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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

平尾水分神社の祈祷祭

2016年05月14日 08時38分34秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
6月に行われた「田休み」に続いて訪れた大宇陀平尾の水分神社。

この日は夜8時より「祈願祭」が行われる。

場は「田休み」と同じく社務所内である。

1月18日のオンダ祭で大当・小当を務めた二人はこの日の行事も始まる前に雨戸を開けた社務所を清掃していた。

この日の午前中は暴風雨。

境内は風に煽られた葉っぱが散らかっていた。

6月の行事のときは社殿に巣くっていたミツバチで難儀した。

専門家にお願いして除去したことによって、この日は襲われることもなく安心して清掃ができたと話す。



平成23年に建て替えられた社務所に板書を掲げている。

墨書されている板書は平尾水分神社の「年中行事」である。

達筆な書の判読は難しいが、所々の一部が読める。

正月、二月、三月、四月、五月、六月、七月、八月、九月、十月、十一月、十二月はもちろん読める。

そのほとんどに御膳の文字がある。

お神酒、徳利、飯、通しなどがあることから大当・小当が務める座の膳の内容であろう。



一月十八日御田植のほか祈祷、御渡、御湯の文字もあった板書は文久三癸亥(1863)年正月に書かれたようだ。

田休み同様、この日も平尾檀家寺の日蓮宗妙福寺住職が読経を唱える。

社務所の扉を開けて水分神社に向かって座る氏子たち。



社務所に吊るした鈴緒を振り鳴らして始めた住職。

バイと呼ぶバチ道具で打つ木柾(もくしょう)は枕型の木製仏具。

これを打ちながら「観音経」を唱える。

田休みのときは「寿量品(じゅりょうぼん)。

そのときよりも一段と早い打ち方だ。

「寿量品」はゆったり。

「観音経」は早めに打つ。

木柾の音色よりも声高く強めに唱えるという。

田植え後の稲は根を張り、力強く育ってほしいと願う。



実りを妨げる虫も祈祷する。

日照りにならんよう雨乞いも兼ねているという祈願祭は水分神社の神さんに水を与えてくださいと唱えたという。

ちなみに八月末の八朔行事では「神力品(じんりきほん)」を唱えるそうだ。

(H27. 7. 1 EOS40D撮影)

