マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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8カ月ぶりに

2011年06月10日 07時29分44秒 | 食事が主な周辺をお散歩
節目節目にやってくるおふくろ。

GWは毎年のことだが今年は転勤地の東京から駆けつけた長男も合流、というか帰省だ。

家族が揃ったら食べに行くのは「わらじや」。

次男はくるくる寿司に行きたかったようだがわらじやもにぎり寿司があるのでと無理やりレッツゴー。

いつも満員御礼のお店は予約してでかけている。

テーブルにつくやいなやおしながきに目を通す。

そして毎回注文するネタに目がいくがとりあえず頼んだのはえだ豆350円に生ジョッキビール。

飲むのはおふくろととーさんだけだ。



そして、前回食べたなかでとびっきり美味かった地鶏造り3種盛り980円に握りずし盛り合わせ980円、若鶏のから揚げ580円だ。

地鶏の造りは美味い美味いと5人とも箸がすすんだ。

今回は魚の造りは頼まなかった。

これがイチバンだ。



ビールがさらに美味くなる地鶏造り。

瓶ビールに替えても味は抜群。



出し巻き450円、焼き鳥ネギマ3串380円も注文した。



テーブルがだんだん狭くなってくる。



それじゃお腹がもたないとさるうどん600円を頼んだのが次男。

そのころようやく握り寿司がやってきた。

くるくる寿司なんて目じゃない味に舌がうなる。

天ぷら盛り合わせ850円も美味い。

すっきりした味だが地鶏で満腹中枢に信号が入ったのか余っていく。

2人前は多かったか。



田楽焼きナス400円も注文した。

でてきたナスはとにかくでかい。

一見、お魚を焼いたようにも見える。

わらじやシーチキンサラダ500円や雑炊、漬物を頼んで〆にした。

総計で16000円。

ちなみに一人当たりではいくらかかったか。

3200円となるのだがビール代を除けば3000円を切っている。

満足のお味にまたでかけることになるだろうが、あとさきにもこの店にある和牛ユッケ880円は注文したことがない。

(H23. 5. 1 SB932SH撮影)

向渕高堂の花まつり

2011年06月09日 06時39分22秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
向渕(むこうぢ)は北の奥山から西出、上出、大垣内、中村、馬場出、宗脇の6垣内。

南の峰には堀越頓宮跡がある竜王淵。

40年ほど前は雨乞いで登った山(堀越神社)だという。

松明を手にした人たちは山頂まで登って淵の周りを巡ったそうだ。

囃し言葉は覚えていないというからなかったかもしれない。

少し暗かったというから陽が落ちた直後であろう。

いずれにしても龍神信仰があったと思われる。

宝ガ池がある水晶山(すいしょうざん)山頂は北の峰。

飯降(いぶり)薬師の石仏がある飯降の淵(春日神社;H23年造宮)がある。

向かいあうように淵があるから向渕の名がある地区だ。

お寺は北に正定寺、南の集落には安楽寺があり、いずれも京都本願寺系の浄土真宗だが、数百年も前は真言宗派だったようで一時は向渕を向寺の字が充てられたそうだ。

その名残かどうか判らないが木造十一面観音像(宝暦二年・1752年)を安置する高堂(たかんどう)がある。

長谷寺の仏像を造るための練習仏だと地区の人はいう。

正定寺を出発した白いゾウはお堂の前に置かれて会式が始まった。



境内には地区の人たちが加わった。

自治会主催の行事とある花まつりは舞台をお堂に移した。

当堂でも同じように産湯に浸かるお釈迦さんにアマチャをかけて手を合わせる。

漢方薬局で買ってきたアマチャで作られたそうだ。

子供会となったから日曜学校よりも人数が増えているがその子らとともに役員はお堂に登った。

本尊右手にはこの日だけに掲げられる室町時代とされる涅槃図を掛けて法要を営む村の行事は涅槃のレンゾであるかもしれない。

(H23. 4.29 EOS40D撮影)

向渕正定寺の花まつり

2011年06月08日 06時41分48秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
室生の向渕(むこうぢ)は都祁から室生寺に向かう県道にある。

