『 USスチールの買収は困難か? 』
日本製鉄による USスチールの買収の是非を検討してきた
米国の対米外国投資委員会では 結論をまとめられず
最終判断を バイデン大統領に委ねると 両社に伝えた
かねてから バイデン大統領もトランプ次期大統領も
買収反対の意向を示しているので 大変難しくなった
米国にとって USスチールが
安全保障上 極めて重要か否かはともかく
米国の栄光を象徴する企業の一つとは 言えるように思われる
逆の立場を考えた場合 買収反対も分るような気がする
さて 結果や如何に
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『 伊周の薨去 ・ 望月の宴 ( 130 ) 』
寛弘七年( 1010 )正月二十九日、前太宰帥正二位藤原朝臣伊周薨去。御年三十七歳であられた。
この姫君や少将(長子道雅)などは、決して望みをお捨てにならなかっただけに、ただ打ちのめされて、茫然となさっている。
ひたすらに、ご自分も死に後れまいと泣き惑われているが、その甲斐があるのではあればともかく、まことにお労しいことと申し上げるのも、通り一遍に過ぎる。
実際、こうしてお亡くなりになるような御年でもないものを、このようにあっけなくお亡くなりになってしまわれたのは、長年いくら何でもこのままでは終われないと、中関白家の再興を定子皇后所生の敦康親王を頼りとしてきたものを、彰子中宮に若宮、今宮と二人の皇子が、天に輝く日月の如く誕生なさったので、まったく打つ手がなくなり、今となっては「こういう定めだったのだ」と気落ちなさったためにご病気となり、御命を縮めてしまわれたのであろうか。
帥殿の君達(キンダチ・道雅)はもとよりのこと、中納言(隆家)や、頼親の内蔵頭(伊周の異母兄らしい。)、周頼の中務大輔(伊周の異母弟らしい。)などという人たちは、帥殿のご兄弟たちで、哀れに思いお嘆きである。
一品宮(イッポンノミヤ・脩子内親王)や一の宮(敦康親王)などのご様子も、その哀れなことは推察するにも余りある。
「ああ、何と痛ましい世の中であろうか。悲運の上にこのようにお亡くなりになってしまわれるとは」などと、人々は取沙汰している。
中納言は、いっそう世の中を憂きものとお思いになるにつけても、僧都の君(隆円。伊周の同母弟。)とお話し合いになりながら、やはり世を捨ててしまいたいとばかり申されている。
この辛い世の中に、今はただ、ご自分のことのみ考えたいご心境であるのに、いざ決断するにあたっては、遠資(トオヨリ・正四位兼資のこと。従三位参議源惟正の子。)の娘との間に生れた女君たちの哀れさを思うと、すべてを捨てることが出来ないのも哀れである。
権力の頂点で君臨した伊周の父藤原道隆が亡くなると、中関白家は没落の道へと向かいました。
一条天皇の深い愛情を受けていた定子中宮(後に皇后)も、そのわずか五年ばかり後に世を去りました、享年は二十四歳という若さでした。
そして今、一時は道長と覇権を争った伊周も、望みを絶たれて三十七歳で生涯を終えました。
道隆が没して、わずか十五年後のことで、浮き世とは申せ、今生の儚さを感じさせられる出来事でございました。
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『 クリスマスは雰囲気だけ 』
今夜は クリスマスイブ
さまざまな催しが テレビで伝えられているのを
拝見して 雰囲気だけ楽しませていただいている
今年は ホワイトクリスマスの地域も 多いようだが
大雪の情報を伝えている ニュースを見ると
とても 雪を楽しむことなど出来まい さてさて・・・
☆☆☆
『 純愛を貫く ・ 今昔の人々 』
藤原高藤が、まだ十五、六歳の頃の事である。
高藤は鷹狩りが好きで、この日も南山科の辺りを駆け巡っていたが、申時(午後四時頃)許りの頃、突然辺りは暗くなり激しい雨に襲われた。
