天皇の意向に関わらず、中大兄皇子には即位できる環境にはなかったようである。つまり、それだけの実力も群臣の支持もなかったと思われるのである。
古代について学ぶ時、それも私のような趣味レベルの場合は、その根本となるのは「古事記」と「日本書紀」にほぼ限られる。この両書であれば簡単に目にすることができるし、研究書も多く出版されている。
この両書について、その信頼性を云々する意見は古くからあるが、完全無視にして当時を推し測ることは不可能といえる。ただ、この両書に限らず現代にいたるまで、公文書に近い物であればあるほど、発行された当時の権力者の思惑が加味されていることを配慮しておく必要があることも否定できない。
そう考えた時、中大兄皇子の人物像や乙巳の変の背景などは、素直に両書の記述を受け取ることが出来ないような気もするのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 12 )

2017-02-22 08:43:01 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 12 )

皇極天皇の謎

中大兄皇子らによる時の権力者蘇我入鹿を暗殺したという事件は、天皇の面前であったことでもあり大事件であったことは確かである。
現在ではこの事件を「乙巳の変(イッシノヘン)」と呼ぶのが通説で、大化の改新というのは、この後の孝徳天皇の御代に行われた一連の改革を指すことになる。
また、クーデターと呼ぶこともあるが、その実態はクーデターに程遠い気がする。入鹿が横暴を極め天皇の地位を狙ったから誅罰したという中大兄皇子の言葉を正しいとすれば、それは政権奪取ではなく、不埒な君臣を討っただけのことであり、政権奪取の意思がなかったことになる。

皇極天皇はこの事件を受けて、皇位を中大兄皇子に譲るむね詔(ミコトノリ)する。クーデターを認めた形であるが、息子の勝手な振る舞いに怒っているようにも見える。
天皇の詔を受けて中大兄皇子は腹心の中臣鎌子に相談すると、「古人大兄皇子は兄(異母兄)であり、軽皇子(カルノミコ・皇極天皇の同母弟)は叔父である。ここで殿下が即位すれば、弟としての謙遜の心に反するでしょう。しばらくは叔父君を立てて民の望みにこたえるのが良いでしょう」と申し上げたという。日本書紀の記事であるが、思わず本音が漏れてしまったのか、民の望みは軽皇子即位だと忠告したのである。
そこで、中大兄皇子の内密の申し出を受けて、皇極天皇は軽皇子に譲位された。軽皇子は再三固辞し、古人大兄皇子が適任と申し出た。そのような事が繰り返された結果軽皇子が即位し孝徳天皇誕生となる。この部分の記録も、軽皇子と古人大兄皇子が皇位を譲り合ったかのように記されているが、その中に中大兄皇子は入っていないのである。

孝徳天皇の即位は、皇極天皇四年の六月十四日となっているが、入鹿が暗殺されたのは十二日のことで、朝廷内にさしたる混乱も起きていないのである。
新政権は、皇極前天皇には皇祖母尊(スメミオヤノミコト)という尊号が与えられ、皇太子に中大兄皇子、左大臣は阿倍内麻呂(アヘノウチマロ)、右大臣は蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌子を内臣とした。
右大臣や中臣鎌子は事件の功労を賞されているようであるが、新天皇は皇極天皇と同様蘇我の血を受けており、本宗家は滅亡したとはいえ蘇我氏が全滅したわけではなかった。結果としては、皇族や群臣の勢力図に若干の変化があった程度のようにも見える事件なのである。
中大兄は引き続き皇太子の地位にあり、次期天皇の最有力候補の地位を保っている。研究者によっては、今回ばかりでなく、この後も中大兄皇子がなかなか皇位に就かなかったのは、その方が自由に朝廷の改革が進められると考えたからであると説明しているものもあるが、今一つ納得できない。

孝徳天皇は、皇極天皇四年を「大化元年」に改めた。これまでわが国には元号は無く、天皇の統治年数を記していた。「大化」はわが国最初の元号であるが、この次の「白雉」と合わせて十年ほどで、孝徳天皇の崩御と共に従前に戻っている。
この時代を象徴する言葉の一つとして、「大化の改新」という言葉があるが、どうも独り歩きしている感がある。初めて元号を設定したのは大きな出来事といえばいえるし、戸籍や田畑の調査、官位などを新しく制定したりしているが、天皇の周辺はさわがしく、十分な協力体制を得られなかったように見える。即位翌年、翌々年と「改新の詔」を出しているが、それほど革命的とは言えまい。
朝鮮半島諸国などとの関係は厳しくなっていたし、何よりも国内の皇族や群臣から十分な協力は得られなかったようである。そうとはいえ、孝徳天皇が意欲的に統治にあたっていたらしく、この期間の改新の実行者が中大兄皇子という説は、とうてい納得できない。

孝徳天皇の皇太子として、朝廷内でそれなりの働きはしたことであろうが、この皇子が力を注いでいたのは、自分の勢力拡大と競争相手を滅亡させることであったようだ。
最大の競争相手である古人大兄皇子は、先の皇位争いの時点で、身の危険を察し出家して吉野に入っていたが、中大兄皇子は気を許すことなく、謀反の疑いで討伐している。さらに、乙巳の変で協力を受け、娘二人を妃としている蘇我倉山田麻呂も謀反を理由に誅罰しているのである。
中大兄皇子が主導したものか、中臣鎌子があおったものか分からないが、この皇子は陰惨な手法に優れていたように思えてならない。

そして,終には、そのターゲットは孝徳天皇に及んでいる。
孝徳天皇が遷都を行なった時期は今一つはっきりしないが、即位の翌年末には難波長柄豊崎宮(ナニワノナガラノトヨサキノミヤ)に移ったようである。まだ仮宮で他の施設も利用しながらのようであるが、難波の地は外交上の要所であった。天皇が難波を選んだのは、朝鮮半島諸国との関係が難しい時期であったことや、統治者としての意欲からか、あるいは旧勢力から距離を置く狙いもあったのかもしれない。
しかし、飛鳥の地を離れることは群臣たちに不評であったようである。中大兄皇子は孝徳天皇に飛鳥へ戻ることを迫り、受け入れられなくなると、皇祖母尊として依然影響力を持っている母(皇極天皇)、孝徳天皇の間人皇后(ハシヒトコウゴウ・中大兄と同母の妹)、さらに一族の多くを引き連れて飛鳥へ去ってしまったのである。群臣の多くもこれに従ったという。
孝徳天皇はやがて失意のうちに崩御する。