その上の古道は高樋の五カ谷から伊勢へと通る街道で宿屋もあったそうだ。

その道沿いにある正定寺(しょうじょうじ)本堂に子供たちや檀家がこの日に行われる花まつりに集まってきた。

本来は4月8日であるが向渕にはまだ花は咲いていない。

それならば四月末が望ましいと祝日に行われている。

花御堂に飾るお花は地区に咲いている春の花。

奇麗な花は色とりどりに屋根を飾った。

可愛い字体の「花」文字に感謝する住職の挨拶で始まった。

7日が入学式だったお寺の日曜学校。

子供たちへの「教え」の場でもある。

一人ずつ進み出てお釈迦さんの誕生仏に柄杓で掬ったアマチャをかけて手を合わせる。

花まつりはお釈迦さまに出会わせてくれる日。

なんまんだぶつを唱えて聖典教本の唱和に「知ってるね」も合唱した。

読本もある花まつりは住職の法話もある講話の日である。



3千年前にインドで生まれたお釈迦さん。

ルンビニーの園地だった。

6本牙をもつ白いゾウさんに乗って母体に入った。

ある夜、母親が見た夢のことであった仏陀の受胎であった。

誕生したら7歩も歩いたという。

生まれてまもなく母親は亡くなり妹が育てた仏陀。

東の門から出れば老人がいる。

仏陀は思った。

いずれ年老いていく。

南の門には病気の人がいた。

いずれ病に陥るだろう。

西の門をでれば行列があった。

葬送の儀礼だった。

人は死ぬ。

そうすれば人は幸せになるのだろう、何のために生きていくのだろうと思った。

北の門を出れば清々しい顔の旅人がいた。

修行に出た聖なるお坊さんだった。

そのような話をする住職の声が聞こえる。



それはどの本に書かれているのかと子供たちに問えば読本と答える日曜学校の花まつりは白い象の行列に移った。

向かう先は木造観音像を安置する高堂(たかんどう)だ。

水の入った田んぼを見下ろす旧道を眺めながら子供たちが曳いていく白い象。

牙は見られないが手作りの張りぼてゾウの背には花御堂。

本堂に設えたものより小ぶりだが中には釈迦像がある。



今はリヤカーに乗せているが55歳の男性は長い棒で担いだと話す。

仏教会式であろう花まつりは健やかに育つ子供の願いでもあるようだ。

(H23. 4.29 EOS40D撮影)

一本木のオンダの牛馬作り

2011年06月07日 07時32分25秒 | 天理市へ
5月3日に行われる新泉の野神祭りの役道具が作られるこの日は今年が最後になったヒキドーヤのN家の倉庫で作業が始まった。

朝から夕方までかかる道具作りだ。

麦藁は昨年に作られた残り物。

対象の頭屋の子供は卒業し、その年が最後の行事になるはずだった。

麦はこの行事のために頭屋の耕地で栽培してきた。

麦畑を見ればどの家が頭屋か判るという。

その麦藁でムカデ、ウシ、ウマを作る。

ウシは頭を下げ、ウマは上げるように作っていく。

藁の部分しか使わないので実の穂は次年度用に種にするか捨てるのだという。

かつては子供が作っていた。

小学低年齢は麦揃え、高年齢は麦括り、その上は先輩として指導したという。

それは随分前のことで、実際は長老が指導していたそうだ。

見よう見まねで覚えていく子供のなかには早くも身につける子もいたそうだ。

要領得た子だったようだ。

その長老は亡くなられた。

が、今後のためにとビデオを収録されていた。

それを見て頭屋の親たちが作ってきたと話す。

子供が少なくなって仕方なくそうしてきた。

その子供の出番がある。

作業のマネゴトだけになってしまったが麦藁の「ハカマ」取りだ。

それに加えてヤナギの木の枝の皮剥ぎもする。

ツルツルーと表皮を剥げば真っ白な状態になる。

それを加工してウシやウマのアシやツノにするという。

簡単な作業の後は大人の作業になった。



出来上がったムカデは倉庫に吊るされた。

ウマとウシの頭部分を藁束に突っ込む。

取れないように工夫もする。

麦は長めでせよと長老が言った言葉は今でも覚えているという。

胴体ができたら足を入れる。

黒いツノが挿されたら完成だが作業はミニチュアの農具作りもある。

後半は食事を済ませてからも続けられた。

(H23. 4.29 EOS40D撮影)

日笠の水口祭

2011年06月06日 06時35分29秒 | 奈良市(東部)へ
田原の里の田んぼに水が入った。

そろそろ田植えの時期だ。

日笠では既に水口祭りを終えた田んぼがある。

この日だったのか判らないがお花やシキビと思われる木が挿してある。

その中には松苗をウルシ棒が見られる。

この年、茗荷天満神社の祈年祭でたばってきたものであろう。

お札は雨にうたれて濡れ落ちている。

風雨で飛ばされたのであろう。

とすれば前日であったかもしれない。

(H23. 4.29 EOS40D撮影)

