『 女帝輝く世紀 ( 19 ) 』
女帝時代の全盛期
夫である天武天皇が崩御し、ほとんど同時にすべてを懸けていたたった一人の御子である草壁皇子を喪った持統天皇は、おそらく歯を食いしばるようにして草壁皇子の忘れ形見である軽皇子の成長を待った。
そして、執念ともいうべき十年を耐え抜いて軽皇子を皇位に付けることに成功した。文武天皇の誕生である。
持統天皇は、譲位後も太上天皇として政務を後見していたと考えられるが、五年後に崩御した。波乱万丈の五十七年の生涯であった。
文武天皇は、在位十年にして崩御した。まだ二十五歳という若さであった。
壬申の乱以前を考えれば、この若さでの天皇崩御があれば、後継者争いが激しくなっていたはずであるが、崩御と同時に母が践祚し、半月後には元明天皇として即位している。
元明天皇の御代は八年続き、娘であり文武天皇の実姉である氷高皇女に譲位した。元正天皇の誕生である。
二代続いての女帝であり、二人の御代は合わせて十七年に及び、藤原氏の台頭など政治的な変化も注目すべきであるが、少なくともこの二天皇に関しては、中継ぎ的な色合いが強い。文武天皇の皇子を皇位に就けるための時間が必要だったのである。
元正天皇は在位八年余りで譲位しているが、その時四十四歳くらいで、崩御したのは六十八歳であることを考えれば、健康面からの譲位ではなく、首皇子(聖武天皇)が二十四歳となり、即位可能な頃になったことが譲位の理由と思われる。
聖武天皇の生母は、藤原不比等の娘・宮子なので、藤原氏の強い働きかけもあったと推定されるが、持統・草壁・文武と続く一つの王朝という感が強い気がする。
その王朝は、天武天皇を始祖としたものというより、天智天皇を父に持つ持統天皇の王朝であると、個人的には考えている。そして、その持統王朝の絶頂期は、まさに聖武天皇の御代であったのではないだろうか。同時にそれは、女帝が輝いた時代の絶頂期ともいえるのである。
天平文化あるいは天平時代という言葉がある。天平年間(729-749)を中心とした時期を指すが、ほぼ聖武天皇の御代そのものである。
天平文化は、朝鮮半島諸国はもちろん、唐文化を介して、西域、インド、ペルシャ等の文化を受容した貴族文化といえる。その片鱗は、今日においても正倉院御物に伝えられている。
また、仏教の興隆も一つのピークを築いた時期でもある。国家の保護下に南都六宗が栄え、各地に国分寺が建立された。それに伴って、彫刻を中心に漢詩・文等の仏教文化、さらには万葉歌人も活躍した。
そして、何よりも東大寺の大仏建立は、わが国古代史上の最大規模の業績といえよう。
聖武天皇あるいは天平時代についての詳述は割愛させていただくが、政治体制でいえば、藤原氏の影響を強く受けているが、同時に天平末期まで生存していた元正天皇の影響も小さくなかったと推定されるのである。つまり、聖武天皇は、持統天皇の描く王朝構想の影響を強く受けていたと考えるのである。全く個人的な見解であるが。
聖武天皇は、在位二十五年余りで退位し、娘の安倍皇女に譲位した。孝謙天皇の誕生であり、再び女帝の時代が続くかに見えたが、実は、孝謙天皇は「女帝輝く世紀」の幕引きを担う天皇となったのである。
持統天皇が描いたと思われる朝廷の有力な支援者は、藤原不比等を筆頭にした藤原氏一族であった。聖武天皇の誕生には、持統天皇が懸命に実現させた文武天皇の皇子を皇位に就けるために、元明・元正と繋いだ女帝たちの努力の賜といえるが、それを支えたのは藤原不比等であった。
一方、孝謙天皇の誕生は、持統天皇が愛してやまなかった草壁皇子の系譜を真直ぐに引き継いでいる女帝とはいえ、この譲位には、いささか異質なものが感じられる。
聖武天皇は天平文化という仏教文化を中心とした繁栄を築いたが、その最大の業績ともいえる東大寺の大仏はまだ未完成であった。大仏の開眼供養が行われるのは、譲位から三年後のことである。もちろん、その式典には太上天皇として中心にいたが、おそらく天皇としてこの日を迎えたかったと考えられるのである。