この強引な事件は、中大兄皇子の実力を見せつけるものと思われる。しかし同時に、そこには皇位を離れていてもなお皇極前天皇の存在感が強く感じられるのである。
皇極天皇の在位期間は僅か三年半ほどである。皇后時代から隠然たる力を擁していたのかもしれないが、中大兄皇子はよほどこの実母を頼りにしていたらしい。
そう言えば、皇極天皇という人物には謎に包まれている部分がある。

宝皇女(皇極天皇)は、敏達天皇の曽孫であり、母系を辿っても欽明天皇の曽孫である。つまり、本当は宝皇女ではなく、宝姫王とでも呼ばれていたはずである。その宝皇女は、最初、高向王(タカムクノオオキミ)と結婚している。高向王は用明天皇の孫とされるが、父の出自は不詳である。二人の間に漢皇子(アヤノミコ・生まれた時点では皇子とは呼ばれなかったはずである)が生まれている。この二人のその後の動静が全く記録に残されていない。
やがて、どういういきさつか、田村皇子(舒明天皇)に嫁ぎ皇后となるのである。
この流れをどう理解すればよいのか。宝皇女は、人並み優れた美貌の持ち主か、特別な霊力を有していたのか、それとも何らかの特別な人為的な力が働いていたのか、謎は深い。
そして、高向王と漢皇子のその後は辿れないのか・・・。ここにも謎が隠されているように思えてならない。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 13 ) 

2017-02-22 08:42:18 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 13 )

皇極から斉明へ

先帝皇極に皇太子中大兄皇子、さらには皇后間人皇女にも去られた孝徳天皇は、失意のうちに崩御する。
群臣の多くも難波の地を離れたとされているから、孝謙天皇が行なおうとした「大化の改新」は多くの賛同を得ることが出来なかったのかもしれない。
しかし、日本書紀の記録からだけ判断すれば、これらの行動は中大兄皇子の天皇に対する謀反であり、先帝皇極の身柄は、皇族や群臣たちを抑えるための人質のように見ることも出来る。

孝徳天皇の崩御により、当然後継問題が起きたと考えられる。しかし日本書紀は、全くそのような事には触れておらず、孝徳天皇崩御の四十日後には皇祖母尊(スメミオヤノミコト)になっていた皇極天皇が、斉明天皇として即位したことをさらりと述べているのである。
この時点では、これまでの中大兄皇子を中心とした勢力による暗躍もあって、中大兄皇子に対抗する皇位継承者はいなかったと思われるが、そのような事も記されておらず、ごく当然のように斉明天皇が誕生している。一度退位した天皇が再び即位することを重祚(チョウソ)というが、わが国最初の重祚であり、譲位・重祚ともこの天皇が初めての例を作ったことになる。因みに、譲位される天皇はこの後多く登場するが、重祚された天皇はこの天皇以外には、この後述べることになる孝謙(称徳)天皇だけである。共に女性天皇である。( なお、後醍醐天皇も二度帝位についているので重祚だとする意見もあるが、これは南北朝の混乱の中のことで、意味合いが違うと考える。)

それはともあれ、皇極天皇は今度は斉明天皇として統治者となった。
この天皇の御代は、皇極朝が三年半、斉明朝が六年半ほどで、孝徳天皇の治世九年余を挟んで合計十年ほどである。結果論であるが、皇極天皇は、最大の支援者であった蘇我入鹿暗殺事件を受けて、「とてもやってられない。じゃあ、お前がやりなさい」とばかりに、事件の首謀者である息子の中大兄皇子に皇位を投げ出したのであるが、群臣はとても中大兄皇子の即位を認めることが出来ず、妥協の産物として孝徳天皇が誕生し皇極の意志を引き継いだと思われるが、政治手腕はともかく、皇族や群臣たちの信望はとても皇極天皇には及ばず、内乱状態となり失意のうちに崩御してしまった。
「仕方ありませんねぇ」とばかりに、前例のない斉明即位という重祚となったのは、内乱に近い状態に追い込んだ首謀者である中大兄皇子の即位は、全く容認されることではなかったのではないかと思われる。個人的な見解であるが。

さて、再び飛鳥の地に戻り、板蓋宮(イタブキノミヤ)で即位した斉明天皇の御代について、日本書紀の記述をもとに気になる事項を挙げてみよう。
まず、日本書紀の斉明天皇の巻は、『天皇は、初めに用明天皇の孫の高向王(タカムカオウ)に嫁ぎ、漢皇子(アヤノミコ)を生んだ。後に舒明天皇に嫁いで、二男一女を生んだ・・・』という書き出しになっている。
皇極天皇の巻にはこの記述はなく、どうして斉明天皇即位のところで記述した日本書紀編纂者の意図は何だったのだろうか。そして、この高向王とは、漢皇子とは歴史という舞台でどういう役柄を演じているのだろうか。何らかの意図で身を隠して大役を果たしているのか、それともこのまま消えてしまっているのか・・・。この天皇の最大の謎のように思われる。

斉明天皇の御代を通じて、朝鮮半島諸国との関係は厳しい時代が続いたようである。
古くから朝鮮半島の諸国を通じて、中国、あるいはさらに西方の世界との交流は、現代人が考えるより盛んであったようである。それは文献に残されているもの以上に、発掘される土器や器物が物語っているようである。さらには、人的な交流となれば、この天皇の御代には多くの帰化人がいたであろうし、すでに土着が進み有力な豪族や官人・貴族、皇族にもその血統は加わっていたと考えられる。大和朝廷が、執拗なまでに朝鮮半島諸国との交流や戦いを推し進めたのには、単なる利害ではなく人的な結びつきがあったと推定できる。そして、この頃には、勢力争いということでは大和朝廷が劣勢になりつつあったようだ。
当然それが、国内政治、皇族や豪族間の勢力バランスにも少なからぬ影響を与えていたはずである。