津越・西村のこと

2011年06月05日 06時55分10秒 | 楽しみにしておこうっと
津越のヤッコメの出発地である大橋。

かつてはこの地を五軒屋と呼んでいた。

ダムができあがる前のことだ。

お店のご主人の三代前というから60年以上も前のことどころか、明治末か大正時代のころだと思うという。

五軒屋は津越の出店だった。

井倉家が地主から借りて建てられた長屋にお菓子屋、下駄屋、電器屋、呉服屋、魚屋に酒屋、郵便局が並んでいた。

街道を交差する十字路はそころじゅうから買い求めにくる住民たちの商店街のようだったという。

魚屋から発展を遂げた大矢商店はなんでも揃っている。

先代は伊賀上野まで行商に行っていたそうだ。

戦後は奈良市の京終になった。

買い出した商品はバタバタと呼ばれていた三輪トラックに積んで戻ってきたという。

その津越では簡略化されているものの形式を残しつつ数々の行事が行われている。

1月5日は隣村の西村(腰越)と共同で行われる岩清水八幡参りなどの代参を決めるフリアゲや翌日の6日に行われる初祈祷の豆腐田楽喰いがある。

西村の行事には3月21日には大師講。

4月3日はジンムサンノナツケと呼ぶ元服式典がある。

中学3年か高校3年生の年齢に達する子供を村で祝う行事だ。

神武祭の名付けだともいう。

西村の地区に対象の子供はいるが3年先のこととなるらしい。

8月21日辺りの日曜日には枡型の石仏にお大師参拝をしにいく。

9月8日前後になるかもしれないがコンピラサンと称して山の上に祀られているコンピラサンに出かける。

同月26日辺りには観音講をしているそうだ。

お盆の行事には家の習俗もあるという。

東京から取材班がやってきて松尾のN家でのサシサバを食べる様子を撮ったそうだ。

サバを求めて福井県、京都府などの関連する取材だったようだ。

そのサシサバ

商店のご主人もされている家の行事

2尾のサシサバを丸ごと串に挿す。

それを頭の上に掲げていただく。

まるで正月行事のイタダキサンの様子と同じだ。

8月13日のことだというから先祖迎えの行事と思われる。

また、杉原では涅槃の掛図があるらしい。

3月のことだ。話しぶりから子供が絡んでいるようだ。

ということはおそらく子供の涅槃講と考えられる。

(H23. 4.29 EOS40D撮影)

津越のヤッコメ

2011年06月04日 06時41分13秒 | 山添村へ
桜井市の小夫で聞き取った話に水口祭りの際に『ヤッコメやキリコを子供が貰いに来た』とある。

田んぼの水口に松苗を挿せばやってくる子供たち。

「ヤッコメくれな ドンガメはめるぞ」といって囃したて、村中の苗代を狙っていたそうだ。

ドンガメは石のことで、ヤッコメ(焼きコメ)が貰えんかったら石を投げるぞという囃子だ。

それと似かよった囃しが言い伝えられている山添村の津越。

「ヤッコメくらんせ ヤドガメはなそ」という台詞だ。

違いはみられるものの同じ行為であろう。

そのような囃しは見られないが、今でも続けられている津越のヤッコメ。

毎年4月29日の朝に子供が集落11軒を巡ってお菓子を貰いに行く。

出発地はダム湖畔の大橋。

この年はたまたまだがその近くにあるお店の子供たちだった。

対象の子供は幼児から上は中学三年生までだが地区には子供が3人。

昨年誕生した8カ月の赤ちゃんはベビーカー。

母親が押していくお友には小学一年生と保育園児のお姉ちゃんがつく。

「おはようございます」と挨拶をすれば玄関からお菓子袋をもった家人が出てくる。

「去年はお腹のなかやったけど大きくなったねぇ」、「保育園では何を歌っているの」、「小学校ではひらがな教えてくれた」などの声をかけてくださる。

子供の成長ぶりを隣近所の人たちが楽しみにしている姿に喜びと感動が伝わる。



1時間ほど歩いたヤッコメの行事。

かつてはその名が示すとおり「焼き米」貰いだった。

苗代の播種を終えて、水口祭りに蒔かれた焼き米や大豆の煎り豆の残りを子供たちが貰って歩いたという。

生活文化の変化に伴い、煎ったラッカセイ、ソラマメ、ナンバキビのトウモロコシに移っていった。

60歳以上の男性はカヤの実とか四角いモチを干したキリコだったと話す。

キリコはフライパンで煎ったものだったそうだ。

春を迎える子供の行事は成長を願う地区の祝賀でもあるようだ。

(H23. 4.29 EOS40D撮影)

