雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  女帝輝く世紀 ( 19 )

2017-02-22 08:12:32 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 ( 19 ) 』

女帝時代の全盛期

夫である天武天皇が崩御し、ほとんど同時にすべてを懸けていたたった一人の御子である草壁皇子を喪った持統天皇は、おそらく歯を食いしばるようにして草壁皇子の忘れ形見である軽皇子の成長を待った。
そして、執念ともいうべき十年を耐え抜いて軽皇子を皇位に付けることに成功した。文武天皇の誕生である。
持統天皇は、譲位後も太上天皇として政務を後見していたと考えられるが、五年後に崩御した。波乱万丈の五十七年の生涯であった。

文武天皇は、在位十年にして崩御した。まだ二十五歳という若さであった。
壬申の乱以前を考えれば、この若さでの天皇崩御があれば、後継者争いが激しくなっていたはずであるが、崩御と同時に母が践祚し、半月後には元明天皇として即位している。
元明天皇の御代は八年続き、娘であり文武天皇の実姉である氷高皇女に譲位した。元正天皇の誕生である。
二代続いての女帝であり、二人の御代は合わせて十七年に及び、藤原氏の台頭など政治的な変化も注目すべきであるが、少なくともこの二天皇に関しては、中継ぎ的な色合いが強い。文武天皇の皇子を皇位に就けるための時間が必要だったのである。

元正天皇は在位八年余りで譲位しているが、その時四十四歳くらいで、崩御したのは六十八歳であることを考えれば、健康面からの譲位ではなく、首皇子(聖武天皇)が二十四歳となり、即位可能な頃になったことが譲位の理由と思われる。
聖武天皇の生母は、藤原不比等の娘・宮子なので、藤原氏の強い働きかけもあったと推定されるが、持統・草壁・文武と続く一つの王朝という感が強い気がする。
その王朝は、天武天皇を始祖としたものというより、天智天皇を父に持つ持統天皇の王朝であると、個人的には考えている。そして、その持統王朝の絶頂期は、まさに聖武天皇の御代であったのではないだろうか。同時にそれは、女帝が輝いた時代の絶頂期ともいえるのである。

天平文化あるいは天平時代という言葉がある。天平年間(729-749)を中心とした時期を指すが、ほぼ聖武天皇の御代そのものである。
天平文化は、朝鮮半島諸国はもちろん、唐文化を介して、西域、インド、ペルシャ等の文化を受容した貴族文化といえる。その片鱗は、今日においても正倉院御物に伝えられている。
また、仏教の興隆も一つのピークを築いた時期でもある。国家の保護下に南都六宗が栄え、各地に国分寺が建立された。それに伴って、彫刻を中心に漢詩・文等の仏教文化、さらには万葉歌人も活躍した。
そして、何よりも東大寺の大仏建立は、わが国古代史上の最大規模の業績といえよう。
聖武天皇あるいは天平時代についての詳述は割愛させていただくが、政治体制でいえば、藤原氏の影響を強く受けているが、同時に天平末期まで生存していた元正天皇の影響も小さくなかったと推定されるのである。つまり、聖武天皇は、持統天皇の描く王朝構想の影響を強く受けていたと考えるのである。全く個人的な見解であるが。

聖武天皇は、在位二十五年余りで退位し、娘の安倍皇女に譲位した。孝謙天皇の誕生であり、再び女帝の時代が続くかに見えたが、実は、孝謙天皇は「女帝輝く世紀」の幕引きを担う天皇となったのである。
持統天皇が描いたと思われる朝廷の有力な支援者は、藤原不比等を筆頭にした藤原氏一族であった。聖武天皇の誕生には、持統天皇が懸命に実現させた文武天皇の皇子を皇位に就けるために、元明・元正と繋いだ女帝たちの努力の賜といえるが、それを支えたのは藤原不比等であった。
一方、孝謙天皇の誕生は、持統天皇が愛してやまなかった草壁皇子の系譜を真直ぐに引き継いでいる女帝とはいえ、この譲位には、いささか異質なものが感じられる。

