旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

南禅寺 水路閣

2009年09月15日 | 旅 歴史
 京都市左京区南禅寺にある南禅寺の水路閣です。
 「京都迷宮案内」などにも登場した「水路閣」です。水路閣は、琵琶湖疎水事業の一環として、施工された水路橋で、延長93.17m、幅4.06m、水路幅2.42m、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっています。
 京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年(1885)起工され、同23年(1890)に竣工しました。西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものです。昭和58年(1983)京都市指定史跡に指定されました。


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南禅寺

2009年09月14日 | 旅 歴史
 京都府京都市左京区南禅寺福地町にある南禅寺です。
 南禅寺は、正応4年(1291)、宋から帰国した無関普門(むかんふもん)を開山とし、亀山天皇が東山の離宮を禅寺に改めたことにはじまります。臨済宗南禅寺派の大本山です。
 室町時代は五山の上位に列せられた格式の高さを誇る大寺院です、2世の南院国師の時に南禅寺と改められました。
 亀山法皇は建長元年(1249)、後嵯峨上皇の皇子として生まれ、10歳で皇位に就かれ第90代亀山天皇になりました。その頃東アジアの情勢が緊迫し、上皇になられてからは蒙古来襲という国難に対処しました。
 伽藍のほぼ完成した嘉元3年(1305)亀山法皇は嵯峨の亀山殿で57歳で崩御されました。御陵は亀山殿の跡地に建立された天龍寺境内にあります。南禅寺はその後も著名の禅僧が歴代住持として住山して五山文学の中心地として栄えました。
 南禅寺山門は5間3戸2重門の威容を誇ります。創建当初の門は室町時代に焼失し、現在見るものは寛永年間に伊勢伊賀の領主藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した藩士の霊を弔うため寄進し再建したものです。天下竜門とも称し、上層は別に五鳳楼とも呼ばれています。
 禅寺特有の重厚な造りと太い柱が圧倒的な量感で迫ります。知恩院三門、東本願寺大師堂門とともに日本三大門のひとつ。 元治元年(1864)6月、新選組は肥後の宮部鼎蔵の下僕・忠蔵をこの付近で捕縛しました。尋問に一切答えなかった忠蔵は、三門の楼上に晒しものにされたそうです。
 日本史上屈指の義賊「石川五右衛門」が連想されます。元禄時代の歌舞伎の台本の中で、戯作者が山門に五右衛門を登楼させ「絶景かな絶景かな」の名せりふをはかせたことで有名になりました。三門の向こうの山の緑がとても美しい場所です。生い茂る松、背後に続く山々。自然の偉大さが垣間見えます。
 3世の一山一寧(妙慈弘済大師)は元弘の後に元朝より平和交渉の使僧として来日しました。北条貞時によりスパイ容疑で修善寺に幽閉されました。しかし、のちに建長寺の10世になっています。
 仏殿は三門の奧にあります。法堂で明治末年の再建です。天井の龍は今尾景年(けいねん)の筆です。
   国宝指定されている南禅寺方丈は江戸時代(1611)に移築したものです。狩野探幽の水呑の虎などの襖絵などが有名です。
 小堀遠州作の方丈庭園は石組みの配置から虎の子渡しの庭と呼ばれています。砂と石と松で構成された枯山水庭園の代表的なものです。


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粟田神社

2009年09月14日 | 旅 歴史
 今日は京都府京都市東山区粟田口鍛冶町にある粟田神社を紹介します。
 粟田神社は旧粟田口村の産土神です。貞観18年(876)、清和天皇が全国の諸神に疫病封じの祈祷の勅命を出した折、八坂神社で祈願をしていた勅使の夢枕に、大己貴神(オオナムチ)が現れました。
この地に素盞嗚尊(スサノヲノミコト)を祭神とする社を建てるようお告げがあったことから建てられました。また古代の粟田一族(大宝律令の撰定に参加した粟田朝臣真人などがその一族)を祀った神社との説もあります。
 旧社名は感神院新宮粟田天王宮でしたが、明治4年(1871)の神仏分離令に基づき神社に統合され「粟田神社」と改称されました。 
 境内からは京都市街や比叡山が一望できます。毎年8月16日に行なわれる五山の送り火の際には、絶好のビューポイントとなるそうです。