即位した板蓋宮は、その年の冬に火災に遭い、飛鳥川原宮(アスカノカワハラノミヤ)に遷られた。この宮は以前からあったもののようで、翌年、やはり飛鳥の岡本に新しい宮殿を建設して遷った。
これが切っ掛けになったのか、あるいは何らかの意図があったのか、あるいは誰かの進言によるものなのか分からないが、この後多くの事業を行ったようである。日本書紀には、「事を興すことを好みたまひ・・・」と記されていて、工夫三万人、石垣工夫七万人余を投入した溝を掘る工事を、「狂心の渠」と当時の人々が言ったと記している。

また、孫の建王(タケルノミコ)の死去に関して、哀歌を含め詳しく記されている。この御子は中大兄皇子と蘇我倉山田麻呂の娘の間に生まれ、中大兄皇子にとっては数少ない男子で、有力な後継者と考えられるが、口がきけず八歳で夭折したのである。斉明天皇はこの孫を溺愛していたようであるが、「万歳千秋の後(天皇の死後を指す言葉)に、必ず我が陵に合葬せよ」とまで言い残し、日本書紀も多くの紙面を割いている。天皇の悲しみの大きさは理解できるとしても、日本書紀を歴史書として考えるならば、単なる一王子死去の記事としては、何か裏があるように疑ってしまうのである。

そして今一つ、古代史上名高い悲劇の一つともいえる有間皇子が十八歳の若さで刑死させられたのもこの天皇の御代である。有間皇子は孝徳天皇の皇子であるが、謀反の罪による処罰というのは、この時代の謀殺の常套手段のようなものである。当然のように、その首謀者は中大兄皇子と考えられるが、こんな若い皇子さえも、自分の立場を侵す恐怖の対象者と考えていたのであろうか。この人物を理解することも難しい。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 14 )

2017-02-22 08:41:28 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 14 )

中大兄皇子と大海人皇子

斉明天皇の最晩年、斉明天皇七年(661)一月、六十七歳の女帝は筑紫に出陣した。かねて支援していた百済が新羅・唐の連合軍により滅ぼされてしまったため、これを救援し復活させるためであった。軍勢には、中大兄皇子、大海人皇子(オオアマノミコ)らに加え、大海人皇子の妻である太田皇女・鸕野皇女(ウノノヒメミコ・後の持統天皇)等の女性も引き連れていた。当時は女性も先陣に加わることも珍しいことではなかったようである。かの有名な額田王(ヌカタノオオキミ)も加わっていたらしい。

この出陣の様子を見ると、幾つかのことが想像できる。
まず、天皇が出陣するからには、当然総大将は天皇であろうが、老女帝にそれだけの実力が備わっていたのであろうか。まさか武力が優れていたとは思えなかったが、欠かすことの出来ない霊力を有していたのかもしれない。
今一つは、おそらく中大兄皇子の思惑からであろうが、天皇を飛鳥に残しておくことに危険を感じたのではないだろうか。数多くの謀略を駆使してきただけに、自分に対する危険にも敏感であったと思われる。つまり、天皇の出陣は、中大兄皇子の身の安全のためであった可能性が高い。
斉明天皇は遥々筑紫に下向したが、さらに朝鮮半島にまで向かうつもりがあったのかどうかは分からないが、七月に崩御する。波乱多い天皇の崩御の地が九州であったことに哀れを感じる。

斉明天皇の崩御を受けて、「皇太子、素服(ソフク・白い喪服)して称制(ショウセイ・天子の後継者が即位せずに政務を執ること)したまふ」と日本書紀に記されている。
当時、天皇崩御から次期天皇即位まで数か月かかるのはふつうで、一年を越えることも珍しくなかった。しかし、中大兄皇子が天智天皇として即位するのまで、六年半を要しているのである。女帝を筑紫まで下向させるほど海外との関係は厳しい状態であったと考えられるが、即位が遅れたのはそのためとは考えにくい。また、次期皇位を狙うと考えられる人物は、すでに謀略に遭って世を去っており、中大兄皇子が即位するのに何の障害もないはずである。
考えられることとしては、皇位は、自分が就くと言って就けるものではなく、当時は群臣の推挙を必要としていたらしいことである。彼には、それが無かったと考えるのが妥当のように考えられる。

称制から五年余を経た(667)三月に中大兄皇子は近江大津宮に遷都を行なった。そして、その翌年一月、ついに即位する。天智天皇の誕生である。
遷都の時期の切っ掛けは、二月に斉明天皇と間人皇女(ハシヒトノヒメミコ・孝徳天皇の皇后で、中大兄皇子の妹に当たる)を、御陵に合葬したことのようである。しかし実際は、朝鮮半島における大和朝廷軍の敗戦を受けて、群臣たちの非難、不満が抑えきれなかったためと考えられる。日本書紀にも、「万民は遷都を願わなかった」と記している。
つまり、近江への遷都には、群臣のすべてが従わなかったと考えられ、近江の地においてはじめて群臣の推挙を受ける形が整ったと考えられる。
日本書紀は、天智天皇即位後について相当の紙数を割いている。また、皇極天皇の御代の頃から、まるで政権の中核にあったかの印象もあるが、正式の天皇としての治世期間は四年に過ぎないのである。

天智十年(称制も加えている。671)九月に天智天皇は病気になった。
十月十七日、病はいよいよ重くなり、大海人皇子を呼び寄せて言った。「自分の病は重い。後事をそなたに託したい」と。
大海人皇子は答えた。「どうぞ、天下のことは大后(オオキサキ・倭姫大后)に付託され、大友王(オオトモノオオキミ)にすべての政務を執り行うように申されてください。私は、天皇の為に出家して修業したいと願っています」と。
天皇が許可すると、大海人皇子は内裏の仏殿の南に出て髭や髪を剃り落とした。天皇は袈裟を贈った。
十九日に、大海人皇子は天皇と面会し、吉野に参って仏道修業をしたいと願い出た。天皇の許しが出ると、ただちに吉野に向かった。大臣たちは宇治まで見送って引き返した。

大海人皇子は天智天皇の皇太子の地位にあった。当然後継者の最有力者と目されていたと考えられる。しかし、天皇は実子の大友皇子を太政大臣に就かせており、この皇子に継がせたい気持ちを持っていることを大海人皇子は察していた。そして、天智天皇という人物が、目的のためには手段を選ばないことを数多く見てきていたはずである。
大海人皇子は、妻子や一族や舎人たちを供に連れて、近江脱出に成功したのである。その妻子の中には、天智天皇の娘であり正妃である、後の持統天皇も同道していた。