聖武天皇は天平文化という仏教文化を中心とした繁栄を築いたが、その最大の業績ともいえる東大寺の大仏はまだ未完成であった。大仏の開眼供養が行われるのは、譲位から三年後のことである。もちろん、その式典には太上天皇として中心にいたが、おそらく天皇としてこの日を迎えたかったと考えられるのである。
聖武天皇に健康面での不安があったという説もあるようであるが、太上天皇となって隠然たる力を保持していた母の元正天皇の崩御を待ちかねていたかのような譲位に見える。当然考えられることは、強引に譲位を進めた勢力があったはずで、それは不比等の娘であり安倍皇女の生母である光明皇后と藤原氏一族であったことは推定するまでもあるまい。
つまり、聖武天皇の誕生には藤原氏が後見したが、孝謙天皇の誕生は藤原氏が主導したものと考えられるのである。

しかし、孝謙天皇は単なるお飾りの天皇ではなかったようである。
即位後の政治は、主として聖武太上天皇と光明皇太后が実権を握っていたものと思われる。やがて、聖武太上天皇が没し、光明皇太后が病がちになると、その看病に当たるため在位九年にして退位し、皇太子となっていた淳仁天皇に譲位した。この人物は、天武天皇を父に天智天皇の娘である新田部皇女を母に持つ出自である。
淳仁天皇の在位は六年余りで藤原仲麻呂らの支援を受けて治世を行った。

一方の孝謙天皇は、譲位の二年後には母の光明皇太后が亡くなった。その後、病となり、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡と出会い、寵愛するようになる。
やがて、孝謙天皇は道鏡の知恵を味方にして太上天皇として政治に影響を与え始め、淳仁天皇・藤原仲麻呂勢力と衝突するようになり、ついにこの勢力を追放し、皇位に復帰する。重祚して称徳天皇が誕生する。
称徳天皇は道鏡を重用し、太政大臣禅師、法皇と、最高権力を与え、一説には、道鏡への譲位も画策されていたともされる。
このあたりのことは割愛するが、朝廷内は混乱し、その中で称徳天皇は崩御し、女帝の時代は幕を閉じるのである。

女性天皇が再び登場するのは、八百五十余年後の江戸時代初期のことである。
この時の女帝明正天皇は、後水尾天皇の皇女であるが、母は徳川家康の孫であり、この時代の女帝とは性格を異にするといえよう。

     ☆   ☆   ☆
 
 
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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 20 )

2017-02-22 08:11:43 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 』

終わりに

『女帝輝く世紀』とは、我ながら大げさな表題をつけたものだという気持ちはある。
しかし、我が国歴代の天皇の足跡を、真偽はともかく伝えられている文献を尋ねてみれば、『飛鳥・白鳳・天平』と続く文化の興隆期は、他の時代と違う雰囲気を持っている気がするのである。
もちろん、伝えられている文献といっても、残念ながら私などが目にすることが出来る物はごくごく一部であり、実際に目を通すことが出来たのはさらにその一部であり、その解釈もほぼ全部が先人の研究成果を頂戴した物であり、それでいながら、所々では自分勝手な解釈や推定を加えているので、果たしてどの程度この時代の特徴を表現することが出来たのか、大いに心配ではある。

わが国の女帝は、推古天皇に始まる。
もっとも、日本書紀などの記録によれば、天照大御神はともかく、神功皇后などはまさしく女帝であったと思われ、推古天皇誕生は当時の人に取って格別特別な選択ではなかったのかもしれない。
そうとはいえ、推古天皇の誕生は、やはり、苦肉の策であったような気がする。ところがいざ即位してみると、立派な治世が行われ、長期政権となったことで、この後の女性天皇誕生のためのハードルを低くしたと思われる。