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青蓮院

2009年09月13日 | 旅 歴史

 今日は京都市東山区粟田口三条坊町にある青蓮院(しょうれんいん)を紹介します。
 粟田御所と呼ばれた青蓮院は、天台宗の格式高い門跡寺院で京都五箇室門跡の一つです。 五箇室とは、青蓮院門跡・妙法院門跡・三千院門跡・曼殊院門跡・毘沙門堂門跡の五ケ寺を指します。
 門跡寺院というのは、門主(住職)が皇室或いは摂関家によって受け継がれてきたお寺のことです。ですから気品あふれ上品で優しい雰囲気が漂っています。
 最澄が比叡山延暦寺を開きました。その時にお堂の他に僧侶の住まいの「坊」も建てました。そのひとつに青蓮坊というのがあり、それが青蓮院の始まりだといわれています。
 鳥羽法皇の皇子が現在地に殿舎を造営して門跡寺院としての青蓮院が誕生したようです。天明8年(1788)の御所火災の時に後桜町上皇の仮内裏となったことで「粟田御所」とも呼ばれました。
 青蓮院が最も隆盛を極めたのは第三代門主慈鎮和尚の時です。和尚は四度天台座主をつとめました。当時はまだ新興宗教であった浄土宗の法然や、浄土真宗の親鸞にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護したそうです。
 池泉回遊式の庭は足利時代の絵師・相阿弥が手がけたといわれる築山山泉水庭や、小堀遠州が手がけた霧島の庭などがあります。
 境内には青蓮院のクスノキというのがあります。12世紀末に親鸞が植えたと伝えられ、クスノキが現在の境内の地割に沿って生育していることから青蓮院がここに移転した13世紀以降に植樹されたようです。


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花園天皇陵

2009年09月12日 | 旅 歴史

 京都市東山区粟田口三条坊町にある花園天皇陵です。
 花園天皇は、永仁5年(1297)、持明院統の伏見天皇の第2子として誕生し、12才で即位しました。12才から22才までの10年間在位しましたが実権は父の伏見上皇が握っていました。
 22才で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して、自ら上皇となりました。皇室と北条・足利両政権をめぐる激動の時で、帝は殆ど政務に関与せずひたすら学芸に精進しました。 39才で法名を遍行と称し花園法皇といわれるようになりました。
 貞和4年(1348)花園法皇は52才の生涯を閉じました。正法山妙心禅寺は花園法皇を開基としています。花園天皇は、22年間の行状や生活の様子を繊細に記した日記「花園院宸記」を残されました。