矢田山の水口

2011年06月03日 08時37分58秒 | 大和郡山市へ
今月中旬には水口祭りが始まっていた矢田山。

その後は増えているだろうと思い自転車で回ってその様子を伺ってきた。

17日に見たのは北村地区の1軒。

Gさんの家だとN氏は話す。

そのNさん家では24日の日曜にされた。

息子さんとともに作業をされて午前中いっぱい掛って苗代を作った。

昼前には終わったので矢田坐久志玉比古神社でたばったお札を水口に挿した。

その横にはお花を飾った。

昨年よりも一週間遅れたそうだ。

お札は1月8日に行われた綱掛けの際に授かったものだ。



北村は北座にあたる。

楼門を潜った左側に座がある。

同月の2日には綱を作るというから正月三ガ日の2日だ。

これは毎年変わらない。

横山地区と中村地区は楼門で作られるが北村地区は当番の家だ。

昨年はN家の倉庫で作った。

北村の座は3軒。

そのうちの1軒がG家でもう1軒は室ノ木にあるという。

地区は17軒あるが座は3軒なのだ。

朝9時ことから綱作りの作業を始めて12時には終わった。

その綱は8日の日に神社行事で掛けられる。

横山地区と中村地区の綱は一旦くずして一本にする。

それは神社の鳥居に掛けられる。

北村の綱はといえばそれは主人神社の綱になる。

細いので作業はそれほどでもないが軒数が少なくなったのでたいへんだと話す。

昭和の終わりまでは2月にお日待ちをしていたが、3月のイノリは今でも続けている。

イノリは村の決済日。

掛軸を掛けることもなく村人が集まって決めごとをする日だ。

北村地区から下っていけば横山地区である。

それほど距離はない。

かつては辻の土手でとんどをしていた。

1月の半ばだというM氏は苗代作りの作業をしておられた。

家の前の田んぼだ。



数日前から徐々に進めていた苗代の箱置き。

それが済めば新聞紙を広げてその上から紗を被す。

そして風で飛ばされないように重しを置く。

すべてを終えたら神社でたばっていたお札を挿す。

それまで神棚に供えていたお札だ。

その作業は奥さんがするそうだ。

それから1カ月後には田植えをされる。

何年か前に作業を済ませた田植え後まもない時期の風景を母屋の建物を入れて撮らせていただいたことを思い出す。

ご主人の田んぼはここだけではない。

N氏もそうだが遠く離れた地域に分散している。

田植えは人数が揃わないとできないが苗代作りは一人で作業を済ませている。

その田植えが終わって雨が降ったらアマヨロコビをしていたという。

八朔もそうだが神社へ参ることもなくなったそうだ。

ここから少し南へ行けば垣内地区。

ここでも既に水口祭りが見られた。

お札の文字は判別しにくいが太い文字だ。

もしかとすればだが、矢田山金剛山寺の修正会で牛王加持されたお札ではないだろうか。

確認するにもその場に人はみられない。



同じようなお札が道路の東側にも見られたがここも農家の人が居なかったので確認はできなかった。

そこから寺に向かう道を行けば集落にあたる。

苗代作りを終えたN氏がトラクターに乗って戻ってきた。

とんどやお日待ちでお世話になった方だ。

明日辺りにはすべての苗代作業を終えるそうだ。

苗の箱は知人の機械で作られた。

新しく買ったので試運転を兼ねて作ったと話す。

今年の東明寺八阪神社で行われたオンダ祭で供えられた松苗をたばってきたのでそれと一緒に水口祭りをしてみようかなという。

N氏の話ではアマヨロコビは神社に行くこともなくその日は雨が降ったので農作業は休めとふれまわったという。

それはともかく畑で栽培している作物をいただいた。

白菜に玉ねぎだ。

自動車で来たなら持って帰れるが今日は自転車。

それならと行商に使っていたコオリカゴをロープで結えてくださった。

何十年も前に作られた竹網のコオリ。

城下町中心部の本町にあったお店で作ってもらった。

採ってきた竹を持ち込んだそうだ。

今でも現役のコオリは体型がくずれていない。

もらった野菜で鍋をするには肉が要るとしゃべったら肉はうちにおるという。

そうなんだ。N氏は牛舎で肉牛を飼っていたのだった。

先月には2年半飼っていた牛を牛専用の運搬車に積んで岐阜県まで競りに出かけたという。

夜中の2時に出発して名阪道を通って競り場に行ったそうだ。

実は水口祭りの様子を調査したのは理由がある。



5月8日に行われる県立橿原考古学研究所付属博物館の主催行事の「矢田丘陵周辺の遺跡と農耕儀礼にふれる」のためだ。

国際博物館の日記念事業で当日はJR大和小泉駅から大和郡山市の小林町の水口、田中垣内遺跡、東城遺跡を経由して矢田山の水口を巡っていくコースの確認でもあった。

通るコースに苗代はあっても水口がなければ農耕儀礼は解説できないというわけだ。

その後、5月3日、4日も継続して調査してきた。(後報)

(H23. 4.17 Kiss Digtal N撮影)
(H23. 4.26 SB932SH撮影)