皇極天皇は、実に興味深い女帝である。
この時代を代表するともいえる天智・天武両天皇の生母であり、この後の天皇家の系譜に大きな影響を持つ女帝であったと言える。特に、舒明天皇に嫁ぐ前の姿、そして何よりも、天武天皇とは何者かを知っている女帝であることに限りない興味を感じる。

持統天皇は、自らの王朝を目指したかのように見えてならない。
天武天皇が本当はどういう出自であったのかは、持統天皇も承知していたはずである。その天武を支えて、自らの王朝確立を目指し、それは、少なくとも聖武天皇の御代までは健在であったと、個人的には考えている。さらに言えば、壬申の乱の本当の首謀者は、持統天皇だったのではないかとさえ思われるのである。

この女帝の時代は、仏教が精神面でも文化面でも大きく花開いた時代でもある。
その意味では、聖武天皇の御代は一つの頂点と考えられ、東大寺の大仏開眼供養は、女帝時代の最高点だったのかもしれない。
称徳(孝謙)天皇や弓削道鏡が、女帝の時代の幕を引いたかに見えるが、それも一つの流れと言えよう。称徳天皇は持統天皇の血を引くが、遥かに藤原氏の血が濃い天皇であり、一つの時代が終わるべくして終わったような気がするのである。

     ☆

長期間にわたって、個人的な見解の多い物語をお読みいただき感謝いたします。
これを機に、この時代について、さらに興味をお持ちいただければ幸甚でございます。
                                       
          ( 完 )

     ☆   ☆   ☆


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海の旅

2017-02-13 08:17:41 | 麗しの枕草子物語
          麗しの枕草子物語 

               海の旅

およそ海の旅ほど油断のならないものはございませんよ。

うららかなお天気で、海の面はたいそうのどかで、浅緑色の絹布の艶出ししたものを敷き詰めたかのように、全く穏やかで、衵や袴などを着たまだ若い女や、侍風の若々しい男が、櫓というものを押しながら、盛んに歌など唄っている様子はとても楽しくて、高貴な御方にもお見せしたいなどと思いながら行くうちに、にわかに風が強くなり、海面がどんどん荒れてくるので、もう無我夢中で、目的地に漕ぎ着くまで船が波をかぶり続ける有様は、しばらく前の穏やかさは何だったのかと思われ、本当に海の旅は油断など出来ません。

考えてみますと、船に乗って往来する人ほど、恐ろしくて不安なものはまずありませんわ。とんでもなく深い海にだって、あんな頼りないものに乗って漕ぎ出して行くんですからねぇ。そうですよ、底も知れず、千尋ほどもある海に漕ぎだすのですよ。
荷物を沢山積んでいる船などは、水面まで一尺もない所まで沈んでいるのですから。
ある程度の身分の御方は、船などに乗るものではないと思いますわ。陸路の旅も恐ろしいそうですが、それでもまだ地に足がついているだけ安心というものです。

それにつけても、海女が海の底まで潜る仕事は、辛いでしょうねぇ。
腰につけている綱が切れでもしたら、どうするというのでしょう。せめて男がするというのならまだしも、女の仕事としては並大抵のことではないでしょうに。
それに、あれは何なのですか。男は舟に乗って、のんきそうに歌など唄いながら、命綱を頼りに潜っている女を見ているだけで、心配ではないのでしょうか。
海女が上にあがろうという時に命綱で合図を送るそうで、その時だけは男も必死になって引っ張るそうですが、当たり前のことですよ。
舟べりに手をかけて、大きな音を立てて呼吸するさまなどは、まことに哀切で、そばで見ていても涙が出そうになりますのに、その海女を再び海に放り込んでいる男ときたら、見てはいられないほど憎らしく、あきれ果てた情け知らずですよ。


(第二百八十六段・うちとくまじきもの、より)
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今昔物語 巻二十四  表題

2017-02-11 13:48:15 | 今昔物語拾い読み ・ その6
               今昔物語集 巻二十四

今昔物語集巻二十四は、全体の中の位置付けとしては『本朝世俗部」にあたります。
収録されている物語は、全部で五十七話あり、比較的数が多い巻といえます。

その内容は、主として一芸一能に秀でた人物のエピソードが中心となっていて、政治の中心部にいた人物の逸話とは少し違う形の歴史の断面が見られるのではないでしょうか。 
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天人が舞う ・ 今昔物語 ( 巻24-1 )