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知恩院

2009年09月12日 | 旅 歴史
 今日は京都府京都市東山区林下町にある知恩院を紹介します。
 大晦日の除夜の鐘の放映でお馴染みのお寺です。地元では「ちおいんさん」と呼ばれていますが正式には華頂山大谷寺知恩教院といいます。華頂山(かちょうざん)の山裾に広がる浄土宗の総本山です。
 祇園の北側にある知恩院は法然がここで布教を始めたところでした。法然は美作国(岡山)の生まれで9才の時、父の漆間時国(うるまのときくに)が政敵に殺害され、臨終の遺言で15才で比叡山へ上り出家しました。
 法然房源空(げんくう)と称し「智恵第一の法然房」と讃えられました。その後念仏さえ唱えれば極楽に往生できると考え43才で下山してしまいます。
 文治2年(1186)、天台僧顕真(けんしん)に大原に招かれそこで行った大原談義で一躍有名になりました。九条兼実(かねざね)の求めで「選択本願念仏集」を撰述しました。
 これらの教えで後鳥羽上皇の女官、松虫と鈴虫が出家したため上皇が怒り、法然は土佐へ流されました。4年後京都に帰ってからは大谷の禅房、今の知恩院境内の勢至堂のあたりに居を構えました。
 建暦2年(1212)に浄土宗の開祖法然が没しました。弟子たちはその東側に廟を定めましたが延暦寺の襲撃を受けました。文暦2年(1234)に法然の弟子の勢観房源智上人が報恩のために伽藍を建立、念仏の根本道場の基礎を築き大谷寺と称しました。
 知恩院は、応仁の乱 (1467-77) で焼失し一時、近江の伊香立 (いかだち)に難を避けました。乱のあと再興しました。
 大永3年(1523)、百万遍知恩寺と本山争いが起こりました。天正3年(1575)正親町(おおぎまち)天皇の綸旨(りんじ)で知恩院が本山と決定しました。
 信長、秀吉の援助を受けて復興に向かい、家康は徳川家の菩提所とし大伽藍の建造を発願、寺領700石を寄進して大小106棟の建物からなる現在の寺観を整えました。
 元和5年(1619)後陽成天皇の皇子八宮(はちのみや)を入寺させて(良純法親王)門跡寺院とさせました。寛永10年(1633)の火災でほとんどが焼失してしまいました。
 三代将軍・家光の尽力により伽藍が復興され、現在に至っています。いまでも東山屈指の寺院として威厳を保っている。
 三門は、二代将軍・秀忠の建立になるわが国最大の三門で、重要文化財に指定されています。この巨大な山門を入ると、徳川幕府が戦を想定して築いたとされる城郭のような造りの大伽藍が迎えてくれます。
 本堂は御影堂と呼ばれています。これも重要文化財です。中央須弥壇(しゅみだん)の厨子の中に法然の像を安置しています。
 比叡山で修行した法然は、平安時代末期この地に吉水の禅房を作り、四国配流から帰ると大谷禅房を結びました。そして浄土宗を開き、弟子を通じて教えを全国に広めたのです。
 法然上人が没すると弟子達が廟堂を建て祭りましたが、比叡山の迫害で、遺骸は西山光明寺で荼毘に付されたりしました。その後この地に建立されたのが勢至堂で、知恩院の始まりにあたる場所です。
 重要文化財の勢至堂は七間四面単層入母屋造り本瓦葺きです。享禄3年(1530)の再建で現在の知恩院では最古の建築物です。
 法然上人御廟は慶弔18年(1613)に常陸の国土浦城主松平伊豆守の寄進です。宝形造本瓦葺、方三間の建物を唐門つきの玉垣でめぐらしています。
 重要文化財の知恩院経蔵があります。 江戸時代初期の元和7年(1621)に三門と同時期に徳川秀忠によって建てられました。内部中央には廻転できる八角形の輪蔵があり一切経5600余巻が漆塗りの箱に納められています。 
 大晦日に荘厳な除夜の鐘を京の街に響かせる日本一の大きさを誇る鐘楼、賊の侵入を防ぐために工夫されたとされる鶯張りの廊下などでも知られています。
 しだれ桜の名木「美幸」があります。方丈庭園は背後の東山を借景にとりいれた名園です。大方丈の菊の間にある襖から雀が飛んでいったそうです。「抜け雀」は七不思議の一つになっています。

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円山公園

2009年09月11日 | 旅 歴史
 京都市東山区円山町にある円山公園です。
 円山公園はもと安養寺(あんようじ)六坊や祇園感神院の坊舎などが維新の時に官収された跡地を政府の公園設置の太政官符により明治19年(1886)公園としたものです。
 円山安養寺にちなみ円山公園と命名されました。時宗の安養寺には塔頭に連阿弥、世阿弥、左阿弥など六阿弥坊があって湯茶のどを供し遊楽地になっていたそうです。
 歌枕の真葛ヶ原(まくずがはら)も取り入れて公園の面積は8万6641㎡です。明治時代は人工鉱泉療養所や貸席、旅館などが建ち並ぶ歓楽地でしたが何回かの火災で焼失しました。
 大正2年(1913)、平安神宮や無鄰菴などを手がけた七代目小川治兵衛によってすばらしい庭園に生まれ変わりました。治兵衛は東京の浜離宮などの作庭にも従事した人物です。
 今では桜の名所として大勢に人が見物に来ています。坂本龍馬、中岡慎太郎の像などもあります。
 なかでも樹齢約75年を誇る大樹「祇園枝垂桜」は堂々とした佇まいで皆の注目を浴びています。見頃になればライトアップされ夜桜の勇姿もみせてくれます。。

