京都市左京区南禅寺草川町にある無鄰菴です。
この菴は明治大正の元老、山県有朋の別荘です。明治27年から29年の間に建てられました。庭園は有朋自ら設計、監督して7代目小川治兵衛が作庭しました。
庭園は、曲線を描いて疏水の水を引き入れた見事な池泉廻游式です。明治時代の代表的な庭園の一つに数えられています。
山県有朋は天保9年(1838)、萩藩中間有稔の長男として生まれました。19歳の時、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、以後攘夷運動に奔走しました。
文久3年(1863)奇兵隊に入隊、軍監となり、下関で英仏蘭米四ヶ国連合艦隊と交戦、高杉晋作挙兵に参加し、第二次長州戦争でも活躍、戊辰戦争には官軍の参謀として北越方面に転戦しました。明治2年(1869)欧州を視察し帰国後兵部少輔・兵部大輔となり、大村益次郎なきあとの軍政に尽力し、徴兵令を制定して国軍の基礎を作りました。
陸軍卿・陸軍大将・元帥などを歴任、明治政府の中心的存在となりました。政治家としては、二次にわたり内閣を組織しその前後に参議・枢密院議長などにもなりました。伊藤博文亡きあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなした人物でした。
建物は簡素な木造2階建ての母屋、藪ノ内流燕菴を模したといわれる茶室、南西隅に洋館があります。
この部屋で明治36年(1903)4月21日、元老山県有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎が集まり日露戦争開戦直前の外交方針を決める無鄰菴会議が行われました。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
この菴は明治大正の元老、山県有朋の別荘です。明治27年から29年の間に建てられました。庭園は有朋自ら設計、監督して7代目小川治兵衛が作庭しました。
庭園は、曲線を描いて疏水の水を引き入れた見事な池泉廻游式です。明治時代の代表的な庭園の一つに数えられています。
山県有朋は天保9年(1838)、萩藩中間有稔の長男として生まれました。19歳の時、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、以後攘夷運動に奔走しました。
文久3年(1863)奇兵隊に入隊、軍監となり、下関で英仏蘭米四ヶ国連合艦隊と交戦、高杉晋作挙兵に参加し、第二次長州戦争でも活躍、戊辰戦争には官軍の参謀として北越方面に転戦しました。明治2年(1869)欧州を視察し帰国後兵部少輔・兵部大輔となり、大村益次郎なきあとの軍政に尽力し、徴兵令を制定して国軍の基礎を作りました。
陸軍卿・陸軍大将・元帥などを歴任、明治政府の中心的存在となりました。政治家としては、二次にわたり内閣を組織しその前後に参議・枢密院議長などにもなりました。伊藤博文亡きあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなした人物でした。
建物は簡素な木造2階建ての母屋、藪ノ内流燕菴を模したといわれる茶室、南西隅に洋館があります。
この部屋で明治36年(1903)4月21日、元老山県有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎が集まり日露戦争開戦直前の外交方針を決める無鄰菴会議が行われました。
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京都市左京区浄土寺真如町にある真如堂です。
洛東の神楽岡に建つ真如堂は、表通りに面していないせいか、その歴史の深さのわりに静かな佇まいを保っています。真如堂は、鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)と号し、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。真如堂とは本堂の名です。
真如堂の建立は古く永観二年(984)。比叡山延暦寺の常行堂の阿弥陀如来像を、神楽岡の東にあった一条天皇の母である東三条女院の離宮に、安置したのが始まりです。
その離宮の跡は現寺地の東北に当り「元真如堂」といわれています。後に幾たびか寺地を変え、文明17年(1485)足利義政が旧地に再興しました。
その後また寺地は移り、元禄6年(1693)現在地に復しました。今の堂舎は宝永2年(1705)再建されたものです。
本尊の阿弥陀如来像は、日本三大如来像のひとつにあげられる平安時代(藤原朝)の名作で国の重要文化財に指定されています。また運慶の願経の法華経6巻は国宝です。
お十夜
永享九年(1437)、伊勢守平貞国が出家を決意して真如堂に参籠し、三日三夜の念仏を終えたとき、夢の中に高僧があらわれて「なお三日まつべし」と出家を思いとどまらせました。
不思議にも翌日、父の隠居が決まり、家督相続の知らせが来て貞国が相続の後、家は興隆したのです。
阿弥陀佛に帰依していた貞国は、その後も度々三日三夜の念仏に、七日七夜の修行をした事から、十日十夜のおつとめ、「お十夜」の始まりとなったのです。
