マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

北野の春花模様

2011年06月20日 08時08分41秒 | 自然観察会(番外編)
山添村の北野で田植え初めを取材したおり、咲いているお花が目についた。

農家のお家の庭に咲く白い花。

「この花はなに」と聞けば「ムベ」と答える。

アケビに似た実がついて、食べても同じような味だという。

そのアケビが家の畑に紫色の花で咲いていると手押し車をおしながら80歳のご婦人が案内してくださった。

昨年にお伺いしたときは膝を痛められて数十メートル歩いては休憩を繰り返しておられた。

150メートル先の田んぼには着かなかった状況だった。

今年は手押し車で歩行される。

社協のモノよりも使いやすい押し車は近所の人がくださったそうだ。

そうこうしているうちに着いた畑の土手。



それは美しい白い花で中央は紫色だった。

小葉が5枚だ。

アケビの実は秋にみかける花は初めて拝見した。

そのアケビの木の下には山野草が一輪、一輪と咲いている。



白い花が直立する。

帰宅してから図鑑で調べてみればイチリンソウのように見えた。

が、それは違った。

葉の形からすればそれはニリンソウだった。

その花は開花直後が一輪でその後に二輪になるそうだ。



そのニリンソウが咲いている付近には紫色の斑点模様の花が咲いていた。

カキドオシである。

(H23. 5. 7 EOS40D撮影)

かつての農具

2011年06月19日 07時52分17秒 | 民俗あれこれ
5月12日頃には池の水を引いていた。

冬場は田んぼの水をあげてナタネやムギを栽培していた。

いわゆるウラ毛である。

ナタネは油屋にもっていって絞ってもらってナタネ油にしてもらった。

ムギは大きな茶壷に入れて保管していた。

ウラ毛をしていた田んぼはどうしても稲作が遅くなる傾向にあったそうだ。

水を引くまでにナタネを引かなければならない。

その後でムギを刈っていた。

刈り取ったムギは竹カゴに入れて運んだ。

それは昭和25、6年のころの農作業だった。

コタツもアンカも電気もない北野の時代だった。

付近に生えていた竹を伐採してカゴ作りの人に編んでもらった。

それに和紙を張ってカキ(柿)のシブ(渋)汁で塗った。

シブガキを石の壺に入れて搗いた。

茶色の汁がでてくるのでそれを瓶に詰めておく。

糊はコンニャクをすったものだった。

ダイコンオロシやスリガネでコンニャクをすり潰した。

それが和紙を張る糊だった。

コンニャク糊は火に強かったからそうしていた。

和紙を張っては乾かして、また糊をつけて和紙を張る。

それを2枚、3枚と何度か繰り返して張った。

それが乾いてからカキシブを刷毛で塗った。

そのときの竹カゴはないがツチモッコが残っていると見せてくれた。

丸く平たいカゴはツチカゴとも呼んでいる。

これは今でも現役。

とはいっても共同井戸のろ過敷きとして利用しているのだ。

最初に大き目の石を敷く。

その上には炭だ。

さらにシュロの葉を敷き詰めて粗い石を敷いていた。

このろ過敷きは8月7日の井戸替え作業で入れ替えているのだ。



農具ではないがヘチマも拝見した。

何年か前に一度作ったことがあるヘチマのタワシ。

ほしい人がおるから作ったが、高い棚を作らなあかんしタネヌキがたいへんなので一回でやめたとご主人は話す。

(H23. 5. 7 EOS40D撮影)

