女帝輝く世紀 ( 9 )
つなぎの天皇
三十有余年に渡って天下を治めて来た推古天皇が崩御した後の後継者の選択は、決して容易なことではなかったと想像される。
推古天皇は後継者を定めていなかったとされるが、当時、後継者は群臣により擁立されるのが常のようであった。もちろん、有力皇族や有力豪族などの意見が強く反映されたことであろうが、形式としては群臣の推挙を必要としていたようである。
推古朝は、推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の三人が中心として運営されていたとされるが、おそらく、真実に近いと考えられている。しかし、厩戸皇子は六年、蘇我馬子は二年ばかり推古天皇に先立って没している。つまり、推古天皇が崩御した段階では、推古朝を支えてきた有力者は皆無になったということである。
そうした時代の流れがあってこそ、舒明天皇は後継者として即位できたように思われる。推古朝を支えた三人のうち二人が残っている間であれば、血族的に推古天皇からも蘇我氏からも遠い関係にあり、いわんや厩戸皇子には山背大兄王という後継者がいるのであるから、田村王(舒明天皇)の出番はなかったはずである。
しかし、推古天皇崩御の十か月後には舒明天皇が即位している。後継者をめぐっては、蘇我一族内、あるいはその他の豪族も複雑に絡み合った主導権争いがあり、戦乱も起こっている。それでも、表面的には豪族間の争いに止まって、新天皇は無事即位に至っている。推挙された要因としては、もちろん田村王の人望があったという面もあるとしても、一番の理由は、皇族や豪族たちに対して特別の色が少なかったからだと思われるのである。つまり、積極的な推挙というよりは、有力者たちの多くが容認できる最大公約数として浮上したのではないだろうか。
女性天皇を語る時、「つなぎの天皇」と言われることがままあるが、むしろ、舒明天皇にこそその表現が当たるように見えるのである。
舒明天皇とい人物は、その即位に当たっては、妥協の産物のように見える部分がある天皇だと思われるが、その後の歴史を見ると、実に重要な鍵を握っていた天皇なのである。
舒明天皇の父は、何度も登場している押坂彦人大兄皇子であり、敏達天皇の第一皇子に当たるが、圧倒的な勢力を誇っていた蘇我氏との血縁は無く、皇族としては傍流とされていたと考えられる。母は、糠手姫皇女といって、敏達天皇の皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹にあたり、やはり蘇我氏との繋がりはないようである。
しかし、この天皇の妻と子供を見ると、歴史の重要な位置に立っていることが分かる。
当時の天皇には多くの妻がいた。天皇に限らず、豪族や、もっと下級層でも複数の妻を持つことは珍しくなく、第一婚姻という形態自体が現在とは相当違う。
天皇の場合は、后、皇后、妃、夫人、あるいは、中宮、女御、更衣、御息所など、様々な呼び名があり、それぞれに順位があったようだ。しかし、この天皇の御代、皇后という呼び名はなかったと考えられているが、複数の妻には順位付けがあったと考えられる。
それはともかく、この天皇の妻を三人紹介してみよう。
一人目は、田眼皇女(タメノヒメミコ)である。文献には「妃」と書かれていることが多いが、敏達天皇と推古天皇の間に生まれた皇女である。舒明天皇より数歳年上と考えられているが、子供がいたかどうかは不詳で、どうやら即位以前に亡くなっているらしい。推古天皇からすれば、傍系の王に過ぎないように思ったのではないかと考えられるが、もしかすると舒明天皇には若くして輝くものがあったのかもしれない。この皇女が早く亡くなったことは残念に思われる。
二人目は、皇后とされる宝姫王(タカラノヒメミコ)である。後の皇極・斉明天皇であるが、ドラマチックということでは舒明天皇を凌ぐと思われるが、それは後述する。この皇后は、葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)、大海人皇子(天武天皇)を生んでいる。
そして三人目は、夫人とされる法提郎女(ホテイノイラツメ)である。蘇我馬子の娘で皇族ではないが、古人大兄皇子(フルヒトノオオエノオウジ)という第一皇子を生んでいる。
実は、蘇我氏と血縁のない舒明天皇が即位できた大きな原因は、この古人大兄皇子の存在があったからで、蘇我本宗家はこの皇子の将来に夢を託し、舒明天皇を推挙したものと考えられるのである。
つまり、舒明天皇の即位の陰には、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を皇位に就けるための「つなぎの天皇」であった可能性が見えるのである。
しかし、この推定が正しいとしても、蘇我氏の血を引く天皇の実現が目的であれば、蘇我一族は山背大兄王をなぜ天皇に推挙しなかったのだろうか。謎が残る。
☆ ☆ ☆
つなぎの天皇