2017-02-11 13:46:21 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          天人が舞う ・ 今昔物語 ( 巻24-1 )

今は昔、
北辺の左大臣(キタノヘのサダイジン)と申す人がおいでになった。
名を信(マコト・姓は源)と申され、嵯峨天皇の御子である。一条の北辺あたりに住んでおられたので、北辺の大臣(オトド)と申すのである。
万事につけて優れておられたが、なかでも管弦の道に特に堪能であられた。その中でも箏(ショウノコト・十三弦の琴)は並ぶ者がないほど上手に弾かれた。

さて、大臣がある夜、筝をお弾きになったが、夜もすがら興を催すままに弾き続けられた。夜明け方になり、難局とされるとっておきの曲を弾いているうちに、我ながら「すばらしい曲だ」と聞きほれていると、すぐ目の前の放出(ハナチイデ・母屋から外に張り出した部屋)の引き上げられている格子戸の上に、何かが光ったように見えたので、「何の光であろうか」と思われて、そっと見ていると、身長が一尺ばかりの天人が二、三人ほどいて舞っている光であった。
大臣はこれを見て、「わたしが妙手を振るって箏を弾いているのを聞いて、天人が感動して降りてきて舞っているのだ」と思われた。そして、何とも貴いことだと思われた。
まことにこれは、驚くほど素晴らしいことである。

また、中納言長谷雄(姓は紀)という博士がいた。世に並ぶ者がないほどの学者である。
その人が、月の明るい夜、大学寮の西の門より出て、礼[(欠字あり未詳)]の橋の上に立って北の方を見てみると、朱雀門の二階に、冠をつけ襖(アオ・武官が着る袍)を着ていて、身の丈が垂木近くまである人が詩歌を吟唱して廻り歩いていた。
長谷雄はこれを見て、「私は、何と、霊人(リョウニン・神霊が化した人)を見た。我ながら素晴らしいことだ」と思った。
これもまた不思議なことである。

昔の人には、このような不思議なことなどをはっきりと見た人がいたのだ、
と語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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からくり人形 ・ 今昔物語 ( 巻24-2 )

2017-02-11 13:43:44 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          からくり人形 ・ 今昔物語 ( 巻24-2 )

今は昔、
高陽親王(カヤノミコ・賀陽とも)と申す人がおいでになった。この方は、桓武天皇の御子である。(「桓武」の部分は意識的な欠字になっている)
極めて細工の上手な工芸の名人であった。京極寺という寺があるが、その寺院はこの親王が建てられた寺である。この寺の前の川原にある田は、この寺の領地であった。

ところで、国中が旱魃となった年、あらゆる所の田がみな焼けてしまうと大騒ぎになったが、ましてこの田は、賀茂川の水を引き入れて作る田なので、その川の水が涸れてしまったとなると、一面の空き地のようになってしまい、苗も皆赤くなってしまいそうであった。
そこで、高陽親王は、その対策をお考えになり、身長が四尺ほどの童子が左右の手に容器を高く捧げて立っている人形を造って、この田の中に立てた。人がその人形が持っている容器に水を入れると、その度に顔に流しかける仕掛けを造ったので、これを見た人は、水を汲んできては人形の持っている容器に入れると、水を入れるたびに顔に流しかけ流しかけするので、これを面白がって、次々に口伝えで広めたので、京じゅうの人が列をなして集まり、水を容器に入れては人形の様子を見て大騒ぎした。

このようにしているうちに、その水が自然にたまって、田には水が満ちた。そこで、童子を取り外して隠した。また、水が乾くと、童子を出してきて田の中に立てた。そうすると、また前のように人が集まってきて水を入れたので、田には水が満ちた。このようにして、その田は少しも焼けることがなかった。
これはすばらしい仕掛けである。これも御子の優れた技術と、優れた仕掛けによるものだと人々は褒め称えた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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砧で打った衣 ・ 今昔物語 ( 巻24-3 )

