昨年に引き続き行事取材に訪れた奈良市古市町。
道路横に建つ仙軒大菩薩堂は6軒で営む仙軒講中の所有物。
この日はセンゲンサンと呼ぶ講中の行事で、夕方近くになれば提灯に灯りが点る。
ローソクではなくお堂下にある民家から電灯線を引き延ばして点けた。
かつてのお堂は北寄りにあったが、崖が崩れて建物は崩壊した。
その後に場所を移転して修繕したのは大正五年二月。
それから60年後の昭和47年7月、堂右手に六畳の部屋を新築したそうだ。
堂内に掲げてあった板書には「浅間堂 浅間講」と書いてあった。
仙軒大菩薩堂は「浅間堂」と呼んでいたようだ。
「浅間」と書いて「センゲン」と呼ぶのであるが、講中は「仙軒講」であるゆえ、本来は「千軒」の漢字で充てるべきだったようだと長老は話す。
古市の「仙軒講(浅間講)」は富士山信仰の富士講でもあるのだが、水行の作法は行われない。
「浅間堂」が東向きに建てられているのは富士山がある方角だ。
遥拝の場であったろうか。
一年に一度、お厨子の扉を開けてご本尊を開帳される。
黒ずんだお厨子を開ければ、真新しい桐製の箱があった。
箱には古い巻きものを納めていたが、広げられないほどに傷んでいることから別の場で管理しているらしい。
昭和63年、奈良市教育委員会刊の『奈良市絵画調査報告書』によれば仙軒講所有の掛図は江戸時代の「不動明王像」、「浅間本地仏図(阿弥陀三尊像)」、浅間本地仏図(孔雀明王像)」など六幅があるそうだ。
それはともかく厨子の前に供えたお供え。
トマト、ナスビ、キョウリが八個ずつ。
厨子の右横に木造立像仏を安置していた。
いつの時代に誰がどのような経緯で安置されたのか伝わっていない理源大師像である。
そこに供えた白いもの。
講中の家で作って供えた「センゲンダンゴ」である。
これもまた数は八つである。
これまで調べた県内事例に富士講の水行がある。
柄杓で掬った川の水を前方に飛ばす処もあれば頭から注ぐ処もある。
いずれも「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やーっ」と唱えながら水行する。
いわゆる水垢離の作法であるが、お供えの数といい、なぜに八つなのか。
関東にお住いの富士講研究者の方からご享受たまわった。
それは富士山頂にある八つの峰(八葉蓮華)にたとえた神仏の数に基づくようだという。
夕方近くになれば母親らと共に子供がやってくる。
願主に子供の名を書いてご祈祷をしてもらう。
長老は幣をもって「南無仙軒大菩薩」を三唱。
「願くは 願主の 無病息災 学業成就のご加護を垂れ賜わりますよう願い上げ奉る 南無仙軒大菩薩」も三唱する。
唱えたあとは幣を頭に翳して学業成就。
菩薩さんから知恵を授かるということである。
昨年も祈祷してもらった子供たち。
講中外の子供たちも参拝することができる。
今年も一組だった。
以外は講中の孫さんたちだった。
一年、一年お参りをして成長していく幼き子たち。
いずれは大きく育ってお参りもしなくなるだろうな。
祈願も一段落すればお厨子の前に置いていたホラ貝を取りだす長老。
子供に「吹いてみ」といって手渡す。
ホラ貝は山上講の先達が吹いていたもの。
「吹けたら健康になるんやで」と子供に話す長老。
いとも簡単に音を鳴らす子供もおれば、なんぼ吹いても音は出ない子供もいる。
ちなみに、安置していた理源大師木造立像は山上講が寄進したものであった。
仙軒講が代々に亘って保管してきた講箱がある。
黒ずんだ箱は相当古いと思った。
今回訪れた主目的は講箱の調査だ。
もしかとすれば年号が残されていないかと思って講中とともに調べてみた。
上蓋には文字が見られなかったが中蓋にあった。
「寛永七年(1630)□□(庚午と思われる)九月 □ヨコ井村に」の墨書があった。
「ヨコ井村」は古市より500m西南の奈良市横井町と思われる。
この箱は元々横井村にあったものなのか、それとも仙軒講に関係する人物が横井村と関係していたのか判然としない。
講箱内に三つの文書があった。
「元治元子年(1864)三月ヨリ □□豊入金波□帳 当村□講中」。
全件見る時間もなかったので詳しくは判らないが入金帳のようだ。
大正時代より書き記された文書もある。
「大正三年一月八日 仙軒講諸入費勘定帳 仙軒講中」である。
他に「大正五年貳月 仙軒堂移轉修繕見積書」もある。
また、3枚の版木も納めてあった。
一つは「方 鎮供之牘(版) 寶蔵院」だ。
もう一つは「奉轉讀大般若経息災延命処」だ。
大般若経転読法要があったのであろう。
版木はそのときの祈祷札と思われる。
祈祷場はおそらく寶蔵院。
何を鎮供したのか判らない版木である。
もしかとすれば真言宗派であったかも知れないが、寶蔵院はいったいどこにあったのだろう。
版木はもう一枚ある。
「守護処 轉災為福 如意圓□」だ。
守護処はおそらく寶蔵院。
除災を念じたのであろうが、仙軒講との関係性が見えない。
入り混じっている物的証拠の数々。
仙軒講にとって明確な年代は「元治元子年(1864)三月ヨリ」しかない。