北野の植え初め

2011年06月18日 07時45分04秒 | 山添村へ
田植えを8日に予定していた山添村北野のI夫妻。

その日は所用で訪れることができないと伝えたら前日に植え初めをしてあげましょうとお誘いがかかった。

ご夫妻には度々お伺いし北野の暮らしの様相をお聞きしている。

「いつでも来てや、そうして私らの話し相手になってや」というご夫妻。ありがたいことだ。

さて、田植え初めの始めは氏神さんの北野天神社で祭礼された祈年祭でたばったサカキの「ミトマツリ」のお札を畔に挿す。

毎年2月25日に祭礼されるときに年預(ねんにょ)さんが作られるお札だ。

今回は明日になっているためそれは見られないが最初に12本の稲苗を田んぼに挿す。



横一列の12苗のようだ。

それに向かってカヤを12本とも畦に挿す。

苗とカヤが並列に並ぶことになる。



そこに田んぼ近くに生えているフキを茎から刈り取って葉下からちぎる。

それも12枚並べて3種が並んだ。

一年の月数を現すというが閏年であっても12本である。



そして持参した適量(数粒)のオセンマイをパラパラとフキの葉に落としていく。

フキの葉はオセンマイを乗せるお皿のようである。

山添村辺りの山間部では、JAから苗を購入するようになってから苗代作りを見ることがない。

昔は4月15、16日ごろが朝からシシマイだった。

午後はモミオトシをした。

そのときがナワシロマツリと言ってミトマツリのサカキを挿していた。

農家の営みにおける現在の豊作の祈りはいきなり田植え初めである。

それは植え初め(うえぞめ)、或いは植えはじめと呼んでいる。

いわゆるサビラキのことである。



手を合わせて「昨年もお米をとらせてくれたから、今年もとらせてください」と祈る。

苗がすくすくと育つように田んぼを守ってくださいと念じているという。

こうした農家の風習はほとんど見られなくなった。

「若いもんはこんな風習は知らんからいずれは消えていくんだろう」とご主人は仰る。

田植えが終わればその場で「ウエジマイ」の作法をされる。



それは明日になるんだがと、そのときに供えられるフキダワラとオツゲの木とみせてくれた。

オツゲの木はウツギの木だ。

今はまだ蕾だがもうしばらくすると白い花が咲く。

それをこの場に挿す。



フキダワラはその中にご飯を入れてワラヒモで結ぶ。

それを数個、フキの葉の辺りに置く。

フキダワラは田植えの休息時間に食べるものでもある。

熱いご飯を入れたフキダワラは香ばしくて美味しいそうだ。

そのときフキダワラは「オマチカネのオヤツ」と呼んでいる。

田植えが終わった北野では5月12日の九十八夜。

自然に咲き誇るヤマツツジが満開になるころで神野山に登っていたそうだ。

お弁当を持って頂上まで歩いた。

到着するころは汗が吹き出すぐらいだったという。

重箱に寿司を詰めたお弁当はツツジの根本で広げて食べたそうだというからいわゆる農休みの日であろう。

農作業はそれからも毎日が畑仕事。

そのキンズイのときに食べていたのがホガシワのメシだったそうだ。

若い葉を刈り取ってそこに熱いご飯を乗せて葉を被せる。

都祁南之庄や田原の里で拝見させてもらったものと同じだろう。

そのホオの葉は秋口に落ちている葉っぱを集めてくる。

葉は洗って湿らしておく。

その葉にミソを乗せて食べていたというから岐阜高山の郷土料理であるホオバミソ(朴葉味噌)のことであろうか。

(H23. 5. 7 EOS40D撮影)

北白木さびらきの松苗

2011年06月17日 07時36分48秒 | 桜井市へ
正月初めに行われていた北白木のオコナイ行事。

五穀豊穣を祈って元安楽寺とされる公民館で祭った松苗は再び田植えの時期に登場する。

北白木の田んぼは山間特有の狭い谷あいの様相をみせる。

軽トラック1台がすれすれに通れる山道だ。

そこから眺める風景はまさしく山間農村の田園姿。



5月のかかりから田植え作業を始めている。

その松苗は最初に田植えをする個所にお花とともに建てる。

いわゆる植え初めと呼ばれている農家の風習でさびらきとも呼んでいる。

フキダワラは見当たらなかったが透き通るような谷水が瑞々しい。

おいしいお米はおいしい水が命。

今年の秋も実り豊かな白木のお米ができることだろう。

当地を離れて萱森へ車を進めた。

そこでも同じように田んぼに水が張られている。



農家の営みはもうすぐであろう。

その向こうでヤマザクラがほほ笑んでいる山里の佇まいには都会の喧騒さが見られない。

心が溶け込むっていうのはこういう場所なのだろう。

(H23. 5. 5 EOS40D撮影)

野依白山神社御田植祭

2011年06月16日 06時42分54秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
かつては旧暦の5月5日に行われていた野依白山神社の御田植祭。