中大兄皇子と大海人皇子は、父母を同じくした兄弟とされている。父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)である。日本書紀には大海人皇子を「大皇弟(ヒツギノミコ)」と記されているので、中大兄皇子が兄、大海人皇子が弟ということになるが、これがどうも断定しがたい。
中大兄皇子の生年は、西暦626年で、定説と考えられている。一方の大海人皇子の生年は、文献にある死去の時の年齢等から推察して、622年、623年、631年という説があり、いずれも通説の域には達していない。つまり、二人の年齢は、どちらが上とは断定できないのである。
大海人皇子の幼少期の記録は少なく、どうも謎めいている。皇極天皇が最初に嫁いだ高向王との間の御子・漢皇子(アヤノミコ)こそ大海人皇子なのだという研究者があり、個人的には強く引かれる。もし、そうでないとしても、二人は異父兄弟であった可能性があり、大海人皇子には、飛鳥、あるいは尾張あたりの豪族に影響を持つ人物がいた可能性は高いと思われる。
皇極天皇(斉明天皇)が設けた二人の皇子は、やがて、壬申の乱へと突き進んでいくのである。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 15 )

2017-02-22 08:40:36 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 15 )

壬申の乱

壬申の乱は、天智天皇崩御後、その跡を継いだ第一皇子の大友皇子率いる近江朝廷軍と、吉野に隠遁していた天智天皇の実弟とされる大海人皇子が率いる地方豪族を中心とした勢力とが激突した、古代における最大の内乱である。
動員された兵力は、双方共に二万とも三万ともいわれ、当時としてはとてつもない兵士が動員されたものであったらしい。

大友皇子は、この時二十四歳。天智天皇の第一皇子とされているが、天智天皇は数多くの子女を設けており、いわゆる長男という意味ではなく、身分的に最上位の皇子という意味であろう。ただ、当時の常識として、皇位は父から子へと自動的に相伝されるものではなく、兄弟あるいは皇后も有力候補者であった。それまでの即位時の天皇の年齢は、三十歳以下というのは少なく、兄弟への相伝というのが多いのである。
それに、大友皇子の母は皇女ではなく、いわゆる卑母と呼ばれる身分の女性であったから、簡単に皇位を継承できる立場ではなかった。現在、大友皇子は第三十九代弘文天皇として認知されているが、それは明治時代に入ってからのことである。正式に即位したという説もあるようだが、いくつかの条件を考えれば、事実とは考えにくい。

因みに、天智天皇には多くの妻に当たる女性がいるが、皇女が一人もいないというのも不思議であり、この天皇の本性が見えるような気もする。皇后の倭姫王の父は古人大兄皇子なので、舒明天皇の孫に当たる皇族の一員である。同時に、古人大兄皇子は天智天皇の義兄であり、謀反の罪で中大兄皇子(天智天皇)に討たれている。後の持統天皇らを儲けた遠智娘(オチノイラツメ)の父は蘇我山田石川麻呂で蘇我本宗家が滅亡した後は族長の地位にある有力者であった。この人物からは今一人姪娘(メイノイラツメ)が妻となっていて、後の元明天皇らを儲けている。
この後の、皇位継承者には天智天皇の血脈が伝えられていくが、母系でいえば、蘇我氏の色が強いともいえる。しかし、この石川麻呂も、乙巳の変で天智天皇に味方しながら、四年後には謀略にかかり自害に追い込まれているのである。
その他にも多くの妻がいたと考えられるが、大友皇子の母である伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ)をはじめ、有力豪族の娘ではあるが皇族とは縁の薄い出自であったようだ。

さて、一方の大海人皇子であるが、一族と舎人などの供と共に近江を離れ吉野宮に入ったが、この時、左大臣蘇我赤兄(ソガノアカエ)らが見送ったが、これは、儀礼的なことよりも、間違いなく吉野に向かうのを確認するためであったと考えられる。近江の都近くで兵を挙げられる危険を感じていたのかもしれない。実際に日本書紀には、ある人は「虎に翼を着けて放った」と言ったとし、また吉野に着いた時には、大海人皇子は、諸々の舎人を集めて「自分はこれから仏道修行を行う。そこで、私に従って修業しようと思う者は留まれ。もし朝廷に仕えて名を成そうと思う者は引き返して宮廷に仕えよ」と言ったが、誰一人去る者はいなかったという。
この時、舎人がどれほどいたのか分からないが、皇太子付の舎人の定員は六百人とされていたので、おそらくそれに近い数百人はいたと考えられ、壬申の乱では舎人たちが活躍している。
つまり、近江朝廷は大海人皇子の謀反を心配し、大海人皇子自身もその気十分だっと考えられるが、重病の天智天皇は簡単に虎を野に放ってしまったのである。
数多くの謀略を重ねてきたと考えられる天智天皇は、最後の最後で判断を誤ったように思うのである。

壬申の乱は、当時しては広範囲、かつ大兵力の激突となったが、戦いの模様を詳述することは本稿の目的ではないので割愛するが、迅速な動きと美濃などの地方豪族を味方につけた大海人皇子方が勝利する。大海人皇子が吉野を出てから一か月余りで近江朝廷軍は壊滅、大友皇子も死に追い込まれている。
この結果、大海人皇子は天武天皇として即位することになるが、両親を同じくする兄弟とされる中大兄皇子と大海人皇子は、もっと穏やかな形で皇位継承を成すことが出来なかったのだろうか。壬申の乱に至った原因を少し探ってみよう。

まず、はっきりしていることは、他に様々な要因があるとしても、直接的な原因は、天智天皇の実子である大友皇子と大皇弟(ヒツギノミコ)あるいは皇太子とされていた大海人皇子との皇位争いという、ごくごく単純なものといえる。そして、当時の常識としては大友皇子に皇位を継がせるための群臣の推挙を受けられないことは承知していながら、天智天皇が大海寺皇子を謀殺することなく野に放ってしまったことが大友皇子を滅亡に追い込んでしまったのである。