曽我町天高市神社の夏越大祓

2016年05月13日 08時50分21秒 | 橿原市へ
橿原市小綱町のノージンサン調査の日だった。

京奈和道路より小綱町へ向かう道すがら。住宅街の一角に行事案内を貼りだしていた掲示板に目がいった。

隣町の曽我町に鎮座する天高市(あめのたかち)神社の行事案内だった。

それには茅の輪を潜る写真もあれば、人形(ひとがた)に息を吹きかけて祓う写真もある。

案内に「国の隆昌・大和の国の安泰・曽我の郷の安全を願い、地域の人々の罪や災いを清々しく祓い清めお幸せにお過ごしいただきますよう、謹んで斎行します」とあった。

天高市神社は平成20年2月に祈年祭・御田植祭を取材したことがある。

同神社で夏越大祓が行われていることは存知していなかった。

数年ぶりであるが、是非とも伺いたくスケジュール・オンした。

斎行される時間までに到着しておきたいと思っていた曽我町の天高市神社。

鎮座地は覚えているが、どこをどう通っていくのかすっかり忘れていた。

迷いに迷って到着した神社に禰宜さんがおられた。

ご挨拶をさせてもらったら、どなたか判らないがやってくると思っていたと話す。

それが私であったのだ。

神さんに導き招かれたようにやってきたようだ。

摩訶不思議なご縁である。



斎庭に立てた茅の輪は夏越大祓に潜る。

平成26年より復活された茅の輪になると話す。

それまでは神職が大祓詞を唱えるだけだったそうだ。

復活を願って氏子に持ちかけた。

賛同されて昨年から始めたという。

材料の茅は曽我川すぐ近くの田に植生していた。

氏子たちが刈り取って、二日前の日曜に竹組をするなどして設えた。

両端に立てている茅の輪は30日の午前中に立てた。

二日間の差がある茅の色落ちでその状況が判る。



この日は雨天。神職も氏子もテント内で斎行される。

夏越大祓は氏子も揃って唱和する大祓詞から始まる。

宮司はかつて祈年祭・御田植祭を取材させていただいたことを覚えておられた。

つい先日に行われた小綱町のすももの荒神さんにも出仕されたという。



その次は禰宜さんによる修祓だ。

幣で茅の輪や氏子を祓ってくださる。

祓った幣はパキパキと折って焼き納めの釜に入れる。

次も同じく禰宜さんが作法をされる。



布を切り裂く「はらえつもの(祓えつ物)」の儀式だ。

布の端を掴んで一気に切り裂く。

これを八回繰り返す。



水平に構えてぐっと引き裂く。

繰り返し、繰り返し、細くする一瞬の作法である。

この日は雨天。雨が降ることからテント内で行われたが、本来なら祓戸社の前で行われる。



禰宜さんは神さんのオヒカリを提灯に遷す。



その火を焼き納めの釜に納めていた諸々に移して火を点ける。

取り出した人形(ひとがた)。



氏子たちが息を吹きかけて穢れを遷した身代わりの人形を手にした禰宜さんはふっと息を吹きかけ釜に落とす。



何度も何度も繰り返す。

締めであろうか、奉っていた黄色いお札のような「疫神斎」の束で煽ぐ。



この間、宮司は大祓詞を奏上し祓い清めていた「浄火焼納祭」。

身代わりの人形を神火で焼納されて天に昇っていった。

歳神さんを迎えた注連縄などを燃やすトンドと同じように天に昇っていく。

罪や穢れを祓う人形は名前と年齢を書いていた。

昨今は車形も登場する時代になったと教えてくださる。



人であれば名前を書くが、車形ともなればプレートナンバーを書くようだ。

「水無月(みなづき)の 夏越(なごし)の祓(はら)えする人は 千歳(ちとせ)の命(いのち) 延(の)ぶというなり (拾遺和歌集)」を唱和しながら茅の輪を潜る。



半年間の罪や災いを祓う茅の輪潜りの神事。



まずは潜って左側に廻る。



戻って次は右廻り。

再び戻って左廻りの3回潜る。



茅の輪は祓具。

最後に正面に向かって拝礼し無病息災を祈る。

地域によっては2回目に潜るときは「思ふ事 みなつきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓ひつるかな」。

3回目に「蘇民将来 蘇民将来」を唱えるところもあるらしい。

前列に座った氏子の茅の輪潜りが終われば後列の氏子に入れ替わる。

茅の輪潜りを終えた氏子たちは茅の輪の両端に立てていた茅をもらって帰る。

家の神棚や門口などに供えつけて魔除けにする人もおられる。



昨年に貰って家の魔除けをした茅はどうしたらいいのか、尋ねる氏子もいる。

トンド焼きのときに燃やすのがいちばん良かろうということだ。

曽我町のトンド焼きは1月14日の夕刻。

曽我川と高取川が合流する川原で行われていることを付記しておく。

祭典が終わって解散された。

その直後から本降りになった。

絶好なタイミングだった。

(H27. 6.30 EOS40D撮影)