境内には春日の局の父で明智光秀の家老、斉藤利三の墓がありました。利三は山崎の合戦で奮戦したが敗北、近江の堅田で打ち首となりました。その晒された利光の首を親友の海北友松が奪い取って京都真如堂に手厚く葬ったという逸話があります。その海北友松や東陽坊長盛、俳人の向井去来などの墓もあります。
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洛東の神楽岡に建つ真如堂は、表通りに面していないせいか、その歴史の深さのわりに静かな佇まいを保っています。真如堂は、鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)と号し、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。真如堂とは本堂の名です。
真如堂の建立は古く永観二年(984)。比叡山延暦寺の常行堂の阿弥陀如来像を、神楽岡の東にあった一条天皇の母である東三条女院の離宮に、安置したのが始まりです。
その離宮の跡は現寺地の東北に当り「元真如堂」といわれています。後に幾たびか寺地を変え、文明17年(1485)足利義政が旧地に再興しました。
その後また寺地は移り、元禄6年(1693)現在地に復しました。今の堂舎は宝永2年(1705)再建されたものです。
本尊の阿弥陀如来像は、日本三大如来像のひとつにあげられる平安時代(藤原朝)の名作で国の重要文化財に指定されています。また運慶の願経の法華経6巻は国宝です。
お十夜
永享九年(1437)、伊勢守平貞国が出家を決意して真如堂に参籠し、三日三夜の念仏を終えたとき、夢の中に高僧があらわれて「なお三日まつべし」と出家を思いとどまらせました。
不思議にも翌日、父の隠居が決まり、家督相続の知らせが来て貞国が相続の後、家は興隆したのです。
阿弥陀佛に帰依していた貞国は、その後も度々三日三夜の念仏に、七日七夜の修行をした事から、十日十夜のおつとめ、「お十夜」の始まりとなったのです。
境内には春日の局の父で明智光秀の家老、斉藤利三の墓がありました。利三は山崎の合戦で奮戦したが敗北、近江の堅田で打ち首となりました。その晒された利光の首を親友の海北友松が奪い取って京都真如堂に手厚く葬ったという逸話があります。その海北友松や東陽坊長盛、俳人の向井去来などの墓もあります。
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京都市左京区銀閣寺町にある銀閣寺(慈照寺)を取り上げてみます。
室町時代、東山文化の頃に大きな文化の影響を与えた「銀閣」は、のちに寺に改められ「慈照寺」と名前を変えました。
銀閣は観音殿といい、創建時の風雅な姿をそのまま残す国宝です。世界文化遺産にも登録されています。
観音殿(銀閣)は鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来観音殿と呼ばれました。二層からなり一層の心空殿は書院風。
二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音苔薩を祀る銀閣を絶えず守り続けています。
足利義政は、祖父にあたる三代将軍足利義満の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を文明14年(1482)に造営しました。この東山殿が銀閣寺の発祥です。
銀閣寺は俗称であり、正しくは山号を東山(とうざん)、慈照寺です。義政の法号慈照院にちなみ、後にこう命名されたのです。金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつなのです。
京都の東に連なる山々は東山(ひがしやま)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。
総門をくぐり中門までの約50メートルに銀閣寺垣が続きます。石垣・竹垣・椿の生垣が見事に調和しています。
銀閣寺形手水鉢
中門から中に入ると東山文化のわびさびを感じさせてくれる美しい庭園が目に飛び込みます。庭園は特別史跡、特別名勝に指定されています。
正面に月待山、銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる白砂や台形の向月台(こうげつだい)が配されています。月見の風情が伺え、枯山水と池泉回遊式の庭園は見事です。
本堂へ続く東求堂(とうぐどう)も国宝で、同仁斎(どうじんさい)という現存最古の書院造りの部屋が有名です。東求堂の拝観は事前申込みが必要です。
義政は8才で将軍となり政務に励みましたが、山名、細川氏らの対立を収められませんでした。妻である日野富子まで政治に口を挟み、政局は乱脈を極めました。
後継者争いから応仁元年(1467)応仁の乱が起こり10年間戦いが続きました。そのさなかの文明5年(1473)、義政は将軍職を9才の義尚に譲ってしまい銀閣寺造営に情熱を向けたのでした。
文明14年(1482)に乱で焼失した浄土寺の跡地に銀閣を造営して翌年移っているそうです。浄土寺は相国寺の西に移ったそうです。
義政は文化面に優れた感覚を持ち、祖父の義満の金閣に劣らない建築を志しました。横川景三ら相国寺の僧を相談相手にしていたそうです。