あるいは、そもそも天智天皇の近江への遷都には不満をいだく豪族・群臣は多かったことが、皇族を含めた朝廷を二分させる要素を含んでいた可能性があったのかもしれない。さらに言えば、遷都だけでなく、それまでの天智天皇つまり中大兄皇子の謀略はあまりにもひどく、鬱屈した思いの勢力が大海人皇子支持に回っていた可能性もある。

そして、どうしても、中大兄皇子と大海人皇子の関係の謎が浮かび上がってくる。
日本書紀には、中大兄皇子は早くから登場してきているが、大海人皇子の消息は、中大兄皇子つまり天智天皇の最晩年までは極めて断片的である。中大兄皇子は、早くから敵対勢力、あるいは将来敵対勢力になり得る相手を主として謀略を以って滅亡させている。しかし、大海人皇子は一度もその対象になっていない。大海人皇子は献身的に兄に仕え続けていたのか、あるいは別の理由があるのか・・・。私に別の理由があるように思われてならない。何も立証できないが。

さらに、この二人の関係を語る時、必ず登場してくるのが、額田王(ヌカタノオオキミ)である。
この古代史のトップクラスのヒロインは、最初は大海人皇子に嫁ぎ十市皇女(トイチノヒメミコ)を儲けていたが、その後中大兄皇子の妃になっている。ただ、その後も額田王と大海人皇子の関係は微妙なものであったらしく、これが壬申の乱につながる下地になっているという説がある。これは単なる憶測ではなく、万葉集に残されている二人の歌は、それが恋愛歌を収めている「相聞」の部ではなく「雑歌」の部に乗せられているからといって、二人の関係にただならぬものを感じるのを否定することはできない。その歌を記しておこう。
『 あかねさす 紫野行き 標野(シメノ)行き 野守は見ずや 君が袖振る 』( 額田王 )
『 紫草(ムラサキ)の 匂へる妹(イモ・主に妻や恋人を指す)を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも 』( 大海人皇子 )

この歌が詠まれたのは、天智天皇が即位した年のことで、狩猟の後の宴席の場で群臣居並ぶ中のことであったとされている。
額田王を廻る二人の皇子の恋心が、国家を二分する戦いを導いたのだとすればなかなかドラマチックではあるが出来過ぎのような気がする。しかし、同時に、歴史を大きく動かせるような大事も、その根幹に個人の業(ゴウ)のようなものがあるものだとすれば、この説を一笑に付することも出来まい。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 16 )

2017-02-22 08:15:10 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 16 )

白鳳文化

白鳳文化という言葉がある。天武・持統朝を中心とした時代に興隆した文化を指すが、時には白鳳時代という言い方をすることもある。
その期間には、狭義のもの広義のものと捉え方に差はあるが、天武・持統朝を中心とした40~60年間を指す。都の位置を中心に考えれば、飛鳥時代の一部といえないこともない。
その文化の特徴は、記紀(古事記と日本書紀)の編纂開始や、万葉歌人の活躍、仏教文化の興隆などが挙げられようが、実は、天皇権威の確立、律令の制定などの政治的変化も大きな意味を占めているのである。

さて、壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥に凱旋し、母である斉明天皇(皇極天皇)の王宮・後飛鳥岡本宮に入った。そして、その南に新しい宮殿を造った。飛鳥浄御原宮(アスカキヨミハラノミヤ)である。
翌天武天皇二年(673)二月に即位する。天武天皇の誕生である。
天武天皇の御代は、崩御するまでの十三年半に及ぶ。その治世について詳述しないが、幾つかの大きな変化を生み出している。

まず、天皇の権威が高まったと考えられることである。万葉集の中に、壬申の乱の後の歌として、『 大王は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 京師(ミヤコ)と成しつ 』というのがある。継体天皇以後の天皇を思い浮かべた場合、神の神託を得る云々ということはあるとしても、神そのものとした記録などは無いように思われる。壬申の乱という、これまで人々が体験したことのない大規模な内戦に勝利した事も起因していると考えられるが、もっと違う理由、あるいはもっと巧妙な仕掛けがなされていたのかもしれない。

次に、「天皇」という称号の出現である。天皇という称号の成立については、推古天皇の時代という説もあるが、前項を補佐する理由となるが、天武天皇を尊称する形で登場したという考え方が有力のようである。本稿では天皇という称号をすべての天皇に用いているが、天智以前はおそらく大王と呼ばれていたと考えられる。また、天皇名を漢風諡号で記しているが、生前に使われることはなく便宜上のことである。
また、ほぼ同時期に「日本」という表記も誕生したと考えられている。わが国の呼び名は、相当古くから「ヤマト」であったらしく、外国文献では「倭」の文字が当てられている。「大和」という表記もあるが、こちらはむしろ近代でも使うことがあったように思われる。その「倭」が「日本」に変わっていった背景には、太陽神、つまり天照大神を意識した部分があったかもしれない。それは、白鳳時代における天皇権威を高める手段に、天照大神の存在が見え隠れするように思われるからである。
いずれにしても、白鳳時代の政治的な変化は、後世のわが国に少なからぬ影響を与えていることは確かであろう。

それにしても、天武天皇について日本書紀はじめいくつかの研究書を読めば読むほど謎が深まる。
天武天皇とは、本当は何者であったのか。天武天皇と天智天皇の関係はどういうものであったのか。子供を相手とはいえ、壬申の乱という古代における最大の内乱を引き起こしてまで、正義がいずれにあるかはともかく、皇位を簒奪した天武天皇の天智天皇の御子たちに対する対応は、理解するのがなかなか難しい。 
天智天皇は多くの妻(正式の妻妃かどうかはともかく)を持ち多くの御子を得ているが、皇位を継承させる皇子の母になれる妻は少なく、子供も男児が少ない。この時代、乗り込んできた形の継体天皇はともかく、皇位に就く候補には生母の血統が重視されていた。生母は、皇族の出自以外では、葛城氏や蘇我氏など「臣」クラスの豪族に限られていた。