三十有余年に渡って天下を治めて来た推古天皇が崩御した後の後継者の選択は、決して容易なことではなかったと想像される。
推古天皇は後継者を定めていなかったとされるが、当時、後継者は群臣により擁立されるのが常のようであった。もちろん、有力皇族や有力豪族などの意見が強く反映されたことであろうが、形式としては群臣の推挙を必要としていたようである。
推古朝は、推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の三人が中心として運営されていたとされるが、おそらく、真実に近いと考えられている。しかし、厩戸皇子は六年、蘇我馬子は二年ばかり推古天皇に先立って没している。つまり、推古天皇が崩御した段階では、推古朝を支えてきた有力者は皆無になったということである。
そうした時代の流れがあってこそ、舒明天皇は後継者として即位できたように思われる。推古朝を支えた三人のうち二人が残っている間であれば、血族的に推古天皇からも蘇我氏からも遠い関係にあり、いわんや厩戸皇子には山背大兄王という後継者がいるのであるから、田村王(舒明天皇)の出番はなかったはずである。
しかし、推古天皇崩御の十か月後には舒明天皇が即位している。後継者をめぐっては、蘇我一族内、あるいはその他の豪族も複雑に絡み合った主導権争いがあり、戦乱も起こっている。それでも、表面的には豪族間の争いに止まって、新天皇は無事即位に至っている。推挙された要因としては、もちろん田村王の人望があったという面もあるとしても、一番の理由は、皇族や豪族たちに対して特別の色が少なかったからだと思われるのである。つまり、積極的な推挙というよりは、有力者たちの多くが容認できる最大公約数として浮上したのではないだろうか。
女性天皇を語る時、「つなぎの天皇」と言われることがままあるが、むしろ、舒明天皇にこそその表現が当たるように見えるのである。
舒明天皇とい人物は、その即位に当たっては、妥協の産物のように見える部分がある天皇だと思われるが、その後の歴史を見ると、実に重要な鍵を握っていた天皇なのである。
舒明天皇の父は、何度も登場している押坂彦人大兄皇子であり、敏達天皇の第一皇子に当たるが、圧倒的な勢力を誇っていた蘇我氏との血縁は無く、皇族としては傍流とされていたと考えられる。母は、糠手姫皇女といって、敏達天皇の皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹にあたり、やはり蘇我氏との繋がりはないようである。
しかし、この天皇の妻と子供を見ると、歴史の重要な位置に立っていることが分かる。
当時の天皇には多くの妻がいた。天皇に限らず、豪族や、もっと下級層でも複数の妻を持つことは珍しくなく、第一婚姻という形態自体が現在とは相当違う。
天皇の場合は、后、皇后、妃、夫人、あるいは、中宮、女御、更衣、御息所など、様々な呼び名があり、それぞれに順位があったようだ。しかし、この天皇の御代、皇后という呼び名はなかったと考えられているが、複数の妻には順位付けがあったと考えられる。
それはともかく、この天皇の妻を三人紹介してみよう。
一人目は、田眼皇女(タメノヒメミコ)である。文献には「妃」と書かれていることが多いが、敏達天皇と推古天皇の間に生まれた皇女である。舒明天皇より数歳年上と考えられているが、子供がいたかどうかは不詳で、どうやら即位以前に亡くなっているらしい。推古天皇からすれば、傍系の王に過ぎないように思ったのではないかと考えられるが、もしかすると舒明天皇には若くして輝くものがあったのかもしれない。この皇女が早く亡くなったことは残念に思われる。
二人目は、皇后とされる宝姫王(タカラノヒメミコ)である。後の皇極・斉明天皇であるが、ドラマチックということでは舒明天皇を凌ぐと思われるが、それは後述する。この皇后は、葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)、大海人皇子(天武天皇)を生んでいる。
そして三人目は、夫人とされる法提郎女(ホテイノイラツメ)である。蘇我馬子の娘で皇族ではないが、古人大兄皇子(フルヒトノオオエノオウジ)という第一皇子を生んでいる。
実は、蘇我氏と血縁のない舒明天皇が即位できた大きな原因は、この古人大兄皇子の存在があったからで、蘇我本宗家はこの皇子の将来に夢を託し、舒明天皇を推挙したものと考えられるのである。
つまり、舒明天皇の即位の陰には、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を皇位に就けるための「つなぎの天皇」であった可能性が見えるのである。
しかし、この推定が正しいとしても、蘇我氏の血を引く天皇の実現が目的であれば、蘇我一族は山背大兄王をなぜ天皇に推挙しなかったのだろうか。謎が残る。
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