セキュリテイアラーム鳴動のスズキエブリイジョインターボ

2016年05月12日 08時41分33秒 | いどう
取材を終えて帰路につく。

ガソリンを満タンにして帰る道中でのことだ。

運転席の室内ライトが点灯した。

半ドアになっていたのだろうか。

長い信号待ちに降りてドアの具合を確かめてみる。

なんともないが念のためと思って開け閉めをするも同じ状態が続く。

おかしな症状だ。

自宅に戻って気になっていたバックドアも開け閉めすれば室内ライトが消灯した。

やはりこれかと思って駐車場に入れる。

ところがだ。

いつもの通りに電子キーを外して車を出る。

運転席のドアを閉める。

室内ライトはしばらくすれば消えるはずだ。

10秒待っても消えない。

後部座席側のドアかもしれないと思って開け閉めするも事象は解消されない。

こうなりゃ電子キーを押してロックする。

ライトは点いたままだ。

この状態で電子キーを押してもドアは解除されない。

ロックがかかったままなのだ。

こんなことは初めてだ。

何度か電子キーを押したらドアのロックは解除された。

なんとなく気持ちが落ち着かないが、もう一度電子キーを押したら正常にドアはロックされた。

これまで数回発生した室内ライトが点いたままの状態で電子キー・ドアロックしたことがある。

同じ事象だと思って自宅に入った。

なんやかやと作業をしていたときだ。

どこかでアラームが聞こえてきた。

もしかとすれば愛車ではないかと思って玄関を開ける。

アラームが鳴っていたのは愛車だった。

何らかの事象が発生してセキュリテイアラームが鳴りだしたのだ。

なんらかという箇所はドアしかない。

たぶんにドアの接触具合が異常な状態になったと思った。

駐車すれば電子キーでドアロックするのは当然なことだが、いつ異常な状態になってもおかしくない状況はそのままにしておくわけにはいかない。

緊急な対応は電話連絡。

購入したAKGコーポレーションに電話をする。

事象を伝えれば電気関係の故障に違いないということで車を走らせる。

相変わらず室内ライトは点灯したままだ。

ところがだ。

ときおりライトは消灯するのだ。

走行中の振動を受けてドアの接点部が離れたりくっついたりしているのだろう。

到着してすぐさま状態を確認されるAKG代表。

一般的であれば運転席側のドアSWに問題があることが多い。

SWを手で押して確かめる。

接点はおかしくない。

次は後部座席側のスライドドアだ。

ぺこぺこ押してみても反応しない。

このSWが異常と判断されてあれこれ作業をするも明確な原因は掴めない。

SW部分を外してリレー回路なども確認するが電気部品には問題が見られない。

むしろ押すゴム部の入り込み方と接点部の動作に甘さがあるようだとグリスを塗り込んで処置した。

異常は発生しない。

外したボックス部や接点部を締めて戻す。

SWを押す。

押しても室内ライトは消灯しない。

原因はここではなかった。

往路走行中に発生した室内ライトの点灯・消灯事象。

かすかな道路の凸凹具合で振動する愛車。

運転席・後部座席側は横揺れの際に感知するが、縦揺れとなればバックドアしかない。

スズキエブリイジョインターボのバックドアは跳ね上げ式。

愛車の軽バン商用ナンバー。

中古で出品されるまでは商店荷物を運んでいたと思われる。

揚げ閉めは運転席ぐらいに多かろう。

長年の縦揺れにSWの甘さが出て事象が発生したのではないだろうか。

代表もそう判断された。

バックドアは押しゴム式ではない。

左右から噛む方式である。

微妙な間隔があると思われて同じようにグリスを塗った。

特に問題もなく室内ライトは消灯するし、電子キーロックも正常に動作する。

万が一、同一事象が発生したときはバックドアSWの固定位置を微調整するからしばらく様子を見ていただきたいと伝えられて自宅に戻った復路走行。

室内ライトの点灯はまったく発生しなかった。

原因はここであったのだ。

翌朝の29日は仕事日。

駐車場から愛車を出す。

いきなり室内ライトが点灯した。

我が家の駐車場は平坦ではなく傾斜している。

出発時は下りになる。

市道に出れば一旦は消灯する。

市道は県道に繋がる。

そこはもっと急な傾斜路。

またもや室内ライトが点灯した。

奈良県立病院導入路工事に伴って民家を撤去していた通りを抜けて大和中央道に出る。

ここからも下りでライトは点灯する。

消えては点灯を繰り返す。

下りに発生するということはバックドアに荷重がかかるということだ。

大和中央道は平坦道だが、ときおり点灯・消灯を繰り返す。

仕事を終えた午後、AKGコーポレーションに事象を伝えた。

すぐに対応するというので急行する。

代表は不在であったが従業員に事象を伝えていた。

すぐに見ましょうといって事象を確認される。

待つこと30分。

従業員の回答は事象が判ったという。

「事務所周りを走行したらライトが点灯した。特に段差がある処で発生した。バックドアのSW部分に甘さがあるので微調整した。それはコンマ数ミリの間隔だ。微妙な加減を調整して固定した。再度、段差のある処を走行すれば事象はでなかった」と話す。