日本書紀に記されている天智天皇の妻子を列記してみよう。
* 皇后は、古人大兄皇子(天智天皇の異母兄)の娘・倭姫である。
* 蘇我山田石川麻呂大臣の娘・遠智娘(オチノイラツメ)。一男二女あり。大田皇女(オオタノヒメミコ・天武天皇の妃。大津皇子らの母)、鸕野皇女(ウノノヒメミコ・天武天皇の皇后。後の持統天皇)、建皇子(タケルノミコ・物が言えなかったが、斉明天皇に溺愛されるも夭折)。
* 遠智娘の妹で、姪娘(メイノイラツメ)。二人の皇女あり。御名部皇女(ミナベノヒメミコ・高市皇子の妃?)、阿閇皇女(アヘノヒメミコ・草壁皇子の妃。後の元明天皇で文武天皇の母)。
* 安倍倉梯麻呂大臣の娘・橘娘(タチバナノイラツメ)。二人の皇女あり。飛鳥皇女、新田部皇女(ニイタベノヒメミコ・天武天皇の妃)。
* 蘇我赤兄大臣の娘・常陸娘(ヒタチノイラツメ)。皇女一人あり。山辺皇女(ヤマベノヒメヒコ・大津皇子の妃)。
* 忍海造小竜(オシヌミノミヤツコオタツ・地方豪族?)の娘・色夫古娘(シコブコノイラツメ)。一男二女を生んだ。大江皇女(天武天皇の妃)、川島皇子(後に大津皇子の反逆を告発した)、泉皇女(後に伊勢斎宮)。
* 栗隈首徳万(クルクマノオビトトコマロ・山城国の豪族?)の娘・黒媛娘(クロヒメノイラツメ)。一女あり。水主皇女(モヒトリノヒメミコ・天平九年(737)没と長命であったようだが、他は未詳)。
* 越道君伊羅都売(コシノミチノキミイラツメ・豪族の娘か?)。一男あり。施基皇子(シキノミコ・芝基、志貴、志紀とも。著名な歌人で、光仁天皇の父となる)。
* 伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ・伊賀の豪族の娘か)。一男あり。伊賀皇子(大友皇子)。

以上のように、皇后の他に、子を儲けた八人が載せられている。先の四人は「臣」格の豪族の娘であるが、後継となるべき皇子はいない。次の四人は、地方豪族の娘が采女として宮仕えしていて天皇のお召しがあったらしいが、当時の天皇や貴族たちの間ではごく日常のことのようである。但し、その女性が男子を生んでも、当時の常識としては皇位に就くことはなかった。大友皇子が即位していたとか、天智天皇が弟の大海人皇子より我が子の大友皇子を皇位につけたかったことが壬申の乱の原因とするのは、本当に正しいのかいささかの疑問を感じる。
それに、壬申の乱により、大友皇子や近江朝廷の群臣が多く処刑されたりしているが、ここに書かれている天智天皇の皇子・皇女たちはそのほとんどが、それなりの待遇を受けて、むしろ大切に遇されており、後々の皇統に重要な役割を担っているのである。

さらに言えば、天武天皇は、天智天皇の皇女のうち四人を妻に迎えているのである。大田皇女と鸕野皇女は天智天皇存命中のことで理解できるが、後の二人は壬申の乱後のことと思われる。天武天皇は、何ゆえ四人もの天智天皇の皇女を妻としたのだろうか。もしそれが、天智の血脈を求めてのことだとすれば、天武・天智が父母を同じくする兄弟というのに疑問が生じる。そして、天武天皇は、なぜそれほど天智天皇の血脈を必要としたのだろうか。
やはり天武天皇は、謎多き天皇である。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 17 )

2017-02-22 08:14:19 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀( 17 ) 』

持統天皇の登場

壬申の乱を勝ち抜き、新しい王朝を築こうとしていたかにさえ見える大王、天武天皇が崩御した。朱鳥元年九月九日、西暦でいえば686年のことであった。
この朱鳥(アカミトリ、シュチョウ、スチョウ、と読み方は確定していない)という元号は、何かを物語っているように思われてならない。全く個人的見解であるが。

わが国の元号は、孝徳天皇の御代の「大化」に始まり、この後に「白雉」と改元されたが、孝徳天皇の崩御により消滅した形となり、再び、天皇年号に戻っているようである。
この「朱鳥」は、天武天皇十五年七月二十日に三十二年ぶりに制定されたものであるが、その目的は天武天皇の病気平癒を願ってのことである。
天武天皇は、この年の正月行事は自ら行ったとされているので、病気が重くなったのは、日本書紀に記されている五月の頃らしい。当然、宮中や神社仏閣で祈祷などが行われ、改元もその一環と考えられる。但し、天武天皇は改元の一か月余り後の九月九日に崩御しているので、この改元が天皇自らの意思であったかどうかは分からない。
そうだとしても、この翌年には「朱鳥」という元号は、少なくとも日本書紀では使われなくなり、天皇年号に戻っているのである。「朱鳥」という改元が天武天皇の意思でなかったとしても、その御代に制定された元号が早々に公式文書から消えているのは何故であろうか。伝えられているほど、天武天皇の存在意義は大きくなかったのではないかと推定するのは、極論過ぎるのだろうか。

もっとも、「万葉集」や「日本霊異記」には、「朱鳥」という元号が記録されているそうである。朱鳥四年、六年、七年、八年、という記録があることから、公式文書とされる日本書紀はともかく、民間など一部では使用されていた可能性がある。
次に元号が登場してくるのは、文武天皇の御代の「大宝」(701-704)であるが、もし、「朱鳥」が十五年まで続いていたとすれば、元号は継続されていたことになる。さらに言えば、「白雉」と「朱鳥」の間に、「白鳳」「朱雀」といった元号が存在していたらしい記録もあるようで、限られた地域かもしれないが、案外この間も元号が継続していたのかもしれない。
そのように考えだすと、日本書紀に、『戊午(ボゴ・ここでは七月二十日を指す)に、改元(ハジメノトシヲアラタ)めて朱鳥元年と曰(イ)ふ』とあるのも、別の元号から変更したようにも感じられてしまう。

それはさておき、天武天皇崩御により後継者問題が起こるのは当然のことである。
天智天皇崩御時には、後継者たる皇子は皆無と言える状態であった。おそらく、崩御の数年前までは、後継者は弟の大海人皇子(天武天皇)ということで群臣たちも周知していたと思われる。しかし、現実は、天智天皇が望んだことか、大友皇子が望んだことか、大海人皇子の疑心からか、あるいは群臣たちの勢力争いからかはともかく、壬申の乱という戦乱に至っている。
しかし、天武天皇の崩御時においては、後継者になり得る皇子は大勢いた。名目上は、ということになるが。