雷鳴も鳴りだし、供の者どもは雨宿りする場所を求めて、それぞれ散って行ってしまった。
高藤は、西の山際に人家があるのを見つけて馬を走らせたが、付き従う者は馬の口取りの舎人一人だけだった。
その家に行き着いて見てみると、ひなびた家ながら檜垣を巡らし小さな唐門もある。
高藤はそこに馬を乗り入れ、馬を口取りの舎人に任せて、寝殿の廊下の板敷きに腰を下ろした。
その間も、風雨はますます激しくなり静まる様子もない。雷電は恐ろしいほどである。
日も暮れてきた頃でもあり、「どうしたものか」と思案をしている時、家の奥の方から、青鈍(アオニビ・濃いはなだ色)の狩衣を着た四十余歳ばかりの男が出てきて、
「これは、どなたさまでいらっしゃぃますか。何かご用でも」と声をかけてきた。
高藤は、「鷹狩りの途中でこの雨に遭い、たまたまこちらの家を見つけて雨宿りさせていただいています」と答えた
家の主は、「それはお困りでしょう。どうぞ、雨宿りなさって下さい」と言うと、少し離れている舎人に、「こちら様はいかなるお方でしょうか」と尋ねた。
馬の口取りの舎人は、「然々の人でございます」と答えた。
家の主はこれを聞くと、驚いて家に入り、火を灯すなどしてから出てきて、「むさ苦しい所でございますが、ここでは何でございますから、雨が上がりますまで、部屋でお休み下さい。御衣なども乾かし、御馬にも草を差上げましょう」と部屋に上がるよう勧めた。
みすぼらしい下賤の者の家ではあるが、屋内は、いかにも由緒ありげに設えられていて、こざっぱりとした高麗べりの畳が三、四畳敷いてある。
高藤は、濡れた狩衣などを脱いでくつろいでいると、しばらくして、引き戸を開けて、年の頃十三、四歳ばかりの若い女が、薄紫色の衣一重ねに濃い紅の袴をつけ、扇で顔を隠し、片手に高坏を持って現れた。
恥ずかしそうに遠くの方で横を向いて座っているので、高藤が「もっと近くに」と声をかけると、そっといざり寄ってくる様子は、頭の形はほっそりとしていて、額の様子や髪が肩に懸かっている様子など、このような家の娘とは思われないほど美しい。
高坏を折敷に置くなどして引き下がったが、その後ろ姿を見ると、髪はふさふさとしていて膝の辺りを過ぎているほどある。
娘はすぐに戻ってきて、折敷に様々な食べ物などを乗せていて、それを高藤の前に整えたが、幼い娘なので、あまりうまく整えることが出来ないままに、少し下がった所に控えた。
見ると、飯の他に小大根、鮑、鳥の干し肉などあり、一日中鷹狩りをしてくたびれていたので、「下賤の者の家の食べ物でも仕方あるまい」などと思いながらも、すべて平らげた。酒も出されるままに飲み、夜も更けたので横になった。
しかし、高藤は、給仕に現れたまだ幼い娘のことが心に残り、いとおしく思われたので、「一人で寝るのは恐ろしい気がする。先ほどの娘をここに」と伝えると、娘がやって来た。
「もっと近くへ」と言って引き寄せると、抱き締めて横になった。そばで見る娘の様子は離れて見ていたよりもさらに愛らしい。
すっかり気に入ってしまったので、高藤はまだ年若くはあるが、行く末までも変らぬ愛を繰り返し誓って、長月(九月)の極めて長い夜を、全く眠ることなく結ばれた。
娘の様子はまことに気高く見えるのが不思議に思われ、語り合い契りあって夜を明かした。
やがて、夜も明けたので、出て行こうとするときに、高藤は帯びていた大刀を与えて、「これを形見に取っておきなさい。親が深い考えもなく結婚させようとしても、決して他の男に身を任せてはならない」と言い聞かせて、出て行った。
馬に乗って四、五町も行くと、供をしていた者共が高藤を探して集まって来て、無事に京の邸に帰り着くことが出来た。
しかし、父の内舎人(ウドネリ・天皇の身の回りの世話や雑務に当たった)は大変心配していたことから大いに怒り、この後、鷹狩りに行くことを禁じてしまった。