田植え時期の真っ最中で、神様の田植えとされる当日は作業をしてはならない、牛を使ってもならないとされていた。

それでは不都合だと大正時代の初めごろに新暦で営まれるようになった。

5月5日の節句だけに「節句オンダ」と呼ばれるようになった。

この日は女性の休息日で、田植え前の予祝行事として始まったとされる。

県内で見られるオンダ祭には牛耕の所作が約半数ある。

その牛もなく奉仕者の男たちが神役となって舞や詞章(唄)とともにオンダの所作を行う形式はたいへん珍しい。

御田植祭は神事であるが神職は存在しない。

集まってきた人たちがそれぞれの神役を担って行われるのだ。

翁の能面をつけた男神の大頭(だいとう)、姥の能面をつけた女神の小頭(しょうとう)はともに烏帽子を被り直衣(のうし)姿。

翁は腰に杵と茣蓙(ゴザ)をぶら下げ、手に蛇の目傘を持つ。

履物は高下駄で田主を勤める。

姥は間水桶(けんずいおけ)を背負って田主のおばあさん役を勤める。

田んぼの土を大きく掘り起こす荒鍬(あらくわ)役、水を張った田んぼの土を均す萬鍬(まんぐわ)役、田植えがし易いように田んぼの隅々を仕上げる小鍬(こくわ)役、早苗に見立てたウツギの苗を田んぼに配る苗うち役、田植えを勤める植女(しょとめ)と呼ばれる早乙女は菅笠を持つ。

囃子方は音頭取りの大太鼓打ち1人と大太鼓持ち2人に小太鼓打ちで間水(けんずい)配りの大勢だ。

三人の植女はご婦人の手によって化粧が施され、座敷に座って机にお酒が配膳される。



神事は始めに神酒をいただく。

この所作は「シモケシ」と呼んでいる。

祭りごとを始めるにあたり身を清めるというシンプルな儀式である。

舞の神事は数か所に亘って繰り返し所作される。

初めに植女の舞を社務所で練習をする。



囃子唄は1番に「今年のホトトギスは何をもってきた 枡と枡かけと俵もってきた」、「ソーヤノ ソーヤノ」と大太鼓、小太鼓の音とともに囃す。

2番は「西の国の雨降り舟は何をもってきた 枡と枡かけと俵もってきた」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃す。

3番に「白山権化の舞も」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃すなか左に舞回る。

4番が「やよの舞も」、「ソーヤノ ソーヤノ」と囃すなか右に舞回る。



次に社務所前で、境内中央の大杉前、境内西の角、境内の鳥居前と続く。

次は場所を本殿の前に移す。



足元を見ればなんびと(人)も素足だ。

神役の人たちはこれまでの所作を裸足で演じていたのだ。

これはすべてを終えるまでそうしている。



野依のさまざまなマツリの際に本殿に上がる。

そのときも裸足になる。

神さんへの敬意を表するといことであろうか。

そこでは植女の舞のあとに大頭が登場する。

「田主どんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに左足から一歩いでて傘を広げる。

一歩引いて傘をすぼめる。



次に荒鍬が登場して「荒鍬はんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに掘り起こす所作をする。

次は萬鍬の登場。

「萬鍬かきさんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに土を均す所作をする。

さらに小鍬も登場して「小鍬さんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」と囃子とともに仕上げの所作をする。