日本書紀の天武天皇八年五月の記事には、天武天皇は、皇后(持統天皇)と、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河島皇子、忍壁(オサカベ)皇子、芝基(シキ)皇子の六皇子を伴って吉野宮に行幸したことが記されている。
そこで、天皇は、「朕、今日、汝等とともに庭に盟(チカ)いて、千歳の後に、事無からしめむと欲す。いかに」と六皇子に呼びかけ、皇子たちも、「道理は、もっともです」と応じている。そして、草壁皇子が代表する形で、
「天神地祇(アマツカミクニツカミ)と天皇よ、どうぞお聞きください。私たち兄弟、長幼合わせて十人余りの王は、それぞれ異なった母から生まれました。しかし同母、異母に関わらず、共に天皇の勅(ミコトノリ)に従って、互いに助け合い、逆らうことは致しません。もし今より後、この盟(チカイ)に背くようなことがあれば、この身は滅び子孫は絶えましょう。決して忘れたり、過ったりは致しません」と誓い、他の五皇子も同様に誓った。
これに対して天皇は、「我が息子たちは、それぞれ異なった母から生まれた。しかし、今よりは、同母の兄弟のように慈しもう」と言い、さらに、「もしこの盟(チカイ)に背けば、即座にこの身は滅びるであろう」と、誓った。
『吉野の盟約』と伝えられるものである。
この六皇子のうち、河島皇子と芝基皇子は天智天皇の皇子である。この記事をそのまま受け取れば、この二人も含めて、すべて同母の、つまり同行していた皇后(持統天皇)の実子として遇するということになる。それは、六皇子はすべて皇位継承の資格があるということであるが、同時に、皇后の権威を高めることに役立つ盟約ともいえる。

ただ、天武天皇崩御が現実となれば、その後継がこの六皇子の中から選ばれるということにはならない。
天武天皇には、全部で十人の皇子がいた。それに六皇子に含まれている天智天皇の皇子を加えれば、十二人の後継候補者ということになるが、そこには、当然順位付けがされていたはずである。
生母の身分や政治的な思惑を一切排除して、これらの皇子の人格や実績のみで後継候補を考えるとすれば、幾つかの文献などから判定すれば、一位は高市皇子で二位は大津皇子ではないだろうか。現実的には皇后の実子ということで、草壁皇子が最有力であったと考えられるが、何分彼は病弱であったらしい。
また、壬申の乱において、天武天皇側が大義名分としたと想像できるものの一つは、大友皇子の生母がいわゆる卑母といわれる身分であり、天皇後継者に成りえないという主張であったと考えられる。高市皇子は、そういう事情を十分承知していたと考えられ、この皇子には皇位を望む野心はなかったらしい。
そうなれば、後継候補は草壁皇子と大津皇子に限られてくる。

大津皇子の生母は、皇后(持統天皇)と同母の姉である。大津皇子誕生の頃は、彼女が正妃であったと考えられるが、大津皇子誕生後間もなく亡くなっている。これが、現皇后を生母とする草壁皇子と致命的な差となっていたのである。
当然、皇后(持統天皇)の狙いは、草壁皇子を即位させることにあった。その布石として、天武天皇に「天下(アメノシタ)の事、大小を問わず、悉(コトゴト)くに皇后(キサキ)と皇太子(ヒツギノミコ・草壁皇子を指す)に啓(モウ)せ」との勅(ミコトノリ)を出させている。天武天皇崩御の五十数日前のことで、すでに病は重く、皇后の強い意志が働いていることは十分考えられる。
それに、年齢も草壁皇子の方が一歳上であったとされるので、草壁皇子後継で問題がないように思われる。

しかし、どうやら大津皇子という人物は相当有能であり、群臣の評価も高かったらしい。やや線が細かったともいわれる草壁皇子の母としては、天武天皇の勅程度では安心できなかったらしい。
天武天皇崩御とともに、「皇后、臨朝称制したまふ」と日本書紀には記されている。この臨朝称制(リンチョウショウセイ)というのは、臨時に政務を行うことで、即位する前にとりあえず「称制」という地位に就いたということではないと考えられる。皇后(持統天皇)は、壬申の乱においても、少なからぬ働きをしており、群臣たちを押さえるのに問題はなかったと思われる。おそらく、天武天皇に衰えが見え始めた頃から、政治の実権は皇后にあったのではないだろうか。
その朝廷内で天皇崩御以前から実権を握っていたと思われる皇后が、臨朝称制後最初に行った大事は、大津皇子を滅ぼすことであった。天武天皇崩御後二十日余り後のことで、謀反の罪に問われた大津皇子は、二十四歳にして自死に追い込まれたのである。
天武王朝においても、政敵を数多く葬っているが、大津皇子事件は、皇后の父天智天皇を彷彿させるようにも思われる。あるいは、これが当時の政争の常套手段であったのだろうか。

その後、皇后の称制時代は丸三年に及ぶ。
草壁皇子は二十五歳になっていたと考えられ、当時の即位年齢としてはやや若かったかもしれないが、それが即位にそれほど大きな障害になるとは思えない。むしろ、大津皇子の謀反事件は相当強引なもので、大津皇子に同情的な勢力の声なき声に配慮せざるを得なかったのではないか。そして、若干の冷却期間を置かざるを得なくなり、そうしてる間に、草壁皇子は二十八歳で没してしまった。持統称制三年四月のことである。
翌年一月、皇后は即位する。持統天皇の登場である。
おそらく、溺愛し、多くの犠牲を払って即位を願った草壁皇子の死去は、持統天皇といえども失意のどん底に落ちたと思われるが、その上での即位は、天皇家を護る決意とともに新たな目的に向かっての即位であったと考えられる。

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 18 )

2017-02-22 08:13:20 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 ( 18 ) 』