父の内舎人というのは、藤原良門といって、閑院右大臣藤原冬嗣の六男であった。冬嗣の御子たちは、それぞれ高位高官に昇られたが、良門だけは、正六位内舎人のままで若くして亡くなり、貴族の地位(五位)にさえ達しなかったのである。
鷹狩りを禁じられた高藤は、あの娘のことが気掛かりでならなかったが、馬の口取りをしていた男は京を離れており、あの家を知る者がいなくなってしまった。
悶々としているうちに月日は流れ、さらに、父が若くして亡くなり、まだ若い高藤は伯父たちの世話を受けることになり、気ままに行動できないままに四年、五年と時は流れていった。
高藤は容貌に恵まれ気立ても優れていたので、伯父の良房大臣は高藤の将来に期待を寄せていたが、何分、父に早く死別した身は恵まれないことが多く、また、あの娘のことが忘れられず妻を娶ることもないままに、六年ばかりが過ぎた。
そうした時、あの馬の口取りをしていた男が「田舎から上京してきている」という噂が伝わってきた。その男を呼び寄せて、あの家のことを話すと、「よく覚えています」と答えた。
早速に、その男と郎等一人を連れて、阿弥陀の峰を越えて行き、いつかの所に日の入り頃に着くことが出来た。
二月の二十日頃のことなので、家の前の梅の花がちらほらと散っていて、その梢で鶯が美しい声で鳴いていて、遣り水に落ちた花びらが流れている。
高藤は、前と同じように馬を乗り入れた。
家の主を呼び出すと、思いも懸けぬ訪問に、主の男は転げるばかりにして出てきた。
「あの時の娘御はおいでか」と尋ねると、「おります」と答えて招き入れた。
部屋に入ると、あの娘は、几帳のそばに半ば身を隠すようにして座っていた。近寄って見ると、あの時より女らしさが加わり、別人ではないかと思うほど美しくなっている。
「世にはこのように美しい人もいるのか」と思って見ていると、その傍らに五、六歳ぐらいの何とも愛らしい女の子が座っている。
「その子は誰か」と尋ねると、女はうつむいて泣いているようで、はっきりと答えないので、父の男を呼んで尋ねると、「先年、あなた様がお見えになられてから、娘は男のそばに近づいたことはありません。その前はまだ幼く、そのような事があるはずもありません。おなたさまがお見えになった頃から懐妊し、生れた子でございます」と答えた。
これを聞いて、高藤は心打たれ、枕元の方を見ると、形見として渡した大刀が置かれている。「このように深い契りもあるのだ」と感激しながら見れば、その女の子は自分にまことによく似ていた。
そこで、その夜はこの家に泊まった。
翌朝、高藤たちは、「すぐに迎えに来る」と言って、その家を出た。その時、「この家の主は、どういう者か」と尋ねさせたところ、その郡の大領(長官。土地の有力者が任じられ、七位程度。)の宮地弥益(ミヤジノイヤマス)であることが分った。
「このような下賤な者の娘とはいえ、前世の契りが深いのだろう」と、しみじみと思い、次の日には、身分相応の質素な車で、思い続けていた娘と女の子、そして母親も共々京の邸に迎え入れた。
その後、二人の仲は睦まじく、男子二人を続けて儲けられたのである。
さて、この高藤という御方は大変優れた方で、大納言にまで昇られ、後には内大臣に就かれている。
若き日に結ばれた娘との間に生れた女の子(胤子)は、宇多天皇の女御となり醍醐天皇の生母となられている。二人の男の子も、兄は大納言右大将に、弟は右大臣になっている。
そして、高藤の父良門は、兄弟たちの中で不遇であったと思われるが、その二人の子息は、弟の高藤はかくの如くであり、兄の利基の玄孫には、紫式部という才媛が登場しているのである。
人の生きた証は、その生涯だけで判じる事は出来ないのかもしれない。
☆ ☆ ☆ ( 「今昔物語 巻二十二の第七話」を参考にしました )
『 ホンダと日産が経営統合へ 』
すでに伝えられていたが ホンダと日産が
経営統合に向かって 正式にスタートしたと発表
三菱自動車も 加わることが濃厚だが
世界で第三位のスケールに なる見込みだ
ここでも「三人寄れば文殊の知恵」が 問われることになるが
