深い谷をはさみ急な山の斜面へ建つ家をながめるのは壮観だが大きなトラックがブンブン走る県道から眺めているだけでは身近には感じられない。
思い切って脇道へ入ると曲がりくねり対向車が来ると怯むような道。
小川沿いに急な石段があり石垣をついた上に家。
道路の石垣には倉庫が作られていた。
狭い土地の良い利用法だ。
急斜面の見事なお茶畑。
転げ落ちれば谷底だ。
少し広い場所にお茶工場があり広場のブルーシートの上にはお茶が干されていた。
いい香りが漂い見ているのは良いが朝夕の出し入れは大変だろう。
道路わきに急な階段があり登ると荷物用だと書かれた貨車が放置されていた。
車社会になるまでは重宝されていただろう。
話は変わるが図書館がたちあげた”ふる里の記憶を残す”プロジェクトに友達より聞いた話を投稿した。
大歩危小歩危方面へ行く前だったので聞いた話の場所を特定できなかったが通っているうちこの辺りだと確信した。
山奥への行商
いさ子さんが3~4歳の時なので昭和26年ごろと思うがお母さんが背負えるだけの下着類を背負いバスに乗るため家を出るのを後追いした記憶が鮮明にあるあるそうだ。
戦後すぐの車社会になる前山奥に点在する家々に下着類を行商に行く前の風景だ。
1~2週間の行商期間だが後を守るのは9歳年上の姉で病気のお父さんを含め6人の世話をする。
米、味噌、梅干し、つくだ煮2種は置いてある。
数年前湖水祭りで富郷方面の山村を訪れた時こういう場所が行商地だったんだとしみじみ言った。
隣の家へ行くにも数時間は歩かなければいけないこともある。
荷物を背負いなれない道で迷ったこともあっただろう。
泊めてもらいながらの行商だが初めての時はどちらも疑心暗鬼の気持ちにもなる。
食後“そろそろデコ回そうか”と言うのを聞いたときはドキッとしたがかごに入れた蒸かしイモを回しながら取り食べる事だったとよく聞かされたそうだ。
“デコまわそうか”との言い回しから徳島方面なのかと彼女は言っていたが今車で192号線を走りながら見る徳島方面の山の人家は歩いていくことなぞ考えられない場所に点在している。
そんな行商も紙の機械漉き工場ができはじめ就職することにより2年ほどで終わった。
戦後数年の混乱期、庶民は様々な生き方で生き抜いてきたが、製紙の地場産業があることは近場で生活の糧が得られるありがたいことだ。
生き方が死に方に表れるとよく言われるが、そのお母さんは102歳で5人の子供たちに大事に看取られた。
聞き書きイエツァオ