2017-02-11 13:42:52 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          砧で打った衣 ・ 今昔物語 ( 巻24-3 )

今は昔、
小野宮の大臣(オノノミヤのオトド・藤原実頼、970年没)が大饗(ダイキョウ・大臣主催の大宴会)を開催なされた時、九条大臣(藤原師輔)は主賓としてお越しになられた。
その時の御引き出物としていただかれた女の装束に添えられていた、砧(キヌタ・衣の光沢を出すために使われた)で打った紅の細長(ホソナガ・女性の衣服の一種)を、不注意な先導の従者が受け取って出て行こうとしたが、取りそこねて鑓水(ヤリミズ・庭に造られた人工の小川)に落としてしまった。慌てて拾い上げて、水を打ち振るったところ、水は散って乾いてしまった。そして、その濡れた方の袖はまったく水に濡れたようには見えず、濡れなかった方の袖と見比べても、全く同じように打ち目が見えた。
これを見ていた人は、この砧で打った衣のすばらしさを褒め称えた。

昔は、砧で打った衣も、このようにすばらしかった。今の世では、とてもあり得ないことである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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変な名人 ・ 今昔物語 ( 巻24-4 )

2017-02-11 13:41:45 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          変な名人 ・ 今昔物語 ( 巻24-4 )

今は昔、
○○天皇(天皇名は、意識的な欠字となっている)の御代に右近衛府の陣に○○(意識的な欠字)の春近という舎人がいた。蹴鞠のたいそうな上手であった。
その春近が、後方の町にある井戸の井筒に寄りかかって立ち、「若い女たちが大勢いるので見せてやろう」と思って、刀の鞘からカミガキ(髪をかき上げる小道具。こうがい)を取り出して、手の爪の上に立たせて、井戸の上に差し出し、四、五十回ほど宙返りさせたので、人が集まってきてこれを見て面白がり、大変感嘆した。

そうしていると、年老いた一人の女がやって来て、これを見て、「面白いことをなさるお人だ。昔でも、こんな技をなさる人はいなかった。さて、私も真似をして見よう」と言って、袖に刺していた針を抜き出して、糸をつけたまま爪の上で四、五十回ほど宙返りさせたので、これを見ていた人たちは驚嘆した。
これを見て春近は、[ 漢字表記を期した意識的な欠字らしい。「たいへん恥ずかしく思った」といった意味の文字か? ]して、カミガキを鞘に収めてしまった。
これは、どちらも驚くべき技である。

昔は、このようなほんのつまらないことであっても、このような見事な技をする者がいたのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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技能比べ ・ 今昔物語 ( 巻24-5 )

2017-02-11 13:41:01 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          技能比べ ・ 今昔物語 ( 巻24-5 )

今は昔、
百済川成(クダラノカワナリ)という絵師がいた。世に並ぶ者がないという名人であった。
滝殿(滝のある殿舎の意味か? 大覚寺の滝殿とも)の庭石もこの川成が造ったものである。同じ御堂の壁画もこの川成が描いたものである。

ある時、川成の従者である童子が逃亡した。あちらこちらを捜したが見つからないので、ある貴族の下男を雇って、「私の家で長年使ってきた従者の童子が、どうやら逃亡してしまったらしい。これを捜して捕まえてきてくれないか」と頼み込んだ。その下男は、「お安いことですが、その童の顔も知りませんので、とても捕まえられません」と答えた。
川成は、「確かにその通りである」と言うと、懐紙を取り出して、童子の顔だけを描いてその下男に渡して、「これに似た童子を捕えてくれ。東・西の市は人が集まる所だ。その辺りに行って捜してほしい」と言うと、その下男は似顔絵を手にして、市に出かけた。