三位一体のくらしといのり講座

2011年06月02日 16時52分15秒 | メモしとこっ!
4月16日から県立橿原考古学研究所附属博物館で開催されている春季特別展「弥生の里-くらしといのり―」の研究講座があった。展示初日に拝観させていただいたがお話を聞かなければ深みを得ることはないと思って県立橿原考古学研究所へ出かけた。講演は1.春季特別展の解説、2.御所市中西遺跡の調査成果、3.弥生の里の田んぼの虫たち生き物たちの3部構成。会場では多くの聴講生がおられる。年代からいえばおそらく博物館の友史会の人たちが大勢をしめる。会場はあふれんばかりで遺跡、古代ファンだと思われる170人。民俗関係の講演では考えられない人数だ、と思うが講話が始まったとたんにイビキの音色が聞こえだした。

<春季特別展「弥生の里-くらしといのり―」について>
「弥生の里」をキーワードに検索してみれば「温泉」にたどり着くそうだ。弥生の里はお風呂屋さんの名前が多いらしい。実際の弥生の里は発掘調査で出現した。京奈和道路の建設工事に伴って調査されたとき数々の里山が発見された。県内盆地部で発掘された調査成果をもとに復元展示されている特別展。弥生の里山の発見から当時はどのような生活をおくっていたのだろうか。水田から山々とともに暮らしてきた状況は中西遺跡で明らかになってきた。その様相はポスターなどに使われている。当館は小学生の遠足を兼ねた見学が多いそうだ。春の学習はちょうど弥生時代。その学びを深め、知っていただく博物館。小学校高学年対象の「こども考古学講座」も開催されている。次世代を担う子供たちの学びはとても大切なことだと思う。
唐古・鍵遺跡からは成人男性の骨が発掘されたそうだ。それは復元された顔のレプリカとなって登場する。同じ顔ではないが弥生人が暮らしていた登呂遺跡は後期。10㎡ほどの小水田は集落より低地にあった。それは現代でも見られるのどかな農村風景を醸し出す。高床式倉庫にはハシゴが掛けられていた。階段の端はネズミ返しがある。蔵のコメを食べるネズミが入ってこないようにした工夫の板だ。八尾南で発掘された竪穴住居は住まいが1m下。ハシゴで乗り降りする。ハシゴは現代とは異なる板状にくぼみが掘られている。靴を履いていれば登りにくいが裸足であれば登りやすいそうだ。裸足で暮らしていた証拠は水田に残された足跡でも判明している。親指の痕がはっきり残っている。当時はまだわらじがなかったのだ。集落遺跡の発掘は進んでおり小さな水田が多数発見された。なぜに小さいのか。大きい水田は平らにしずらい。根を張る稲は水がなければならない。しかし水を張ったままでは稲は強くならない。現代でもされている土用干し。水は一旦抜かれる。ヒビが入るくらいに田んぼを乾かす。そうすると稲は水をほしがって根を張るのだ。その話は昨年に農家の人に聞いた土用干しの理由だ。それはともかくなだらかな斜面に大きな水田は難しい。小さな区画割りはその当時の技術水準であったのだろうが現代でも大規模水田は少ない。埋め立て整備された土地はともかく山間を含めた日本の耕作地では小規模水田が適しているといえる。先日のニュースで報道されていた地震の影響で壊れた水田。小水田であれば修復はしやすいという。発掘された水田には水口(みなくち)がみられた。それがない水田もあるらしい。
5点の銅鐸が発見された桜ケ丘遺跡。1号銅鐸には狩猟の絵が刻まれている。鳥取や滋賀守山でも発見されているそうだ。それには一年間の生活か、農耕儀礼と思われる絵がある。銅鐸で見る弥生時代の暮らしぶり。シカは苗を食べる。その害をもつシカを人がおさえている。稲作は冬から始まる。田んぼを荒起こしをして土に空気を入れる。その道具がスキやクワだ。なぜに多くのシカ絵が描かれたのか。シカ絵にツノがあるのは土器。ないのが銅鐸。オスかメスか判断しにくいがと・・・。田んぼを荒らすのもシカだが、8世紀の播磨風土記にはシカの血をかけると豊作になると書かれているそうだ。害獣、益獣の2面性をもつシカ。ツノがあるのは立派に育った意味なのか、それとも生え換わりする成長サイクルをあらわしたものなのか文字をもたない弥生人のメッセージは絵画で残された。