そして苗籠を担いだ苗うちが登場し苗に見立てたウツギの小枝を蒔いていく。

再び登場した植女たち。

今度は一人ずつ登場する。

囃子は「植女はんの申すには 八百世の中 米まで良いようにようござった」である。

このように詞章はいずれも演者を主役に米作の豊作を願う祈りが込められている。

一連の所作を終えれば石積階段を下りて、再び境内の鳥居前に場を移した。

そこで登場したのが行事の邪魔をする子供たちだ。

演者一人ずつに群がる子供たちははしゃぎまわる。



境内西の角に転じたときにはお櫃を中に入れた間水桶を背負う小頭が社務所から現れた。

ようやく回ってきた出番だ。

間水役はそこからお櫃としゃもじを取り出して食事をする所作をする。

その際は参拝者も交えて間水が行われる。

「このコメ(米)はハクサンゴンゲのマイ(米)というて、これを食べたら一年中健康にすごせます。みなさんにも配りますのでワッというてください」と伝える。

マイは米であって「白山権化の舞・やよの舞」に通じる洒落詞でもあろうか。

間水役は大頭から神役へ、盛ったお椀に見えないご飯をしゃもじついで口元に差し出す。

そうすると「ワッ」と声をあげる。



一般観客へも同じように配られるけんずいの所作はお腹が一杯になったという返答の意思表示だそうだ。

それを終えたら再び演者の舞が続く。

一度動き出した子供たちは演者の邪魔師。

衣装を掴んだり所作を止めたりする。

そうした所作を終えるのを見届けて小頭は社務所に戻っていった。

その後も白山権化の舞・やよの舞が演じられる。

境内中央の大杉前で、そして、屋根にヨモギとショウブを乗せた社務所前で舞って仕舞の田植えの幕を閉じた。

まことにユーモラスなオンダ祭である。

境内には祭りのあとのウツギが残っていた。



こうして野依の田んぼの苗代は生育していくことであろう。

その傍らにはお札が挿してある。

これは正月の日に社務所で頭家が版木で刷って朱印を押したもので、3月15日の涅槃会で奉られた。

梵字のような文字だが何を書かれているのか判らない。

その日に配られたお札は「降三世(ゴーサン)」と呼んでいる。

充てる漢字は難解だがまぎれもない牛玉宝印のお札であろうが朱印の向きは上下逆であろう。



かつては仏母寺と呼ばれる神宮寺があったそうだ。

間水桶の裏には「飯桶・明治三年・野寄邑仏母寺」と墨書されているのがその証しだ。

現在はお寺が存在しないがオコナイの営みがあったことが伺えるお札は苗代の成長を見守っている。

(H23. 5. 5 EOS40D撮影)

蛾の仲間

2011年06月15日 06時38分35秒 | 自然観察会(番外編)
石川町で祭礼を取材していたおりに見つけた昆虫。

石柱にへばりついていた緑模様が気にかかりシャッターを押した。

その文様はまるで擬態をしているかのように見えた。

体長5cm弱ぐらいだ。

触角をみれば蛾の仲間。

おそらくスズメガの一種だと思われる。

自然観察会でお世話になっているやまちゃん先生の見立てでもスズメガの一種ではないかという。

日本産蛾類図鑑は持っていないのでネットで調べてみたらそれらしき文様がヒットした。

それは間違いなくウンモンスズメの文様だった。

(H23. 5. 5 EOS40D撮影)

石川町八坂神社節句

2011年06月14日 06時38分29秒 | 大和郡山市へ
節句につきもののチマキがある。

米粉を熱湯でこねて、蒸しあげて搗く。

それをチマキの数の大きさに分けてチマキの型にして串に挿す。

茅の葉で下包みして、それを菰草で包む。

さらに藺草で編んで括る。

下は長さを揃えて切り3本か5本の化粧縄で縛る。

熱湯にくぐらして水気をきれば美しい緑色のチマキ(粽)を作っていたと番条町に住んでいた婦人は家の記録として書き記していた。

節句のチマキは家の食事だったようだ。

県内の祭りごとでそのチマキを神社に供えるところが散見されるが、この日を節句と称する石川町の八坂神社ではそれはでてこない。

節目、節目に氏神さんにお参りして豊作を祈願する六人衆。

この日も風呂敷に包んだお皿を手にして公民館にやってきた。

いつもの人たちだ。

当番の人が用意したお茶をすすってお菓子をいただく。

行事の前はいつもそうしている。

しばらくは歓談をして近況を語り合う。

そろそろ始めようかの言葉に御膳をしかかった。

大きな膳は大御膳(おおごぜん)と呼び三枚、小さめは小御膳で四枚だ。

そこに乗せたのはカマボコ、コーヤドーフ、キュウリ、コンブ、お神酒、洗い米である。

七枚の御膳が揃ったら春日さん(かつては伊勢天照大神宮)、オオクニヌシ、スサノオを祭る三社やアタゴサン、オイナリサン、西、東のハツホサンと呼ばれているイワクラに供える。

手を合わせて参拝したのちは三社を時計方向にぐるりと3周する。

村の人はだれも寄ってこないがこうしてお参りをしている。



御膳の御供(ごく)は下げられて公民館でめいめいが持ってきた皿にいれて持ち帰る。

風呂敷の様相はその中身が増えたので来たときよりも膨れ上がった。

市内の行事は数々あるがこうした風呂敷を持参するケースはさほど見かけない。

昔ながらの形式を今でもされているケースは東山間では数多く見られるが、盆地部でもその手段を用いられるのはたいへん珍しいのではないだろうか。

(H23. 5. 5 EOS40D撮影)