市には大勢の人がいたが、似顔絵に似た童子は見当たらない。しばらくいるうちに、「もしかすると見つかるかもしれない」と思いはじめた頃、よく似た童子が姿を見せた。似顔絵を取り出して見比べてみると、全くそっくりだった。
「この童子だ」と思って捕まえて、川成のもとに連れて行った。川成がその童子を見てみると、逃亡した従者の童子だったので、大変喜んだ。
当時の人々の間で、この話を聞いて、似顔絵の巧みさをたいしたものだと評判となった。

ところで、その当時、飛騨の工(タクミ)という工匠がいた。この平安京に都移りする時に活躍した工匠で、世に並ぶ者がないという名人であった。
武楽院(ブラクイン・大内裏内の殿舎の一つ。豊楽院のこと)はこの工が建てたものなので、このようにすばらしいのであろう。
さて、この工はあの川波とそれぞれの技を競い合っていた。ある時、飛騨の工が川成に、「私の家に、一間四方の堂を建てました。おいでになられてご覧下さい。また『壁に絵などを描いていただきたい』と思っております」と言った。
互いに競い合っていたが、仲は良く冗談を言い合うような間であったので、川成は「それで誘ってくれたのだろう」と思って、飛騨の工の家を訪れた。行って見ると、実に趣のある小さな堂があった。四面の戸が皆開いていた。

飛騨の工が、「あの堂に入って、中をご覧下さい」と言うので、川成は縁に上がり、南の戸より入ろうとしたが、その戸がパタンと閉じた。驚いて、廻って西の戸より入ろうとした。すると、その戸もパタンと閉じた。そして、南の戸は開いた。
それでは北の戸より入ろうとすると、その戸が閉じて西の戸が開く。また、東の戸から入ろうとすると、その戸が閉じて北の戸が開く。
このように、ぐるぐる回って何度も入ろうとしたが、閉じては開きして入ることが出来ない。そこで、仕方なく縁から下りた。
その時、飛騨の工は大笑いすること限りがなかった。川成は、「悔しい」と思いながら帰った。

その後、数日を経て、川成が飛騨の工に使いを出して、「私の家においでください。お見せしたい物があります」と伝えた。
飛騨の工は、「きっと自分をたぶらかそうとしているに違いない」と思って行かずにいると、度々丁寧に招くので、工は川成の家に行き案内を請うと、「こちらへお入りください」と案内された。
案内されるままに、廊下にある遣戸(ヤリド・引き戸)を引き開けると、部屋の中のすぐそこに、大きな人間が、黒ずみ、膨らんで、腐って横たわっていた。臭い刺激臭が鼻に突き刺さるようであった。

思ってもいなかったこのような物を見たので、飛騨の工は、悲鳴を上げ怖れおののいて飛び出した。部屋の中にいた川内は、この声を聞いて大笑いすること限りなかった。
飛騨の工は、「怖ろしい」と震えながら庭に立ちすくんでいると、川成はその遣戸より顔を出して、「やや、どうなされた。私は此処にいますぞ。どうぞ、お入りください」と言うので、工が怖々近寄って見ると、衝立があり、何と、それに死人の絵が描かれていたのである。堂でたぶらかされたのが悔しくて、このような事をしたのである。

二人の技量は、これほどのものであった。その当時は、この話があらゆる所で噂され、すべての人がこの二人を褒め称えた、
となむ語り伝へたるとや。

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碁の名人 (1) ・ 今昔物語 ( 巻24-6 )

2017-02-11 13:39:02 | 今昔物語拾い読み ・ その6
          碁の名人 (1) ・ 今昔物語 ( 巻24-6 )

今は昔、
第六十代醍醐天皇の御時に、碁勢(ゴセイ)と寛蓮(カンレン)という、碁の名人である二人の僧がいた。
寛蓮は家柄も賤しくなく、宇多院(第五十九代天皇)の殿上法師(昇殿を許された法師)であったので、内裏にも常にお召しになって、碁の相手にされていた。天皇もたいそう上手であったが、寛蓮には先手二目を置いて打たれていた。

