前回の
パッサロヴィッツ条約で思い出したのが、目立たない小さな騎馬像。
旧市街の一角にああります

一見、
オスマントルコの騎兵かと思いますが、そうではありません。
何しろ1529年の
第一次ウィーン包囲から1683年の
第二次ウィーン包囲まで、オーストリア(当時は
神聖ローマ帝国の一部)とオスマントルコ帝国は隣接しており、繰り返し軍事衝突があったので、反射的にオスマントルコ兵だと思うのも当然
この騎馬像がある極めて短い通りはハイデンシュス(Heidenschuss直訳すると「異教徒が撃つ」)という名前ですが、この異教徒はトルコ人ではなく
サラセン人で、弓矢を持っていたそうです。オスマントルコの第一次ウィーン包囲以前から存在していた騎馬像ですが、1701年の古文書には「ハイデンシュス、つまり騎馬のトルコ人がいるところ」となり、1851/52年の改築に際して
シャムシールを振り上げたトルコ人に変更されたそうです。
実は私も「ああトルコ人だな」と通り過ぎていまして、改めてネット検索で初めて真相を知った次第
これは歴史における一種の「上書き保存」ですね