<御所市中西遺跡の調査成果>
春季特別展のモチーフとなった中西遺跡。調査は根性で乗り切れるが発表はそうはいかないと言ってツカミをとった研究員。思わず拍手をする。南に巨勢山をもつ遺跡は満願寺川下流の扇状地。巨勢山には7百ほどの古墳群に條ウル神古墳、室宮山古墳、秋津遺跡があるそうだ。それがあるだけに中西遺跡も当初は古墳時代だと思われていた。ところが調査地が拡がるにつれ発掘されたのは弥生時代の水田。さらに森が発見された。弥生時代の洪水痕は地層が厚い。一挙に埋まったのであろう。それはどこからやってきたのかまだ解明されていない。高低差からいえばおそらく巨勢山が考えられるが・・・砂地である。山は粘土質なので他所からかもしれない。流木、倒れた木、生存していた木などさまざまな樹木の幹や根が発見された。森の中には西から東へ蛇行する流路がある。川岸の木は流路に向かって斜めに生えていた。年輪もさまざま。ツバキは30~90年、カエデ属は10~50年。イヌガヤは100年ものもあり11年もののフジが巻きついていた。現在でも利用価値が少ないとされるコクサギは2~15年。オニグルミは10~30年。クワなど土木木材として使うアカガシは60年以上とも。ムクロジは10~70年。ムクノキは30~90年。ツチノキ、クリノキ・・・。ニレやヤマグワ痕の周りには弥生人が歩く姿を想定できる足跡がたくさん発見された。森の中で食糧を求める姿だ。石鏃(せきぞく)もあれば動物の足跡もみられることから狩猟の場でもあった。焼け跡がある表面、径1mのエノキには伐採した痕が残されている。石斧で伐採した実験考古学。そのハツリ方法が見えてきた初の発見だそうだ。水田、森には煮炊きした痕が発見されていない。住まいした集落はどこにあるのだろうか。洪水痕の表面はその後も開発された水田があった。災害を乗り越えて生活してきたのであろう。

<弥生の里の田んぼの虫たち生き物たち>
日本列島は東アジアモンスーン地帯。青森の遺跡から発掘された炭化米によって水稲の歴史は縄文時代晩期からであったことがわかっている。2800年前のことだと話される。それまでは弥生時代(前期で2300年前)が水稲の始まりだったと思われていたが大きく覆された大発見である。その炭化米は中国長江から流れてきたジャポニカ米だったことがDNA鑑定で判明しており海を越えてやってきた人たちがもたらしたものと想定されていると話す下学芸員。
唐古・鍵遺跡では炭化米もあったがさまざまな生物も存在していた。内濠、外濠で囲まれた環濠集落。ムラの外は水田でさらに森があった。その間にあったクヌギ林は2次林だというからそれは食糧の森であろう。エノキの葉を食べるタマムシが発見されている。メスがタマゴを生んで幼虫が木の髄を食べて育つ。タマムシが居たということはエノキが生えていたということだ。縄文人も食べていたというオオスズメバチ。高タンパク、高脂肪の昆虫は当時の食糧。先月には丹生町に住んでいる人に勧められてそれを食べた。噛めば甘く口に広がる味。もう一度食べてみたいおつな味は美味かった。ハチ好きな人にはこたえられない味だ。食べられる昆虫だけでなくさまざまな生き物が発見されている。ハナムグリは花に潜って花粉をつける。その様子から名付けられたそうだ。センチコガネは西洋のフンコロガシのようにフンダマ(糞玉)は作らない。奈良公園のセンチコガネは参加した自然観察会で教わった。シカのフンはセンチコガネの住処だ。野生動物のフンが生活環境であったことから多くの動物がいた。肉食性昆虫のカマキリやコガネグモが銅鐸に描かれている。四方に伸びる四本の足をもつのはアメンボウであろうか。古代人が伝える昆虫は何を意味するのであろうか。
イチモンジセセリの幼虫は稲の害虫だといわれているが実際はそうでもないらしい。ウスバキトンボは6月初夏に東南アジアからやってくる。タマゴを産みつけ秋に成虫となって日本で死ぬ。一方、アキアカネは日本で生まれて育ち死ぬ。大移動はないが7月に羽化して暑いうちに山間に移動する。小移動だがその際に色が赤くなる。涼しくなり収穫が終わった田んぼに戻ってきて産卵をする。田んぼで冬を越して代掻きのころに卵から孵る。乾燥に強いタマゴなのである。不思議な生態だが先の水田水張りの話。水を張った田んぼは一旦切る。それで稲の根を張らす。そのときのヤゴは育っているのだ。その田んぼに水が張られたときのことだ。カブトエビ、カイエビ、ホウネンエビが見られる。自然観察会でもお馴染みの水生昆虫類だ。カブトエビは元々砂漠にいた生き物。乾燥した砂漠は厳しい環境。そんななかでしか生存しないカブトエビ。20年以上の乾燥であっても孵化したという実験結果が得られているそうだ。カイエビは3億年前の昔から日本にいた。ホウネンエビは田んぼが豊作になるという昆虫だ。田んぼの水の泥をかきあげてかく乱する。雑草がはびこるのを防ぐ。これらの水生昆虫がいる田んぼは稲の実りが良い。初夏、ユスリカが大量に発生する。それは蚊柱(かばしら)現象に現れる。それを食べるヤゴ。トンボの成長に繋がる。まさに生き物によって田んぼの営みが支えられているのである。ホタルの幼虫は何を食べているのか。ゲンジボタルはカワニナ、ヘイケボタルはヒメモノアラ貝やサカマキ貝にタニシやどぎつい色のジャンボタニシだ。1980年代、食用のために業者が台湾から輸入した南米原産とされるジャンボタニシはエスカルゴの味には到底ならなくて野生化し繁殖してしまった。もちろん弥生時代には存在していない。
稲の害虫にウンカがある。背白ウンカは6月下旬ころに東南アジアの大陸から飛んでくる。ヨコバイもその仲間だが種類によっては稲につく位置が異なる。上部の実がある部分はツマグロヨコバイやヒメトビウンカ。中部の茎は背白ウンカ。下部はトビイロウンカだそうだ。水面にいるケシカタヒロ(芥子肩広)アメンボは水面に落ちたウンカを食べる。食物連鎖は稲→ウンカ→カエル→ヘビ→トビへと。藁に着く微生物はミジンコ→オタマジャクシ→ヤゴ→カエル・・・。ヒガンバナが咲くころが実りの時期。収穫に繋がる生き物のにぎわいが営み。それらの食物連鎖の様相を銅鐸に描かれたのであろうか。何十年も参加してきた自然観察が考古学に繋がった。民俗行事取材や自然観察会に努めてきたことがこうして三位一体となった・・・と思う。