聖武天皇に健康面での不安があったという説もあるようであるが、太上天皇となって隠然たる力を保持していた母の元正天皇の崩御を待ちかねていたかのような譲位に見える。当然考えられることは、強引に譲位を進めた勢力があったはずで、それは不比等の娘であり安倍皇女の生母である光明皇后と藤原氏一族であったことは推定するまでもあるまい。
つまり、聖武天皇の誕生には藤原氏が後見したが、孝謙天皇の誕生は藤原氏が主導したものと考えられるのである。
しかし、孝謙天皇は単なるお飾りの天皇ではなかったようである。
即位後の政治は、主として聖武太上天皇と光明皇太后が実権を握っていたものと思われる。やがて、聖武太上天皇が没し、光明皇太后が病がちになると、その看病に当たるため在位九年にして退位し、皇太子となっていた淳仁天皇に譲位した。この人物は、天武天皇を父に天智天皇の娘である新田部皇女を母に持つ出自である。
淳仁天皇の在位は六年余りで藤原仲麻呂らの支援を受けて治世を行った。
一方の孝謙天皇は、譲位の二年後には母の光明皇太后が亡くなった。その後、病となり、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡と出会い、寵愛するようになる。
やがて、孝謙天皇は道鏡の知恵を味方にして太上天皇として政治に影響を与え始め、淳仁天皇・藤原仲麻呂勢力と衝突するようになり、ついにこの勢力を追放し、皇位に復帰する。重祚して称徳天皇が誕生する。
称徳天皇は道鏡を重用し、太政大臣禅師、法皇と、最高権力を与え、一説には、道鏡への譲位も画策されていたともされる。
このあたりのことは割愛するが、朝廷内は混乱し、その中で称徳天皇は崩御し、女帝の時代は幕を閉じるのである。
女性天皇が再び登場するのは、八百五十余年後の江戸時代初期のことである。
この時の女帝明正天皇は、後水尾天皇の皇女であるが、母は徳川家康の孫であり、この時代の女帝とは性格を異にするといえよう。
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女帝時代の全盛期
夫である天武天皇が崩御し、ほとんど同時にすべてを懸けていたたった一人の御子である草壁皇子を喪った持統天皇は、おそらく歯を食いしばるようにして草壁皇子の忘れ形見である軽皇子の成長を待った。
そして、執念ともいうべき十年を耐え抜いて軽皇子を皇位に付けることに成功した。文武天皇の誕生である。
持統天皇は、譲位後も太上天皇として政務を後見していたと考えられるが、五年後に崩御した。波乱万丈の五十七年の生涯であった。
文武天皇は、在位十年にして崩御した。まだ二十五歳という若さであった。
壬申の乱以前を考えれば、この若さでの天皇崩御があれば、後継者争いが激しくなっていたはずであるが、崩御と同時に母が践祚し、半月後には元明天皇として即位している。
元明天皇の御代は八年続き、娘であり文武天皇の実姉である氷高皇女に譲位した。元正天皇の誕生である。
二代続いての女帝であり、二人の御代は合わせて十七年に及び、藤原氏の台頭など政治的な変化も注目すべきであるが、少なくともこの二天皇に関しては、中継ぎ的な色合いが強い。文武天皇の皇子を皇位に就けるための時間が必要だったのである。
元正天皇は在位八年余りで譲位しているが、その時四十四歳くらいで、崩御したのは六十八歳であることを考えれば、健康面からの譲位ではなく、首皇子(聖武天皇)が二十四歳となり、即位可能な頃になったことが譲位の理由と思われる。
聖武天皇の生母は、藤原不比等の娘・宮子なので、藤原氏の強い働きかけもあったと推定されるが、持統・草壁・文武と続く一つの王朝という感が強い気がする。
その王朝は、天武天皇を始祖としたものというより、天智天皇を父に持つ持統天皇の王朝であると、個人的には考えている。そして、その持統王朝の絶頂期は、まさに聖武天皇の御代であったのではないだろうか。同時にそれは、女帝が輝いた時代の絶頂期ともいえるのである。
天平文化あるいは天平時代という言葉がある。天平年間(729-749)を中心とした時期を指すが、ほぼ聖武天皇の御代そのものである。