万が一、再発するようであればSW部品の交換を考えたいという。

完全な調整ではないが、帰路にかかったミュージックはモップスの「たどり着いたらいつも雨ふり」だった。

軽快な曲は若い時からよくカラオケで歌っていた。

歌詞はともかく心が晴れるのは、この一曲。

思わず一曲すべてを歌っていた。

それから2時間後の夜7時半。

突然のごとく警報がビービー・・と発生した。

なんらかの揺れがあったもようだ。

高音で発する警報を慌てて止める。

仕方がない。

電子キーではなく一般的な予備のキーでロックした。

翌日の30日に電話をした。

状況は変わらず、あることを伝えたAKGコーポレーション。

本格的な調査をするという。

それに際して代車を用意するのでしばらく待つ
ことにした。

(H27. 6.28 SB932SH撮影)

龍田大社の半夏生

2016年05月11日 09時18分04秒 | 自然観察会(番外編)
夏至から数えて11日目ごろが半生夏(はんげしょう)。

だいたいが7月2日で4年に一度ぐらいは7月1日になることがある。

この半夏生の日辺りから梅雨は後半に移り変わり、集中豪雨が多くなる時期になる。

そういう時期は昔から判っており、農家では田植えを終える目安ともされ、「半夏半作(はんげはんさく)」ということわざもあるようだ。

「半夏半作」とは半夏生までに田植えを終えなければ収穫が半分になるということらしい。

半夏生と同じ名がついている植物にハンゲショウがある。

尾のようにくるくる巻いているのが花。



葉っぱは花が咲くころに表面が白くなる特徴をもつハンゲショウ。

裏側は変化しないことから、別名に「方白草(かたしろぐさ)」がある。

その様子からお化粧の白粉(おしろい)を半分塗ったようにも見えることから「半化粧」の漢字が充てられて「ハンゲショウ」と呼ぶようになったそうだ。

植物のハンゲショウはドクダミ科の多年草。

水辺に生える。

三郷町立野南に鎮座する龍田大社では、その半夏生のころに風鎮祭が行われる。

地元ではこの祭りを半夏生の時期に行われることから「ハゲショ」、或は「ハンゲショ」と呼んでいるそうだ。

ところで、ハンゲショウと同じような「半化粧」になる植物はもう一つある。

マタタビである。

マタタビはマタタビ科のマタタビ属。

6月初めころに白い花(雄花)が咲く。

そのころほぼ同時期にハンゲショウと同様に葉の表側が真っ白に変化する。

マタタビとハンゲショウ。

農家にとってはハンゲショウだがマタタビは見向きもされない。

何故なんだ。

(H27. 6.28 EOS40D撮影)

立野河川敷の自然観察

2016年05月10日 09時23分06秒 | 自然観察会(番外編)
三郷町の龍田大社の茅刈り取材に訪れた大和川河川敷。

茅刈りをされている場にピンク色の花が目に入った。

近寄って撮った花はヒルガオだった。

大きな花は見つけやすいが、小さな花は・・・。

カラスノエンドウのような感じの花が咲いていた。

マメ科に違いないが何だろう。

調べてみれば外来種のクサフジのようだ。



クサフジにはナヨクサフジもある。

どっちであろうか。

草むらに目を落としてみれば僅かに咲いていたカワラナデシコ。

と思ったがどうも違うように思える。

花火のように炸裂した姿は何?。



タカネナデシコでもないような。

オグラセンノウにも似ているが・・色が違う。

センジュガンピにも似ているが河川敷にあること事態がおかしい。

ビランジもそうである。

いろいろ調べたが、結局できずカワラナデシコの変異種にしておこうと思っていた。

この花を見られたFB友人のKさんがヒントを教えてくださった。

もしかとすれば矢車草・・・。

夏枯れで貧弱に見えた花はKさんが伝えた通りの矢車草だった。

花火のように見える花弁がコイノボリの矢車に似ていることからその名がついたようだ。

大和川橋梁下に河川敷に野生種と思われる桑の木があった。

奥のほうに赤い桑の実があったがレンズは近寄れない。

辺りを見渡していたら薄緑色の繭がぶら下がっていた。



上が平らなウスタビガではなく、ぶら下がり方はヤママユガのように思える。

いずれは濃くなるようだ。

(H27. 6.28 EOS40D撮影)