水口祭を求めて

2011年06月13日 07時38分15秒 | 天理市へ
水口祭の様相調査は大和郡山だけに限っていない。

各地の在所でも見られる水口祭は行事によってそれぞれに様相が異なる。

この時期に度々訪れる天理市櫟本町南小路。

といっても帰り道に通過するだけなのであるが、いつされているのかどうしても気になるのでここを通る。

例年は4月29日にその作業をされている2組の農家。

3列はビニールシートをかける。

もう1列は新聞紙と寒冷紗の苗代だ。

今年もその日に通過した。

が、なかった。

おそらくは5月1日であろうと足を運んだ。

昼過ぎのことだ。

家族がそろって苗代作りをされていた。

2年前にされていたとき同じやり方だ。

苗箱置いて、針金挿して、シートを被せる農家。

それを終えたご主人はさりげなく水口に挿された松苗。

2月に櫟本和爾下神社で行われたオンダ祭でたばった松苗だが手を合わせることもなく・・・。



作業を終えて帰ろうとしていた農家と時間差でもう1軒の農家が来られた。

こちらは新聞紙とともに寒冷紗をかける。

お声をかけさせてもらったら2年前に撮らせていただいたK家のご婦人だったので当時のお礼を伝えた。

松苗はといえばあとから前と同じように挿しておきますよと笑顔で応えられた。

話によれば分水の通水が遅延したので1日になったという。

(H23. 5. 1 SB932SH撮影)

数日後には桜井市や天理市を探してみた。

三輪の高宮さんの会所を訪ねていた。

前月に安倍の文殊さんで桜を拝見していたおりにお会いしたYさんと観音講を訪ねてだ。

場所はといえば車も入れない集落の高台にある会所。

ぼんぼりのように咲いた桜は半分ぐらい散っていた。



会所に前には愛宕さんや庚申さんの石造物が並べられている。

話によれば会所ができたときに寄せたらしい。

その会所では毎月17日に観音講が営まれている。

いずれは取材したいものだ。

その帰り道は箸墓から田原本町、天理へ抜ける街道をいく。

ところどころに苗代はみられるがお花はない。

ここらにはない、と思っていたら1か所見つかった。

老人保健施設やまのべグリーンヒルズ前の苗代にお花だけを挿していた水口があった。



お札がないとこを考えれば行事ごとには絡んでいない農家の風習であろう。

そうえいば、飯高町の住民の話では橿原や桜井の盆地部ではそんなもの見たことないと話されたことがある。

果たしてそうなのであるのか・・・。

さらに北上していけばきむら天空館前の苗代にお花と松苗が挿してあるところが見つかった。



おそらく大和神社のオンダ祭でたばったものであろう。

農家の姿は見られないが新泉であるだけに間違いないだろう。

そして長柄を過ぎて福智堂町辺りにくるとお花と松苗を祭る苗代が見つかった。



近くに神社が見当たらないことから大和神社のモノだと思うが、先ほどのモノとは大きさも本数も異なる。

さてさてそれはどの行事なのか調べておかねば・・・。

(H23. 5. 4 SB932SH撮影)

大和郡山の水口祭の様相

2011年06月12日 07時56分35秒 | 大和郡山市へ
4月中旬から5月GWにかけて、行事でたばったオコナイの祈祷札やオンダ祭の松苗などを苗代に立てる水口祭がが県内各地で行われている。

私にとっては田畑を見渡し苗代作りをされている田んぼを探し回る季節でもある。

行事取材地への行き帰りや買い物に行った際の探索は時間的な余裕があればの話だ。

苗代は風雨に耐えるようビニールトンネルをしているところが多いが稀には寒冷紗の場合もある。

4月17日は自然観察会だった。

その観察のときに見つけた矢田の水口祭。



お札はビニールの中で拝見しにくいがおそらく矢田坐久志玉比古神社の行事である綱掛けでたばったものであろう。

花芽をつけたサクラの枝を挿してある。

(H23. 4.17 Kiss Digtal N撮影)