天平文化は、朝鮮半島諸国はもちろん、唐文化を介して、西域、インド、ペルシャ等の文化を受容した貴族文化といえる。その片鱗は、今日においても正倉院御物に伝えられている。
また、仏教の興隆も一つのピークを築いた時期でもある。国家の保護下に南都六宗が栄え、各地に国分寺が建立された。それに伴って、彫刻を中心に漢詩・文等の仏教文化、さらには万葉歌人も活躍した。
そして、何よりも東大寺の大仏建立は、わが国古代史上の最大規模の業績といえよう。
聖武天皇あるいは天平時代についての詳述は割愛させていただくが、政治体制でいえば、藤原氏の影響を強く受けているが、同時に天平末期まで生存していた元正天皇の影響も小さくなかったと推定されるのである。つまり、聖武天皇は、持統天皇の描く王朝構想の影響を強く受けていたと考えるのである。全く個人的な見解であるが。
聖武天皇は、在位二十五年余りで退位し、娘の安倍皇女に譲位した。孝謙天皇の誕生であり、再び女帝の時代が続くかに見えたが、実は、孝謙天皇は「女帝輝く世紀」の幕引きを担う天皇となったのである。
持統天皇が描いたと思われる朝廷の有力な支援者は、藤原不比等を筆頭にした藤原氏一族であった。聖武天皇の誕生には、持統天皇が懸命に実現させた文武天皇の皇子を皇位に就けるために、元明・元正と繋いだ女帝たちの努力の賜といえるが、それを支えたのは藤原不比等であった。
一方、孝謙天皇の誕生は、持統天皇が愛してやまなかった草壁皇子の系譜を真直ぐに引き継いでいる女帝とはいえ、この譲位には、いささか異質なものが感じられる。
聖武天皇は天平文化という仏教文化を中心とした繁栄を築いたが、その最大の業績ともいえる東大寺の大仏はまだ未完成であった。大仏の開眼供養が行われるのは、譲位から三年後のことである。もちろん、その式典には太上天皇として中心にいたが、おそらく天皇としてこの日を迎えたかったと考えられるのである。
聖武天皇に健康面での不安があったという説もあるようであるが、太上天皇となって隠然たる力を保持していた母の元正天皇の崩御を待ちかねていたかのような譲位に見える。当然考えられることは、強引に譲位を進めた勢力があったはずで、それは不比等の娘であり安倍皇女の生母である光明皇后と藤原氏一族であったことは推定するまでもあるまい。
つまり、聖武天皇の誕生には藤原氏が後見したが、孝謙天皇の誕生は藤原氏が主導したものと考えられるのである。
しかし、孝謙天皇は単なるお飾りの天皇ではなかったようである。
即位後の政治は、主として聖武太上天皇と光明皇太后が実権を握っていたものと思われる。やがて、聖武太上天皇が没し、光明皇太后が病がちになると、その看病に当たるため在位九年にして退位し、皇太子となっていた淳仁天皇に譲位した。この人物は、天武天皇を父に天智天皇の娘である新田部皇女を母に持つ出自である。
淳仁天皇の在位は六年余りで藤原仲麻呂らの支援を受けて治世を行った。
一方の孝謙天皇は、譲位の二年後には母の光明皇太后が亡くなった。その後、病となり、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡と出会い、寵愛するようになる。
やがて、孝謙天皇は道鏡の知恵を味方にして太上天皇として政治に影響を与え始め、淳仁天皇・藤原仲麻呂勢力と衝突するようになり、ついにこの勢力を追放し、皇位に復帰する。重祚して称徳天皇が誕生する。
称徳天皇は道鏡を重用し、太政大臣禅師、法皇と、最高権力を与え、一説には、道鏡への譲位も画策されていたともされる。
このあたりのことは割愛するが、朝廷内は混乱し、その中で称徳天皇は崩御し、女帝の時代は幕を閉じるのである。
女性天皇が再び登場するのは、八百五十余年後の江戸時代初期のことである。
この時の女帝明正天皇は、後水尾天皇の皇女であるが、母は徳川家康の孫であり、この時代の女帝とは性格を異にするといえよう。
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