龍田大社茅の輪作り

2016年05月09日 09時42分44秒 | 三郷町へ
茅刈りを終えれば夏越大祓式に潜られる茅の輪作りが始まる。

龍田大社の境内にブルーシートを広げて刈り取った茅を置く。

置き方は出来上がりの茅の輪を想定して葉は上向き。

下部は芯の部分。左右対称になるように置く。

茅束だけであれば立てたときに崩れてしまう。

それを避けるために心棒が要る。

ベースになる心棒は黒い水道ホース。

バンセンでしっかりと締めて固定する。

下に15束を揃えて見栄え、出来具合を判断して置く位置を調製する。

位置が決まれば心棒のホースを隠すように、上も15束の茅を重ね合して茅束を置いていく。



恰好がついたら荒縄で括ってできあがる。

茅の輪の太さはざっと測って20cm。

全高は270cmにもなった。

茅の輪作りをしていたこの日はお宮参りが多かった。



お宮参りはひと月目。

そんな唄が聞こえてきそうな氏子たち家族の祝いの日。

次から次へと参拝される家族連れ。

赤ちゃんを抱いているのは、だいたいが新郎側の婦人。

つまりは生まれた赤ちゃんから云えば祖母になる。

祖母と云っても、お若い婦人。

書くのも辛い。

お宮参りをされている中の何組かが気になった。

赤ちゃんの祝い着は生んだ新婦の実家が贈るのがならわし。

最近はレンタルも活用しているようだ。

赤ちゃんの正式な祝い着は、肌着の上に白羽二重の内着。

その上から晴れ着の掛け着を羽織る。

首の後ろ辺りにヒモセン(紐銭)をぶら下げる。

我が家もヒモセンを取り付けて宮参りをしたことがあるが、地域によっては張り子の犬とかデンデン太鼓、或はお金そのものをかける風習がある。

龍田大社で見かけたお宮参りの参拝者の何組かが祝いのヒモセンをしていた。

茅の輪作りの僅かな時間帯で参拝された参拝者は五組。

うち二組がヒモセンをしていたことを付記しておく。

さて、だ。出来上がった茅の輪は境内に設えた紅白の支柱に建てるのだ。

茅の輪が支柱の内側になるよう位置決めする。

位置が決まれば支柱を固定する杭を打ち込む。

次は高さだ。

この位置を決めるには作った茅の輪が要る。

梯子を伸ばして数人がかりで茅の輪の中央を抱え込んで高さを測る。

決まれば支柱に印を入れる。

幅や高さ測った茅の輪を下ろして次の作業に移る。



伐採しておいた青竹は水平を保ちながら、印した位置に両端を仮止め。

バンセンでしっかり縛って完成した。



できあがった茅の輪は30日の夏越大祓式が行われる午前中にこの青竹に吊るすように仕掛ける。

その日が来るまでは境内で保管される。

この日より二日間もあることから茅が乾かないように水分を補給しておく。



補給といっても茅全体に水道水をぶっかけておくということだ。

蒸発もしないようにブルーシートを被せてこの日の作業のすべてを終えた。

時間は午後12時半。

作業のすべてを終えた坂根よらん会を慰労する。

大社のご厚意で手配されたお昼の弁当はコロッケにカラアゲ。



豚の塩焼きも美味しくいただいた。

(H27. 6.28 EOS40D撮影)

龍田大社の茅刈り

2016年05月09日 09時27分28秒 | 三郷町へ
三郷町立野南に鎮座する龍田大社。

6月30日に夏越大祓式をされている神社は数多い。

大祓いは年に二回。

12月末日と6月末日の晦日の日である。

晦日、或は師走の大祓いを大々的に案内する神社は少ないが、夏を健康で無事に越す夏越の大祓は茅の輪の作法もあって特に賑わうし、ニュースなどで取り上げられることもまま増えつつある。