それぞれの特徴を生かした すばらしい会社を作り上げて欲しい
これで わが国の自動車メーカーは
ほぼ トヨタとの二大勢力が実現するが
わが国の 命綱と言えそうな両グループだけに
共に さらなる発展を祈りたい
☆☆☆
『 長野県勢 強し!! 』
高校駅伝を 満喫させていただいた
それにしても 長野県勢の 強いこと強いこと
女子は 長野東が 一区で先頭に立つと
一度もトップを譲らず 完全優勝
男子は 佐久長聖が 大本命と見られていたが
大接戦となり アンカー勝負で競り勝ち 連覇を果した
勝負の世界は厳しいが 高校駅伝だけは
それぞれの学校が 実力相応の目標を立てているようで
その健闘に 力一杯 拍手を送りたい
☆☆☆
『 枕草子 』
清少納言さまからの贈り物
ご案内
『枕草子』全段を収録しています。
枕草子は、一部分をとびとびに読んでも十分楽しめると思います。
ぜひ、ご一読いただきたく、ご案内申し上げます。
『 ナンキンもレンコンも頂きました 』
今日は冬至 ナンキンもレンコンもニンジンも頂きました
ウドンの代わりにラーメンだったのは これも愛嬌
テレビでは カピバラさんたちが
あふれるほどのユズの入った 露天風呂でうっとり
わが家では とても対抗出来ないけれど
三つ四つ入った ユズ風呂を これから楽しませてもらう
身の丈に合った幸せを かみしめながら・・・
☆☆☆
『 ほどろほどろに降り敷けば ・ 万葉集の風景 』
沫雪の ほどろほどろに 降り敷けば
奈良の都し 思ほゆるかも
作者 大宰帥大伴卿
( 巻8-1639 )
あわゆきの ほどろほどろに ふりしけば
ならのみやこし おもほゆるかも
歌意は、「 あわ雪が ほんのうっすらと 降り積もると 遙かなる奈良の都が 思い出されるなあ 」
* 作者の大宰帥大伴卿(ダザイノソチ オオトモキョウ)とは、大伴旅人(オオトモノタビト・ 665 - 731 )のことです。
大伴氏は、古くからの軍事を専らとする名族ですが、旅人も軍事を中心に官職を勤め順調に昇進を重ね、従二位大納言にまで昇っています。
一方、歌人としても優れていて、万葉集には78首が採録されていますし、漢詩も堪能であったようです。また。万葉集の編纂に関わったとされる大伴家持は旅人の実子です。
* 710 年には左大将に任じられ、720 年には征隼人持節大将軍を勤めています。
そして、727 年頃、太宰帥(太宰府の長官)として筑紫に赴任しました。妻の大伴郎女(オオトモノイラツメ)やまだ幼い家持も同行しています。この人事については、旅人の防衛上の手腕を買ったものだという説と、後に長屋王の変と呼ばれる政変が起っているように、政情不安の中、藤原氏が旅人を遠のけたという説もあるようです。
* 太宰府に赴いて間もなく、妻の郎女が亡くなりました。旅人自らも大病を患ったようで、掲題の歌は、そうした頃に詠まれたものです。
まさに、望郷の歌といえます。
730 年 11 月に大納言に昇り、帰京を果します。しかし、翌年 7 月に病により亡くなりました。
上記しましたように、旅人は万葉集に78首の歌を残していますが、その多くは太宰府時代に詠まれた物のようです。
武人として卓越し、公卿の地位にまで上り詰めていても、妻を亡くし自らも病がちな身にとって、遙かなる奈良の都を偲ぶ気持ちは、堪え難いほどのもだったのかも知れません。
☆ ☆ ☆
『 円安は吉か凶か? 』
米FRBは0.25% 金利を引き下げ
わが日銀は 利上げを見送り
これを受けて 円ドル相場は 円安に動いている
円安を歓迎するむきと 頭を抱えるむきがあるのだろうが
貨幣の力から言えば 円安は 国力低下の象徴のように見える
円高で泣いたことはあるが 円安で泣いた記憶はない
と言う声も あるそうだが
厳しいインフレを経験していない人が 国民の大半であり
「物価の上昇」を目標にするような 経済政策は
勘弁して欲しい
☆☆☆