4月26日には再び矢田山を散策した。

そのとき、北村の住民に聞き取りさせてもらったことは先日アップした。

自宅から矢田山まではさほど遠くない。

そこへ行くまでは地元住まいの城町。

富雄川の西側は田んぼが広がる。

ところどころに苗代が見られる。

その場所に足を運んでいき祭祀されているかどうかを確認する。



が、まったく見当たらない。

当地は奈良市石木町に鎮座する登弥神社がある。

2月1日の粥占が有名だがお札を伴う行事ではない。

たばるものがなければ水口には見られないというわけだ。

(H23. 5. 3 SB932SH撮影)

このように苗代を作られてはいるものの、水口祭があるかないかは地区で祭祀される行事の有無で決まる。

それではと市内の南部にある宮堂町に向かった。

一昨年にも訪れた地区だ。

今年もそうであればと思い再訪した結果。それがあった。



先端を三つに裂いたヤナギの木に挟んだお札がみられる。

2月に行われる観音寺の荘厳講でたばったご加持された牛玉宝印のお札である。

見えないが田んぼに挿した側は二股になっている。

この特徴をもつのが宮堂町のゴオウ杖だ。

2月に終えた民俗博物館の冬の企画展で実物を紹介させていただいた。

そのお礼も兼ねてM家を訪問したのであった。

朝日を受けるお花を見たくて翌日の朝にもう一度再訪したとき田んぼの所有者であるもう一人のMさんにお会いした。

土手にある立派なスズキを撮っていたらお声をかけてくださったのだ。



ご主人が自慢する大きなスズキ。

盆地部では珍しく、郡山市内で見たのはこれが初めてではないだろうか。

(H23. 5. 4 EOS40D撮影)

再び北上して椎木町に向かった。

ここでは苗代に水を引いたばかり。

明日には作業をするのであろう。

昨年も立ち寄ったが見つかったのは松苗だった。

それは代金を支払って、たばった春日大社の御田植祭の松苗だ。

今日は時間に余裕がなく、広がる花畑を見渡していた。



東椎木には菜の花畑が西椎木にはレンゲ畑が広がる。



休耕田のように思えた。

(H23. 5. 3 EOS40D撮影)

昨年はオコナイから苗代へと取材した小林町。

「農家は多いからいっぱいあるで」と言われていたので探してみた。

その日の午前中はあちこちで苗代作りをされている。

夕方に立ち寄ったところにはすでに作業を終えて水口祭が供えられていた。



場所はといえば水口ではない。

農家によっては水口に拘らないと聞いたことがある。

中央であったり逆の方向であったりする。

決して水口ではないのだ。

翌日に再訪すればさらに苗代の数は増えていた。

このGW期間中が最盛期なのであろう。

(H23. 5. 3 EOS40D撮影)

このように農家にとって関わる行事がなければ苗代の水口祭には現れない。

これまで矢田坐久志玉比古神社の綱掛け、矢田山金剛山寺修正会の牛王加持、植槻八幡神社のおん田祭りで営まれたお札が関連する苗代水口祭を取材してきた。

が、未だに発見できていない個所がある。

田中町甲斐神社のおんだ祭、小泉神社のおんだ祭に松尾寺の修正会だ。

あいにく松尾寺の修正会の取材は厳禁だけにその様相は拝見したことがない。

しかし、そのご加持された牛玉宝印のお札はありがたくお寺から授かっている。

そのようなことで町々の苗代を探すことにした。

田中町の水口祭りはどこでされているのだろうか。

小南町との間にある道路を走っていると西方に苗代作業をされているのが遠目に見つかった。

それならば、と夕刻に訪れた。

町の南側には田んぼが広がる。

そこにあったのはおんだ祭でたばった竹ヘラの松苗。

甲斐神社と書いてある。

間違いはないが小さくて細い。

隣り合わせに3か所も見つかった。



翌朝に朝日にあたる竹ヘラを撮らせてもらった。

このお札も企画展で展示させてもらった。

(H23. 5. 4 EOS40D撮影)