<プレートテクトニクスから地震考古学>
ここで加えてほしいのが地球物理学だ。はるか昔、地球が誕生して今も生き続けている地球。昭和50年(1975)に発刊された日本語版別冊サイエンス誌で読んだプレートテクトニクス理論はマントル対流によって・・・と解説されている。読んだのは今から36年も前のことだ。1912年にヴェーゲナーによって提唱された大陸移動説のプレート移動概念を導入して体系化された理論。地球には割れ目がある。そこから動き広がる地球のプレート。40億年前から動き出した大陸移動は地殻の運動。火山、地震発生に活断層の根源はそこにある。
寒川旭さんが当時通産省工業技術院地質調査所研究官だった時代に創始(その後に提唱)された学問である地震考古学。発表時点ではそれほど注目されていなかった。研究の専門は活断層。それまでの研究で活断層をほぼ特定された氏は、昭和61年(1986)滋賀今津の北仰西海道遺で現場の発掘担当者から地震の痕跡を尋ねられたことがきっかけだったという。昭和58年(1983)に発生した日本海中部地震で海面に面した水田地帯に噴き出した噴砂の現象を思い起こされたそうだ。液状化現象によって砂が噴き出す。その痕跡だと考えられる古墳には幅1mぐらいの砂がつまった溝のような割れ目。それは下部が末広がりになっていたという。それはまぎれもなく古代の地震記録。調査の結果、それは縄文時代後期に発生した地震だった。それからは本格的に各地を調査されたそうだ。年代を特定すれば周期がある程度断定できるのでは、ということだ。平成8年5月13日発行の産経新聞記事が手元にある。「被災地からレポート活断層の履歴・遺跡が語る爪跡」の切り抜きを取っていた。それによれば文禄5・慶長元年(1596)に発生した慶長伏見地震で豊臣秀吉が築いたばかりの伏見城が倒壊した。神戸市の兵庫津遺跡からは液状化現象が、同市の灘区の西求塚古墳内部には石室が真っぷたつで墳丘が横に移動した無残な姿が検出されたという。京都八幡市の木津川川床遺跡や内里八丁遺跡でも大規模な液状化現象があった。大阪の門真・守口に跨る西三荘・八雲東遺跡もそうだった。それは400年も前の地震状況を伝えている痕跡だった。
当時の研究名称は、まだ名がついておらず古代学研究会での発表タイトルは「考古学の研究対象に認められる地震の痕跡」だった。遺跡調査の過程で佐原眞氏(2002年没)から発展性のある研究だからと「地震考古学」名をつけられたようだ。昭和63年(1988)のことだというから比較的新しい学問だが、寒川氏も液状化現象もなぜか知っていた。それより以前にテレビ放映されたことだと思うのだが・・・腰は低く柔らかい口調だったことだけは覚えている。阪神大震災が発生したのは平成7年(1995)。その年に再版された「地震考古学(1992年初版中公新書刊)」は隅々まで読み漁ったことを覚えている。液状化現象で出現するのは砂噴。粘土室ではない。ということは川砂が溜まった沖積平野、扇状地であろう。埋立地ならなおさらだ。さらに堆積した貝塚が発見される地がある。何万年も前は海だった証し。それも液状化になりやすいのだろうか。そういった知識をもたないが地質学・地球物理学にも考古学は繋がっていくのだろう。そう思って蔵書を引っ張り出してみれば「考古学の散歩道(1993年初版岩波新書)田中琢・佐原眞共著」がでてきた。『考古学は遺跡から発掘、収集した情報によって人の生活活動の歴史の再構築を試みる研究分野だった。そう考えるのが学界の常識だった。しかし、状況は変化しつつある。発掘には遺跡そのものだけでなく、動物相、植物相に関する情報が過去の人間をとりまく自然環境も含めて考えねばならない』と田中琢氏(2002年没)が語っていた。この本を読んでから既に18年も経った。時代は混とんとしてきたがそれ以上のモノはでていない・・・と思う。