昨今は斎庭に立てる茅の輪の材料集めが難しくなってきている。

材料の茅は大量に採取しなければ参拝者が潜れるような大きな茅の輪にならない。

河川敷、或は緩やかな水流がある砂地にも生える茅はどこにでもあった。

採取は不自由さもなく難なくできたという人も多かった。

ところがだ、いつしか茅が消えてしまった処がある。

護岸工事によって川の流れが変わって消滅した処もある。

茅は何も河川だけでなく、村行事に必要なことから特設の茅場を設けて育てていた地域もあるぐらいだった。

龍田大社の茅の輪は前年の6月30日に潜らせていただいた。

茅を集めて茅の輪を作ると話していた“坂根よらん会”のSさん。

今年は28日の日曜日にすると娘さんが伝えてくれた。

採取の手段、製作などを拝見したいと私の願いに応えてくださった。

集合地は龍田大社だ。

時間ともなれば会の人たちがやってきた。

軽トラの荷台には刈り取る作業に使う鎌などを置いていた。

大社の禰宜さんも作業の一員。

ともに連れだって目的地に向かう。

その場は今でも覚えている大和川の河川敷だ。

平成18年4月3日に行われた瀧祭り。

斉場は磐瀬の杜だ。

磐瀬の杜では放魚祭も行われる。

平成20年4月4日に伺った放魚祭(放生会とも)の主役は大和川に放生する鯉魚だった。

磐瀬の杜は龍田大社の飛び地境内である。

古の杜は大和川の岸辺に広がる豊かな森であったが、河川の氾濫や改修工事などによってすっかり消えて、現在地に遷された。

車を停められる一角はやや広場。

丁度、その場はJR大和路線(関西本線)の列車が走る第3大和川橋梁だ。

磐瀬の杜の前は車が往来する道であるが、元々は関西本線の線路道だった。

社より南に1kmも下れば、「亀の瀬」に辿り着く大阪奈良間の街道だった。

昭和6年に発生した亀の瀬の地滑り大崩落で大和川が埋まった。

昭和7年、南岸へ迂回する線路に付け替えた。

第3大和川橋梁より200m北。

この辺りからは急なカーブを描いて鉄橋は大和川を越えて対岸になった。

亀の瀬の地滑りが発生した時期を遡れば、昭和47年、昭和26年、昭和6年・7年、明治23年、明治36年があった。

昭和34年に地滑り防止区域に指定され、さらには昭和37年に直轄施行区域が指定されて大規模な対策事業工事が始まった。

昭和42年に発生するも、以降、現在まで目に見える規模の地滑りは発生していない。

話しを茅刈りに戻そう。

一昨年は今回と同じ場で茅を刈った。

ところが、降り続けた大雨の影響で茅は泥まみれだった。

水洗いするなど奇麗にするには三日間もかかった。

その関係もあって、前年の茅刈り場は勢野北口に急遽、切り替えた。

宅地造成で運ばれた土に混ざっていた茅を刈った。

茅は「ヨシ」だったと話していた。

その後の宅地造成進捗もあって茅は業者が刈り取ったらしい。

この年は大雨もなく、河川敷に植生する茅は綺麗に育っていたことから茅刈りの場は本来の地に戻された。

茅場に到着すれば早速作業が始まる。



めいめいは鎌を手にして茅刈り作業。

左手で何本かを掴んで右手でザクっと刈り取る。

刈り取っては屈む。

屈んで根株辺りをザクっと刈る。

これを繰り返す。



刈り取った茅は束にして鉄橋下に運ぶ。

運んでいる間も刈り取り作業が続く。

収穫した茅は一挙に増えて行く。



何度も、何度も抱えて運ぶ。

どちらも力が要る作業だ。



刈り取った茅は10cmぐらいの束にする。

市販の荒縄で括って崩れないようにする。

一定の長さで測った茅束は押し切り機の藁切りで切断する。



押し切り機はぐっと前に押し出すように切る。

一定の長さは葉の先から測って90cmである。

その間も茅の刈り取り作業がある。



橋梁の南側も刈れば、北側も刈る。

作業を始めてからおよそ1時間半。



茅の束を綺麗に揃えて芯の部分を朝紐で縛る。

収穫した茅束は軽トラに乗せて、次の作業場所になる龍田大社へ戻っていった

(H27. 6.28 EOS40D撮影)