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八坂神社

2009年09月11日 | 旅 歴史
 今日は京都府京都市東山区祇園町北側にある八坂神社を紹介します。
 八坂神社は「八坂さん」「祇園さん」の名で親しまれ、古くから厄除けの神さまとして有名です。花街の祇園がすぐそばにあるせいか、たたずまい、雰囲気とも艶やかで独特の香気をただよわせています。
 創建には諸説ありますが、上代に高麗からの帰化人・八坂氏が牛頭天王を祀ったのが初めという説もあります。八坂神社の祭神は、素戔嗚尊(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこかみ)です。
 斉明天皇2年(656)に素戔嗚尊を祀ったのが起源で、素戔嗚尊は祇園精舎の守護神である牛頭(ごず)天王と一体視され、長らく祇園社と呼ばれていました。明治初期に八坂神社と改称されたということです。。
 重文の本殿は祇園造りと言われる独特の形式で、承応3年(1654)に再建されたものを平成14年(2002)に40年ぶりに修復しました。本殿の下に竜穴があり、神泉苑や東寺まで通じているという言い伝えも残っています。
 それほど広くはないのですが、四方に出入り口のある開放的な明るい境内です。全国各地に約3千もの分社を持っています。
 楼門には、蜘蛛の巣が張る事がなく、また雨だれの跡も付かないといわれています。八坂神社の七不思議のひとつです。重文の鳥居は石造のものとしてはわが国最大のものです。
 悪王子社があります。
 悪王子の悪とは「強力」の意です。荒魂は現実に姿を顕わす霊験あらたかな神の意です。元は東洞院四条にあり、烏丸、四条京極を経て明治10年(1877)ここに移築したものです。
 美御前社(うつくしごぜんしゃ)です。
 美御前という名の通り美を象徴する神として祀られています。本社の祭神、素戔鳴尊が天照大神と誓約(うけい)をされた時、素戔鳴尊の持っていた十挙剣を振りすすいで生まれた三柱の女神で宗像三女神です。


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清水寺

2009年09月10日 | 旅 歴史
 京都市東山区清水にある清水寺を紹介します。
 清水寺の本堂は寛永10年(1633)再建されました。清水寺本尊十一面千手観音を祀り、「大悲閣」ともいいます。国宝に指定されています。
 正面11間(約36m)側面9間(約30m)高さ18mの堂々たる仏殿で、優美な起り 反り曲線を見せる寄棟造り・檜皮葺きの屋根や軒下に吊る蔀戸など、平安時代の宮殿、貴族の邸宅の面影を伝え、音羽山と見事に調和しています。
 堂内は巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣と内々陣に三分され、外陣内奥の正面欄間に本尊と両脇寺の懸仏(御正体)を掲げ、最奥の内々陣に本尊を祀っています。そして本尊南正面に懸造り・総檜板張りの「舞台」を錦雲渓に張り出しています。 
 清水寺の住職で歌人の月照と弟信海は幕末勤王僧として活躍しました。月照は西郷隆盛とともに薩摩に逃れ、入水自殺したことは有名です。
 奈良時代の末、宝亀9年(778)大和・子島寺の延鎮上人が音羽の滝の行叡居士に逢い、霊木を授けられ観音像を彫造して、滝上の草庵に祀ったのが創建にあたります。
 そして間もなく、坂ノ上田村麻呂公が、滝の清水と上人の観音信仰に導かれて本堂を寄進建立し、御本尊十一面千手観音を安置しました。
 御本尊(秘仏)は、本堂に祀られ、"清水型観音"といわれる四十二臂の最上の両手を頭上にあげて化仏をいただく清水寺独特の観音像をしています。
 現在の建物の多くは、寛永8年(1631)から寛永10年(1633)の間に、徳川家光の寄進によって再建されたものです。

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霊山観音

2009年09月10日 | 旅 歴史
 京都市東山区高台寺下河原町八坂鳥居前にある霊山観音(りょぜんかんのん)を紹介します。
 高台寺の南側、このような大きな仏像ですがうっかりすると見過ごしてしまいそうなのが、この「霊山観音」です。
 平和日本の建設と、殉国の英霊並びに大戦による犠牲者の冥福を祈念するために建立されたものだそうです。