王朝の構図

持統天皇の即位は、三年を越える称制期間を経た持統天皇四年(690)一月のことであった。
天智天皇(実際は大友皇子)と天武天皇とが王権を争った壬申の乱は、古代最大規模の内戦であった。それに勝利したて天武天皇は天皇の権威・権力を高めることに注力した。そして、その目的は一定の成果を上げている。
同時に、天武・持統天皇の御代を白鳳時代と呼ぶことがあるように、継続した一つの王朝のように見える部分が有る。それは、持統天皇が天武天皇の忠実な後継者であったと見ることも出来るが、少し視点を変えて見れば、この両王朝は、そしてこれ以後の数代の天皇の御代さえも、持統天皇が描いた構想の中にあったように思われてならないのである。

まず一つは、天智天皇の病が重くなった時点で、身の危険を感じた天武天皇は近江から吉野に脱出したが、妻である持統も行動を共にしている。壬申の乱においても、吉野や伊勢などの勢力掌握に少なからぬ働きがあったかに思われる。うがった見方をすれば、戦乱の先頭に立ったのは天武天皇であるが、後方にあって陣営を引き締めていたのは持統であったように見えて仕方がないのである。
もう一つは、持統天皇には、珠玉ともいえる草壁皇子がいたが、それ以外に子供がいないことが気になる。もちろん、子供は天からの授かりものと考えれば、子供が一人だけだというのは不思議なことではないが、当時の皇族の女性は、一般的に多産である。御子の数が一族の繁栄に直結するからである。持統天皇の皇子が一人ということに不自然さを感じるのであるが、その理由の一つは、草壁皇子を溺愛するあまり皇位を争うような皇子の誕生を避けたのかもしれない。もっと大きな理由と推察されるのは、持統天皇の実姉であり、本来天武天皇の皇后となるべき立場にあった大田王女が大津皇子を産んだ直後に亡くなっていることにあるように思われるのである。当時の女性にとって、出産はまさに命を懸けた大事であった。草壁皇子を得た持統天皇は、草壁皇子を即位させるために命を懸ける危険を避けたのではないかと思われるのである。つまり、天武天皇との同衾を拒んだのではないだろうか。その代わりのように、壬申の乱の後に、天智天皇の皇女を二人も天武天皇の妃に受け入れているように思えてならないのである。

そして、これは定説から離れることになるが、天武天皇の出自に疑問が浮かんでくるのである。天智天皇と天武天皇は、父が舒明天皇、母が皇極(斉明)天皇の同父・同母の兄弟というのが一応の定説であるが、長幼を含め古くから異説もある。個人的な感覚であるが、やはり天武天皇は、皇極天皇が舒明天皇に嫁ぐ前の夫である高向王、あるいはそれ以外の人物を父とする出自ではないのだろうか。つまり、天武天皇の父には近しい天皇はいないのではないのではないか。
従って、持統天皇には、天武天皇の皇子といえども父系だけでは天皇位を望むことはできないという判断があったのではないだろうか。天武天皇の皇子が皇位に就くためには、后妃を通じて天皇の系譜に繋がる必要があると考えたのではないだろうか。そして、その繋がるべき系譜にある天皇とは天智天皇であったのではないだろうか。

「不改常典(フカイジョウテン)」と呼ばれるものがある。
これは、慶雲四年(707)、元明天皇即位の詔に初めて登場したとされるもので、「かけまくも かしこき近江大津宮に あめのしたしらしめしし 大倭根子天皇(オオヤマトネコノスメラミコト・天智天皇)の、天地(アメツチ)と共に長く 日月(ヒツキ)と共に遠く 改(カワ)るましじき 常の典(ツネノノリ)と 立て賜ひし敷き賜へる法(ノリ)」という言葉を指す。
この言葉の意図するところは、皇位継承法であるという考え方と、国家統治法とする見方があるようだ。個人的には、皇位継承の正統性を補強するものと受け取っている。

当時の皇位継承の条件の一つに、年齢の条件があったと考えられる。父や母の系譜はもちろん重視されたが、概ね三十歳程度が即位の条件と考えられていたようで、日本書紀などにも年齢を重視しているかの表現はいくつか見られる。
この「不改常典」というものが本当に天智天皇によって発せられたものとすれば、年齢が二十二、三歳であり、生母の系譜も条件に程遠い大友皇子を、直系相続が何より正しいのだと強引に詔したものと想像される。
しかし、皇位は、壬申の乱により天智から天武に移っており、「不改常典」が元明天皇の即位の時点で登場してきているのは、いかにも不自然である。そのような考え方が皇室周辺で醸成してきていたとすれば、詔を発するのは天武天皇となるのではないかと思われる。

つまり、「不改常典」は持統天皇から文武天皇に譲位する時点で生み出されたもののように感じられてならないのである。
文武天皇は、持統天皇が愛してやまなかった故草壁皇子の子供であり、母は天智天皇の皇女で後の元明天皇であるから、系譜においては非の打ち所はない。しかし、現天皇からいえば孫の世代であり、年齢も十五歳であった。かなり、強引な譲位であり、それを補強する伝家の宝刀として登場してきたのではないだろうか。
しかも、その発信者は天武天皇ではなく天智天皇であることは、実に興味深い。これは個人的な想像であるが、この詔が、皇位継続に大きな影響を与えるためには、天武天皇では容認されない何かが、持統天皇にも、当時の皇族や有力豪族たちの中に潜在していたように思われるのである。そして、その何かとは、天武天皇の出自に関する事と想像するのである。
この「不改常典」は、少なくとも、元明・元正、そして聖武天皇の誕生までは大きな働きをしたと考えられるのである。

持統天皇の御代は、称制時期を含めて十一年ほどである。
天武天皇の御代と合わせて白鳳時代と称せられるほどであるから、政治的、文化的にも業績は小さくないと考えるべきであるが、その在位中の足跡を調べてみると、あらゆる業績を圧倒するような事実が浮かび上がってくる。それは、吉野行幸である。吉野は、夫である天武天皇と共に、近江朝廷から脱出したあと身を寄せた地であり、古来神聖とされる地でもある。しかし、それにしても在位中の吉野行幸が三十回となれば、これを理解することはなかなか難しい。
これに関しては、多くの研究者により様々な説明がなされているが、完全に納得できる説明は見い出せない。この行動を理解できない限り、持統天皇を理解するのは難しいのかもしれない。

おそらく、持統天皇にとって吉野の地は、凡庸な推理では及ばない奇跡の地であったのではないか。
そして、孫である軽皇子が十五歳になるのは待ちかねていたかのように譲渡するのである。

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