山田町は田園が広がる地区。

松尾寺から見下ろせば市内の風景が遠くに見えるが手前は風光明媚な地域だ。

ここでも数か所で苗代作りがされている。

ところが水口祭は見つからない。

松尾寺からお札を授かった際に聞いた話ではもらいに来る人が居ると言っていた。

その数はどうも少ないらしい。

見つけることは困難だが一つ一つ苗代を見ていくしかない、と思って歩いていけば・・・。

お花とともに祭られているお札があった。



それをされた農家のご主人にお話を伺った。

前日の午前中に苗代作りを終えてお札を挿したという。

その際には一升のお米を一升枡に入れて祭ったというのだ。

お米はその直後に持ち帰ったので当日には見られなかったが初の確認ができた。

お札は松尾寺から授かった。

それは昨年の秋に収穫したお米を寄進したお礼だという。

稲作だけで暮らしていくにはこの時代の生活は難しい。

若い人たちは信仰も薄れ水口祭をすることもない。

いずれは消えていくだろうと仰る。

(H23. 5. 4 EOS40D撮影)

もうひとつ気がかりだった小泉町。

砂かけをされるおんだ祭でたばったお札はどこにあるのだろう。

町内中心部は住宅街。畑は見当たらない。

小泉金輪院へ向かう道沿いで幟を立てている人が居た。

知人のHさんだ。

伺ってみれば富雄川の東側の片桐中学校の南側にはたくさんあるという。

「あんたとこもしてたよな」と幟立ての相方に声をかければ頷く。

そういえば明日は金輪院の庚申さんの日だ。

今夜は宵宮のお籠りだそうだ。

それも取材したいが今回の目的は水口祭。

一路、教えてもらった在所を探す。



それは農道沿いに3か所あった。

いずれも小泉神社の名がある。

(H23. 5. 4 EOS40D撮影)

そして、朝から苗代作りで水を張っていた小林町のYさんにお会いする。

今年も弟さんが手伝って苗代作りをするそうだ。

水口祭といえば明日にするという。

身体がえらいから二日間にかけて行うという。

そのYさんから大和中央道の高架下の田んぼではMさんが昨日に水口をしていたと聞いたので探してみた。



こんなところにもあったのだと感心する。

(H23. 5. 4 EOS40D撮影)

その高架下をぐるりと抜けて小林町の墓地に向かう農道を走った。

なにげに北の方角を見ればご婦人がおられた。

その前にはお花がある。

水口ではないかと窓越しに拝見していると声がかかった。

なんでも昨日に苗代を作って昼前に挿したという。

そのお札といえば小泉神社のモノだった。

あれぇ、ここは小林町では。

ご婦人は小泉の人だが田んぼはここにあるという。

ご主人は神社の宮総代のM氏。

授かった松苗のお札はその関係でたばっていた。

それまでは神棚に置いていたそうだ。

松の色は落ちていないのは新聞紙で包んでいたからだと話される。



近くに住む息子家族が応援して苗代作りを終えた。

それが済めば四国に向かって行ったという。

その後はこうして田んぼを見張っている。

納屋は鍵をしているがガラス窓を割られた。

不届きモノが居るから困るのですと話す婦人。

こうして郡山で行われている行事と水口祭の関係場所が次々と判ってきた。

調査はまだまだ続くであろう。

忘れないうちにエリアマップに印をしておきたいものだ。

(H23. 5. 4 EOS40D撮影)