第15回西井康元と藍山会本藍染作品展inやまと郡山城ホール

2016年05月08日 08時23分38秒 | メモしとこっ!
今年も案内状が届いた西井康元と藍山会本藍染作品展。

今年で15回目を迎える。

場所は例年とおりのやまと郡山城ホールの1階。

城ホール事務所前を通って会場に入ろうとしたときだ。

藍染したものであるのか判らないが一枚の案内があった。

それには「藍の光景」とある。

今年のテーマはそれだ。

FBでも案内されている西井康元さんにお会いするのは2月14日に行われた講演会以来だ。

受付におられた西井さん。

大和郡山市の地蔵尊情報に感謝される。

西井さんが担っている民生委員の仲間にHさんがおられる。

間接的にお願いされた地蔵尊情報はHさんに提供した。

足かけ何年間もかけて市内の地蔵尊の場所や管理者、地蔵盆の有無、特徴などを纏めた資料である。

届けたHさんはたいそう喜んでおられた。

資料を手掛かりに記録写真を撮り続けているという。

お役に立てていることは嬉しいことだ。

人とのつながりはどこで出合うか判らないが、いい形になれば嬉しいものである。

この日の受付をしていたSさんもそうだ。

出会いは平成26年の1月に遡る。

前年の1月8日に取材した平群町福貴畑の勧請掛けが発端だ。

勧請掛けに参加されていたのは女史のご両親だった。

話しによれば女史は自宅で仕事をしていると云っていた。

後日にメールをくださった女史に写させていただいた両親の写真を送ったことがある。

たいそう喜んでおられた。

一度、お会いしたくて自宅を訪問したら女史がおられた。

話題は広がり何故か藍染になった。

西井さんが主宰される藍染の指導を受けているというのだ。

いつかは作品も作られると思っていた。

デザイナー職でもある女史の作品はどのような作風を描かれるのか楽しみにしていた。

ご自身のFBにその作品を公開された。

これは是非とも拝見しなくては・・と思って会場に来たのだ。

出会いは行事であったが藍染に繋がった。

藍染会の作品展は何年か前から訪れるようになった。

毎回、新しい試みもあって楽しみにしている。

今回、一番に見たかったのは息子さんの元洋さんの作品だ。



それも「電線」を景観に入れている作品である。

これまでの藍染は幾何学的模様がほとんどだった。

風景・景観をあしらった作品もある。

西井さんの作品は独自性がある。

写真撮りにも役立つ作風にいつも感心して拝見していたが、今回の「電線」は感動ものである。



風景写真家は人工物を入れて描写することはない。

おつきあいしている風景写真家の吉崎さんは人工物も撮りいれている。

その作風にいつも感心している。

「干す」をテーマに撮り始めた民俗写真。

風景のなかに民俗性を入れて記録している。

民俗性とは生活感である。

里、野、山に暮らす人々が営む景観を撮る。

それが風景のなかにある民俗である。

息子さんの作品はまさにそれがあった。

「電線」である。

私から見れば画期的な作品だと思うのである。

親父さんの感性とは違った独自性をもつ藍染作品にしばし見惚れる。

今後はどのように展開されるのか、楽しみがまたひとつ増えた。



ちなみに女史の作品は月を表現したと思える黄色が特徴だ。

太陽ならば赤色であろうが、イエロームーンなのだ。

心に焼き付く色遣いに圧倒される。

(H27. 6.27 SB932SH撮影)