(H27. 7. 8 EOS40D撮影)
道路横に建つ仙軒大菩薩堂は6軒で営む仙軒講中の所有物。
この日はセンゲンサンと呼ぶ講中の行事で、夕方近くになれば提灯に灯りが点る。
ローソクではなくお堂下にある民家から電灯線を引き延ばして点けた。
かつてのお堂は北寄りにあったが、崖が崩れて建物は崩壊した。
その後に場所を移転して修繕したのは大正五年二月。
それから60年後の昭和47年7月、堂右手に六畳の部屋を新築したそうだ。
堂内に掲げてあった板書には「浅間堂 浅間講」と書いてあった。
仙軒大菩薩堂は「浅間堂」と呼んでいたようだ。
「浅間」と書いて「センゲン」と呼ぶのであるが、講中は「仙軒講」であるゆえ、本来は「千軒」の漢字で充てるべきだったようだと長老は話す。
古市の「仙軒講(浅間講)」は富士山信仰の富士講でもあるのだが、水行の作法は行われない。
「浅間堂」が東向きに建てられているのは富士山がある方角だ。
遥拝の場であったろうか。
一年に一度、お厨子の扉を開けてご本尊を開帳される。
黒ずんだお厨子を開ければ、真新しい桐製の箱があった。
箱には古い巻きものを納めていたが、広げられないほどに傷んでいることから別の場で管理しているらしい。
昭和63年、奈良市教育委員会刊の『奈良市絵画調査報告書』によれば仙軒講所有の掛図は江戸時代の「不動明王像」、「浅間本地仏図(阿弥陀三尊像)」、浅間本地仏図(孔雀明王像)」など六幅があるそうだ。
それはともかく厨子の前に供えたお供え。
トマト、ナスビ、キョウリが八個ずつ。
厨子の右横に木造立像仏を安置していた。
いつの時代に誰がどのような経緯で安置されたのか伝わっていない理源大師像である。
そこに供えた白いもの。
講中の家で作って供えた「センゲンダンゴ」である。
これもまた数は八つである。
これまで調べた県内事例に富士講の水行がある。
柄杓で掬った川の水を前方に飛ばす処もあれば頭から注ぐ処もある。
いずれも「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やーっ」と唱えながら水行する。
いわゆる水垢離の作法であるが、お供えの数といい、なぜに八つなのか。
関東にお住いの富士講研究者の方からご享受たまわった。
それは富士山頂にある八つの峰(八葉蓮華)にたとえた神仏の数に基づくようだという。
夕方近くになれば母親らと共に子供がやってくる。
願主に子供の名を書いてご祈祷をしてもらう。
長老は幣をもって「南無仙軒大菩薩」を三唱。
「願くは 願主の 無病息災 学業成就のご加護を垂れ賜わりますよう願い上げ奉る 南無仙軒大菩薩」も三唱する。
唱えたあとは幣を頭に翳して学業成就。
菩薩さんから知恵を授かるということである。
昨年も祈祷してもらった子供たち。
講中外の子供たちも参拝することができる。
今年も一組だった。
以外は講中の孫さんたちだった。
一年、一年お参りをして成長していく幼き子たち。
いずれは大きく育ってお参りもしなくなるだろうな。
祈願も一段落すればお厨子の前に置いていたホラ貝を取りだす長老。
子供に「吹いてみ」といって手渡す。
ホラ貝は山上講の先達が吹いていたもの。
「吹けたら健康になるんやで」と子供に話す長老。
いとも簡単に音を鳴らす子供もおれば、なんぼ吹いても音は出ない子供もいる。
ちなみに、安置していた理源大師木造立像は山上講が寄進したものであった。
仙軒講が代々に亘って保管してきた講箱がある。
黒ずんだ箱は相当古いと思った。
今回訪れた主目的は講箱の調査だ。
もしかとすれば年号が残されていないかと思って講中とともに調べてみた。
上蓋には文字が見られなかったが中蓋にあった。
「寛永七年(1630)□□(庚午と思われる)九月 □ヨコ井村に」の墨書があった。
「ヨコ井村」は古市より500m西南の奈良市横井町と思われる。
この箱は元々横井村にあったものなのか、それとも仙軒講に関係する人物が横井村と関係していたのか判然としない。
講箱内に三つの文書があった。
「元治元子年(1864)三月ヨリ □□豊入金波□帳 当村□講中」。
全件見る時間もなかったので詳しくは判らないが入金帳のようだ。
大正時代より書き記された文書もある。
「大正三年一月八日 仙軒講諸入費勘定帳 仙軒講中」である。
他に「大正五年貳月 仙軒堂移轉修繕見積書」もある。
また、3枚の版木も納めてあった。
一つは「方 鎮供之牘(版) 寶蔵院」だ。
もう一つは「奉轉讀大般若経息災延命処」だ。
大般若経転読法要があったのであろう。
版木はそのときの祈祷札と思われる。
祈祷場はおそらく寶蔵院。
何を鎮供したのか判らない版木である。
もしかとすれば真言宗派であったかも知れないが、寶蔵院はいったいどこにあったのだろう。
版木はもう一枚ある。
「守護処 轉災為福 如意圓□」だ。
守護処はおそらく寶蔵院。
除災を念じたのであろうが、仙軒講との関係性が見えない。
入り混じっている物的証拠の数々。
仙軒講にとって明確な年代は「元治元子年(1864)三月ヨリ」しかない。
(H27. 7. 8 EOS40D撮影)