(H23. 4.24 SB932SH撮影)

番条町お大師さま参り

2011年06月01日 06時48分07秒 | 大和郡山市へ
毎年4月21日は大和郡山市番条町集落一帯で祭られるお大師さんの日。

江戸時代末のころに始まったと伝えられている。

昭和8年(1933)に残された由来書によれば文政13年(1830)に村で流行病いコレラが広く発症した。

そのことがあり申し合わせた当時の村人は弘法大師を信仰することになった。

四国八十八カ所巡りをした際に本尊を貰い帰り村に奉納して奉った。

村落は88軒あったことから1軒ずつ弘法大師を奉るようになったとか。

明治15年(1882)の村誌によれば95軒が真言宗派と記されているそうだ。

いきさつは判らないが、家で奉っているお大師さんをこの日の朝に厨子ごと玄関前に移動する。



祭檀は煌びやかで鮮やかな文様のはいった敷物を掛ける。

無地もあるがそれなりに美しい。

5品の椀物の膳は各家の料理であろう、煮物のアブラゲ、シイタケ、マメ、ナスビ、コンニャク、ニンジンなど多種多様な精進料理は吸い物や酢物も。

シイタケ、ズイキ、ミツバ、フキ、名の花など季節の野菜はそのままの生調理で、果物、お果子も盛られている。

なかには水引で括っているものもある。

アズキゴハンにタケノコ、コーヤドーフはつきものだがその家の持ち味が設えられている。

ときには奈良漬物や大きなサツマイモに魚の干物もある。

特段の決まりもない膳で高ツキで盛られる家もある。

「うちはこうしているけど、他の家はどうしているんやろ」と他家(北垣内)の膳を確かめに巡拝を兼ねて歩く住民もいる。

同町に伝わる話によれば『村から引っ越しをされようとした家があった。村を出て橋の袂まで来たが引っぱる牛が動かなくなった。尻を叩いても動じない牛だった。荷車に積んでいた引っ越しの所帯道具のうち、お大師さんの厨子を下した途端に牛が歩き始めた。それ以来、村を離れる際にはお大師さんを親戚や隣近所、阿弥陀院、大師堂で預かるようになった。』という。そうした預かりのお大師さんを並べて出開帳をされている家が数軒みられる。



酒造りの家人が昭和51年(1976)に書き記された「我が家の年中行事」によれば、この日は春祭りで「お大師さんの連座(れんど)」とも言って招待した親戚じゅうが集まったという。

前日に搗いたヨモギダンゴをコウジブタに入れてお参りする人に供養としてもらっていただく。

集まった親戚には手料理で御馳走をして甘酒を振舞った。

婚礼があった家では新しい親戚を案内して近所のお大師さんを参ってもらった。

毎年来られる人は顔なじみになるので「今年もお参りに来ました」と挨拶することもありなんともいえない風情だったと書かれている。

お大師さんの祭壇には一束のコウヤマキが供えられていた。



それぞれの家人の話では「当家で置いたものではない。参拝者の人が置いていった」という。

それは各家ともにあった。

今年はじめてのことだという。

コウヤマキは高価な木。

明日からヨシ屋根を葺き替える大和棟の住民は随分前に下市の広橋から買ってきたコウヤマキが育って大きくなったという。

そのコウヤマキでないことは確かだと話す。

一束ずつ供えられたのは志があったのだろうと酒造りの当主が話す。

それはオンダ祭で見られる松苗のようだ。



当番で交替してきた大師堂では発見された弘法大師座像の刷り札も箱に仕舞われ、密教法具のひとつである三鈷杵(さんこしょ)を組み合わせた文様が見られる幕(柳裏住民の寄進)も下ろされた。

朝から出開帳されていた各家のお大師さんもそろそろ終い時間に移っていった。

(H23. 4.21 EOS40D撮影)