小夫・天神講の祭り当屋決めフリアゲ

2016年05月07日 09時09分05秒 | 桜井市へ
夜8時、馬場垣内の人たちが天神社社務所に参集する。

この日は垣内天神講の月並祭。



修祓、祝詞奏上の次は一同揃って大祓詞を唱える。

前年までは一升枡にご飯を詰め込んだハコメシ御供があった。

手間がかかるハコメシ御供は垣内で協議されてこの年より中断されたという。

月並祭を終えれば秋の祭り当屋を決めるフリアゲが行われる。

神事の前にフリアゲ該当者の名を披露する宮司。



一人一人名前を読み上げたなかから服忌者を確認する。

服忌であれば除外する。

すでに辞退を申し上げていた人の名も下げる。

白い皿に置いたクジ名をもう一度読みあげて垣内住民とともに再確認する。

クジは名前が見えないように手で丸めて白い皿に戻す。

三方・皿に載せた祭り当屋決めのクジは天神社拝殿に運ばれる。

当屋決めの神事の正式名称は「当屋選定祭」。



氏子総代ら2名が選定の立会をする。

修祓、当屋選定祈願の祝詞を奏上される。

当屋決めのクジは天神社に向けて置かれていた。

サカキの幣を白い皿に降ろしていく。



サカキに麻苧が結ばれている。

それを静々と降ろす。



何度か降ろせばクジが引きあがった。

これをフリアゲと呼ぶ。

当屋決めの神事である。

他所によっては「当屋定め」の名称で呼ばれることもある。



引き上げられたクジを広げて名を確認する氏子総代。

社務所に戻ってから講中に決まった当屋の名を報告される。

(H27. 6.25 EOS40D撮影)

小夫を散策

2016年05月06日 08時24分30秒 | 桜井市へ
5日前も訪れた桜井市小夫。

この日は垣内の行事がある。

開始時間までの待ち時間に小夫を散策する。

馬場垣内に茅葺民家がある。

5日前にお会いした男性が住まいする家は茅葺。

そのときは薄曇りだったので諦めた。

高台にある東垣内から眺めてみたいと思っていた。



少年少女の二人は真新しい自転車に跨って疾走していった。

高台から遠望する茅葺民家。

赤い鉄塔の上にあるのは半鐘。

火災が発生したときには村の消防団が駆けつける。

右手の建物は茅葺民家の分家。

伝えではうちが本家だという。

張り合うわけではないので今ではどっちでもいいのだと話す。

高台から下って茅葺民家を拝見する。

いつでも撮っておいていいからと云われていたので撮ったが午後6時過ぎ。



正面の母屋。

威風堂々とした佇まいである。

茅葺民家を遠望していた地。

振り返れば5日前に拝見した秀圓寺が建つ。



かつては茅葺であったかも知れない。

史料によれば本尊木造薬師如来坐像を安置するようだ。

同寺には地蔵菩薩半跏像のほか阿弥陀来迎図、涅槃図も。

享保年間時代の秀圓寺は「周圓寺」を充てられていたようだ。

6月に東・馬場・上・桑垣内それぞれで虫の祈祷が行われると聞いていた。

上垣内の建物は会所であるが、本尊木造十一面観音立像を安置する上之坊である。



神社祭祀をつとめる桑山宮司の話しによれば桑垣内(桑組とも)に観音寺があるという。

どうやらそこは近年建て替えられた会所のようだ。

ちなみに小夫では6月半ば辺りの日曜日に「野道作り」が行われる。

「野道作り」はいわゆる草刈り。

集落を通る市道や集落道にはびこる草を刈る。

草刈りはそれぞれ垣内、或は小字単位に手分けして作業をする。

土板屋敷跡は4人、ドドワラは2人、セドノヤマ釜口から北岡工場間は4人、シズミノハナ・ウシコ・ヤマブキ・シモンダイは4人、クズカミ・デグチ・オオタニ・カワラケガワは4人、デグチ・オクマダニ・ミツクリ(寝地蔵)は4人、ツキノキ・シオトゲ・イチノセ・ニノセは3人、コドボ橋・カサガミ・ダランデ・フカミチは5人、ウスゴ・カサガミ・クッタ・ナガダニは5人、上浄水場周囲・進入道路及び旧道は3人である。

(H27. 6.25 EOS40D撮影)