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高台寺

2009年09月09日 | 旅 歴史
 京都市東山区高台寺下河原町にある高台寺です。
 北の政所で有名なお寺です。慶長八年(1603)、北政所は後陽成天皇より、「高台院」の号を賜りました。北政所の兄家定は臨済宗建仁寺の塔頭常光院を改修建立されました。家定に触発された北政所は、寺院の建立に向けて動き出され号にちなんで高台寺と決められました。 
慶長10年、この動きを知った家康は、酒井忠世・土井利勝を高台寺造営御用掛、京都所司代板倉勝重を普請奉行、堀監物直政を普請掛に任じ、財を惜しまず協力したといわれています。
 北政所の存在を家康は非常に重要視しており、福島正則・加藤清正・浅野長政等の北政所の子飼いの大名たちも働いたようです。高台寺は、伏見城から運び込んだもの、北政所在世中に築き上げられたもの、その後追悼のために加えられたもので完成に至ったと考えられています。
 北政所は七十六歳で没されるまでここにお住まいになりました。翌年慶長11年、鷲峰山高台寺が落慶したそうです。度重なる火災の為、建物で現在残っているのは開山堂と霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で、庭も度々改修されているようです。
高台寺の庭園は、小堀遠州の作と伝えられています。東山のなだらかな曲線を背景に、山裾の大地に広がっています。開山堂を正面に左右に二つの池があります。
 東側を臥龍池、西側を偃月池と呼んでいます。偃月池中央には、小方丈より開山堂へ渡る廊橋があり、中央に観月台が置かれています。偃月池の護岸は石組みで廻らされています。
 臥龍池の北東には滝石組みがあり、山裾の湧水をたたえた自然風の池で、東岸の山腹にはもみじが多く、紅葉ともなれば池に映ったその姿は見る人を圧倒します。池の北側には臥龍の廊下がかかり、霊屋へとつないでいます。その姿は、あたかも昇龍のごとくに見え、人工と自然との美しさがここに調和しています。

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東福寺

2009年09月09日 | 旅 歴史
 今日は京都府京都市東山区本町にある東福寺を紹介します。
 東福寺は臨済宗東福寺派の本山です。嘉禎2年(1236)関白の九条道家が聖一国師を開山として菩提寺建立を発願し創建されました。延応元年(1239)に大仏殿が上棟されました
 19年の歳月をかけて建長7年(1255)に七堂伽藍が完成しました。五山の一つで「東福の伽藍面(がらんづら)」とまでいわれ壮観を極めました。
 東福寺の名前の由来は、奈良の東大寺のように大きく、興福寺のように盛大を極めた寺に・・・ と、それぞれ一字ずつとって「東福寺」と命名されたそうです。
 東山の山腹と渓谷を利用した境内には、国宝に指定されている室町最古の三門があります。至徳2年(1385)頃建設されたようです。五間三戸二階二重門、入母屋造り、本瓦葺きで切妻造り本瓦葺きの山廊があります。
 わが国最古で最大の禅堂は国の重要文化財です。別名、僧堂・選仏場とも呼ばれる座禅するための堂です。14世紀ごろの造立だといわれています。7間に4間の広さがあり一重で裳階が付いた切妻造りで本瓦葺きです。
 日本で唯一重要文化財に指定の禅宗寺院様式の「東司」(とうす)は長さが35mもある便所です。浴室も歴史が古く長禄3年(1459)の造立です。禅宗浴室としては現存最古のものです。
 方丈庭園は鎌倉時代の手法を用いた昭和の枯山水です。角石と苔とが描く市松模様の北庭はよく知られています。竜吟庵の方丈は現存最古の方丈建築で国宝に指定されています。
 本堂と開山堂を結ぶ歩廊の「通天橋」の下を三ノ橋川が流れ、洗玉澗(せんぎょくかん)と呼ばれる渓谷を創っています。紅葉の名所となっていて、橋のなかほどにある張り出し舞台にたつと素晴らしさが実感できます。
 この東福寺も度重なる兵火と明治14年(1881)の失火で仏殿、法堂、庫裏などを焼失しています。
 境内に建つ25の塔頭も名寺が多いのでしられています。光明院は虹の苔寺という愛称をもっています。同聚院は重要文化財の不動明王を安置しています。
 芬陀院(ぶんだいん)には雪舟の築造と伝えられる鶴亀の庭があります。霊雲院には九山鉢海の名園があります。