常々このようにしてお打ちになっておられたが、ある時、金の御枕を懸け物にしてお打ちになられたが、天皇がお負けになり、寛蓮はその御枕を賜って退出したが、天皇はそれを血気盛んな若い殿上人に奪い取らせた。このように、懸け物として賜って退出するところで奪われるということが度々であった。
そうしたある時、またも天皇がお負けになって、寛蓮がその御枕を賜って退出するところを、いつものように若い殿上人が何人もで追いかけて奪い取ろうとした時、寛蓮は懐よりその枕を引きだして、后町(キサキマチ・内裏内の一部)の井戸に投げ入れたので、殿上人は皆帰って行った。
その後、井戸の中に人を降ろして枕を取り上げてみると、それは、木でもって枕を造り金箔を押した物であった。何と、寛蓮は本当の金の御枕を持って退出してしまったのである。同じような枕を造って持っていて、それを投げ入れたのである。
そうして、手に入れたその枕を少しずつ打ち割って、それでもって仁和寺の東の辺りにある弥勒寺という寺を建立したのである。
天皇も、「うまく謀ったものだ」と、お笑いになったという。

こうして、いつも参内していたが、ある時、内裏を退出して、一条大路を通り仁和寺に行くとて車を進めていたが、西の大宮大路の辺りで、衵(アコメ)と袴を着けた、こぎれいな姿の女の童が、寛蓮の童子の一人を呼び止め、何か話しかけた。
「何を言っているのだろう」と寛蓮が思いながら振り返って見ると、童子が車の後ろに寄ってきて、「あれに控えている女の童がこのように申しております。『ほんの少しばかり、この近くの所にお寄りください。「申し上げるべきことがあるとお伝えせよ」と仰る御方がお出でです』と申しております」と言う。

寛蓮はこれを聞いて、「誰がそのようなことを言わせたのか」と不審に思ったが、その女の童の言うままに車を進めさせた。
土御門大路と道祖(サエ)大路の交わる辺りに、桧垣を廻らした押立門(オシタテモン・屋根はなく、左右の門柱に扉をつけた門)のある家があった。
「ここです」と、女の童が言うので、そこで降りて中に入った。見てみると、前面に放出(ハナチイデ・母屋から張り出した建物で、接客用)が設けられた広廂がある板葺きの平屋で、前庭には籬(マガキ・竹などで目を粗く作った垣)を結い、植え込みも趣きあるもので、砂などもまかれている。粗末な小家であるが風流を感じさせるたたずまいである。
寛蓮が放出に上がってみると、伊予簾(高級品とされる)が白い状態で掛けられている。秋の頃のことなので、夏の几帳が清らかに簾に重ねて立てられている。その簾のそばに、つややかに拭き込まれた碁盤がある。碁石の笥(ケ)は美しく上等そうで碁盤の上に置かれている。その傍らに、円座が一つ置かれていた。

寛蓮がそこから離れて座っていると、簾の内で奥ゆかしく愛らしい女の声がして、「こちらにお寄りください」と言うので、碁盤のそばに寄って座った。 
女は、「あなたは、当代に並ぶ者がない碁の名手と聞いております。それにしましても、どれほどの碁をお打ちになるのか、ぜひ拝見したいと思っておりました。実は私の父であった人が、『少しは素質がある』と思われてか、『少し打ってみよ』と教えてくくれたのですが、その父が亡くなってからは、こういう遊びもあまりしなくなっていましたが、あなたが今日ここを通られるとお聞きしたものですから、失礼ながら・・・」と言う。
寛蓮は女の言葉を聞いて、笑いながら、「とても面白いことをおっしゃられますなァ。それにしても、どれほどお打ちになられるのか。何目ばかりお置きになりますか」と言って、碁盤のそばに近寄った。
その間、簾の間より香のかおりが芳しく漂ってくる。侍女たちは、簾越しに覗き見している。         

                                            ( 以下、(2)に続く )

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