新泉野神祭り

2011年06月11日 06時30分33秒 | 天理市へ
N家は4度目のトーヤ(当屋)である。

今年こそまちがいなくヒキドーヤ(曳き当屋)を勤められる。

昨年が最後の行事になろうかとしていた新泉の野神祭り。

子供はたった一人になってしまえば行事が行えなくなるはずだった。

それがだ。

隣家が初の参加を表明されたのだ。

そうなればということで引退しかけたN家の子供たちも参加することになった。

こうして危ぶまれていた行事の存続が救われた。

集落には昨年に生まれた男の子も居る。

当分の間は行事を続けていくことが可能になった新泉の春は今年も巡ってきた。

最後の出番となった中学生の子供は二人。

先日に作られたムギワラ製のウマとウシを抱えて先頭を行く。

兄ちゃんはウマで弟はウシだ。

4年前にイリトーヤ(入り当屋)を勤めてから4度の出番だけにどうにいっている。

一昨年にイリトーヤ(入り当屋)を勤めたMくんは竹製のカラスキを持つ。

初参加の幼児は小さな手でハシゴを掴んでいる。

大和(おおやまと)神社の宮司に村役の総代、宮総代、議員や当屋の親たちがついて素盞鳴(すさのお)神社までお渡りをする。

村役は「ハコメシ」とも呼ばれる「スシ」の二段重ねの御供や神饌に大きなムギワラ製のムカデ(ジャジャウマとも称される)を抱えている。

これも先日に作られた。

「スシ」は蒸し飯を五寸四方と四寸四方、厚さ二寸の大きさに固めたものだ。

新泉では明治時代から伝わる2種類の「御供舛」があり、当屋が保管されているそうだ。

道中は例年のとおり道中の辻ごとにお神酒を供える。



竹筒(竹のゴンゴウと呼ばれていた)を槌で打ち付けて土中に埋め込む。

そこにお酒を注いでいく。

数か所もあることから小さな子供にも替ってその作法を継いでいた。

その作法は神社境内に設えた砂盛りの土俵にも捧げられた。

竹筒はぐるりを取り囲むように三か所である。

「子供のころはもっと大きな土俵だった。

お田植えの行事が行われたあとはここで相撲をとっていた」と60歳ぐらいの男性が話すことからおよそ50年以上も前のことのようだ。

本殿前に祭壇を設えて神事が始まった。

修祓、祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌などの神事は祈年祭(としごいのまつり)だそうだ。



年の初めに豊作を祈る。

初めと言っても五月のことだ。

大正時代から新暦の5月5日の端午の節句に行われていた一本木のオンダだは今では新泉の野神祭りとして紹介されている。

昭和17年、長柄(ながら)に柳本飛行場が作られることになり、神社ごと大和(おおやまと)神社南側に移設され遷座した。

その地は一本木と呼ばれる塚にあったことから当時の行事では「一本木のオンダ」と呼ばれていた。

それだけに神事を終えた所作はまさしく田植え仕事の作法に移る。

本殿前に設えた四角い砂盛り。

それが田んぼに見立てた砂場である。



最初はカラスキを引く牛耕だ。

ウシを抱えた兄ちゃんの視線先は弟が小さな「田んぼ」を耕すカラスキへ。

先頭は小さな子供たちが綱を引く。

これを三周繰り返す作法を行う。

今度は農具をマンガンに替えて田んぼを耕した。

同じように牛が引いて砂場の田を耕して三周したが、幼児は親が抱っこしての所作となった。

そしてハシゴをマンガンに取り付けて深く田んぼを耕した。

それを終えるとウマの出番だ。



4人はワラウマとともに土俵廻りまで勢いよく走り回っていく。

この作法も三周する。

かつてはその後に相撲を取り組む真似ごとをしていたらしい。

今年の豊作を願うオンダの所作を終えた双子子供のヒキドーヤは中学2年生でめでたくトーヤを卒業していった。

翌年は小さな二人の子供に委ねられた一本木のオンダはこうして数年間は続いていくことだろう。

地区にとって重要な行事を勤めた子供たちはお田植え仕事のねぎらいに当屋の家で慰労をもてなす直会がある。



主役を勤めた子供たちは頭屋の家の座敷にあがり宮司とともに会食をする。

「ごちそう」と呼ばれているお膳には箸に幼児も食べやすいようにスプーンも置かれている。

大きなタケノコは丸太から炊きあげた。

その大きな椀にはトロロコンブがある。

「よろこぶ」の意味があるという。

タマゴの炊き合わせにコーヤドーフとフキの煮物が添えてある。

しょうゆとミリンで味付けているそうだ。

小さな椀はチシャ(菜)とタケノコを木の芽とゴマを味噌で和えたもの。

皿にはカツオのナマブシ(ナワブシともいう)。

膳には載らないが巻きずしもある。

コーヤドーフ、カンピョウとミツバを巻いたシンプルな巻き方だ。

数は7切れと決まっている。

セキハン(赤飯)や7個のモチもある。



これらは昔から決まっている献立だ。

「こんなけやけど、子供の口にあうのか食べられしませんね」と当屋の姑さんは話す。

これらの料理は「ひとつずつ炊きますやろ、そやから手間かかります」とも話された。

※昭和52年の書き留めたメモでは「頭屋」が「頭家」と書かれていたが現在は「当屋」の字が充てられている。

(H23. 5. 3 EOS40D撮影)