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京都駅

2009年09月08日 | 旅 歴史
 京都府京都市下京区烏丸通塩小路下ル東塩小路町にある京都駅です。
 三年半余りかかって完成した京都駅ビルは、高さ59、8m、東西の長さ 470m、延べ面積23万8千平方メートルもあって国内最大規模のターミナルビルです。
 駅施設と劇場、ホテルやデパート、専門店街、観光・行政関係施設、駐車場もあります。遊ぶ・観る・食べる・飲む・買う・泊まる楽しみがいっぱいあり、京都の新しいアミューズメントスポットになっています。

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京都タワー

2009年09月08日 | 旅 歴史
 今日は京都市下京区烏丸通り七条下ル東塩小路町にある 京都タワーを紹介します。
 京都人の間ではロウソクという愛称で呼ばれている和ろうそくをかたどった高さ131mのタワーです。地上100mの最上階にある展望室からは山に囲まれた基盤状の洛中洛外を楽しめます。
 タワー自体は骨組みなど無く、小さな円筒を繋いだ物でできています。先端までは131mあります。夜景もきれいで古都のシンボル的存在です。隠れた名所は地下3階にある駅前温泉です。地下水を汲み上げて沸かした立派な銭湯です。

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東寺(教王護国寺)

2009年09月07日 | 旅 歴史
 京都府京都市南区九条町にある東寺(教王護国寺)をお送りします。
 東寺は平安遷都(794)の翌々年、延暦15年(796)桓武天皇が平安京鎮守のため、朱雀大路の最南端・羅城門の東西に建立した寺の一つで、西寺に対し東寺と呼ばれました。五重塔は天長3年(826)に着工し元慶元年(877)に完成しました。
 東寺は弘仁14年(823)、嵯峨天皇から空海に与えられ、真言密教の根本道場となりました。空海は、入定(死)後87年目の延喜21年(921)に醍醐天皇から「弘法大師」の称号が贈られています。天福元年(1233)弘法大師像が完成しました。像の完成により、町の人々も供養に集まるようになり、庶民の寺としての東寺の歴史が始まりました。
 観智院は東寺の塔頭の中でも最も格式が高い寺です。慶長10年(1605)に再建された建物です。
 観智院の上座の間には宮本武蔵の水墨画、二羽の荒鷲が今にも飛びかからんかとする「鷲の図」があります。同じく襖絵の「竹林の図」も有名です。
 足利尊氏は東寺に本陣を置き新田義貞軍を防ぎ、室町時代の幕を開けました。織田信長も足利尊氏にならい本陣を置き、安土桃山時代が始まりました。信長のあとを継いだ豊臣秀吉も永禄6年(1563)の落雷で焼失した五重塔の再建に力を注ぎ、秀頼は金堂の再建に着手しました。徳川家光は寛永12年(1635)の落雷で焼失した五重塔を再建しました。
 明治政府が明治元年(1868)、神仏分離令を発令したため、神仏習合を唱えてきた寺院は大きな影響を受け、東寺も南大門等が焼かれてしまいました。現在の南大門は、明治28年(1895)に蓮華王院(三十三間堂)の西大門を購入し、移築したものです。
 元慶元年(877)に完成した五重塔は落雷による火災で4度焼失しましたが、地震には大変強かったようです。高度な耐震設計が施されていたためで、安土桃山時代後期の慶長元年(1596)、京都は大地震にみまわれ伏見城の天守閣が倒壊し、東寺でも食堂、中門、講堂、灌頂院、南大門、北大門が倒壊したそうです。五重塔は何事もなかったかのようにそびえたっていたという話が残っています。
 現在の五重塔は正保元年(1644)、三代将軍徳川家光によって再建されたものです。国宝に指定されています。高さ55mのこの塔は、日本に現存する五重塔としては日本一の高さがあります。

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