国の特別史跡・名勝に指定されている庭園は名手善阿弥(ぜんあみ)、襖絵は小栗宗湛、狩野正信らの一流人を用いています。
資金は段銭を課し、公家、寺院から普請料を徴収したそうです。常の御所、禅堂西指庵、持仏堂の東求堂などを完成させました。最後に観音堂(銀閣)を上棟したのは死の前年の長亨3年(1489)だったそうです。
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室町時代、東山文化の頃に大きな文化の影響を与えた「銀閣」は、のちに寺に改められ「慈照寺」と名前を変えました。
銀閣は観音殿といい、創建時の風雅な姿をそのまま残す国宝です。世界文化遺産にも登録されています。
観音殿(銀閣)は鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来観音殿と呼ばれました。二層からなり一層の心空殿は書院風。
二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音苔薩を祀る銀閣を絶えず守り続けています。
足利義政は、祖父にあたる三代将軍足利義満の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を文明14年(1482)に造営しました。この東山殿が銀閣寺の発祥です。
銀閣寺は俗称であり、正しくは山号を東山(とうざん)、慈照寺です。義政の法号慈照院にちなみ、後にこう命名されたのです。金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつなのです。
京都の東に連なる山々は東山(ひがしやま)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。
総門をくぐり中門までの約50メートルに銀閣寺垣が続きます。石垣・竹垣・椿の生垣が見事に調和しています。
銀閣寺形手水鉢
中門から中に入ると東山文化のわびさびを感じさせてくれる美しい庭園が目に飛び込みます。庭園は特別史跡、特別名勝に指定されています。
正面に月待山、銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる白砂や台形の向月台(こうげつだい)が配されています。月見の風情が伺え、枯山水と池泉回遊式の庭園は見事です。
本堂へ続く東求堂(とうぐどう)も国宝で、同仁斎(どうじんさい)という現存最古の書院造りの部屋が有名です。東求堂の拝観は事前申込みが必要です。
義政は8才で将軍となり政務に励みましたが、山名、細川氏らの対立を収められませんでした。妻である日野富子まで政治に口を挟み、政局は乱脈を極めました。
後継者争いから応仁元年(1467)応仁の乱が起こり10年間戦いが続きました。そのさなかの文明5年(1473)、義政は将軍職を9才の義尚に譲ってしまい銀閣寺造営に情熱を向けたのでした。
文明14年(1482)に乱で焼失した浄土寺の跡地に銀閣を造営して翌年移っているそうです。浄土寺は相国寺の西に移ったそうです。
義政は文化面に優れた感覚を持ち、祖父の義満の金閣に劣らない建築を志しました。横川景三ら相国寺の僧を相談相手にしていたそうです。
国の特別史跡・名勝に指定されている庭園は名手善阿弥(ぜんあみ)、襖絵は小栗宗湛、狩野正信らの一流人を用いています。
資金は段銭を課し、公家、寺院から普請料を徴収したそうです。常の御所、禅堂西指庵、持仏堂の東求堂などを完成させました。最後に観音堂(銀閣)を上棟したのは死の前年の長亨3年(1489)だったそうです。
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今日は京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町にある法然院を紹介します。
善気山万無(ぜんきさんばんぶ)教寺と号し、浄土宗捨世派の本山です。建永元年(1206)に法然上人が弟子の住蓮、安楽とともに六時礼賛(ろくじらいさん)をつとめたと伝えられる旧跡です。
寛永年間(1624-1644)、ほとんど廃絶状態になっていました。そこを延宝8年(1680)、万無心阿(まんむしんあ)が弟子の忍徴(にんちょう)とともに上人を偲び念仏道場として再興したのでした。
貞享4年(1687)、宮中から内親王の御座所を下賜されて方丈としました。その襖絵は金地著色の桐二竹図・若松図など重要文化財に指定されたものです。
本堂内部は通常非公開ですが、正面から恵心作の本尊阿弥陀如来や散華が拝観できます。境内には谷崎潤一郎ら著名人の墓もあります。
古都特有の厳かな雰囲気が程良い緊張を感じさせる法然院は善気山の清々しい山気に満ち、粛然とした気配がいまも漂っています。
ヒノキと杉木立の参道をのぼると三門にかわる茅葺(かやぶ)きの数寄屋風の門があります。門をくぐると白沙織段(はくしゃだん)があります。
両側に砂盛りがあり、白砂に文様が描かれています。池に架かる橋を渡ると方丈の玄関に出ます。本堂には恵心僧都がつくられた阿弥陀如来座像と法然上人が作られた木造を安置しています。
須弥壇の前には散花(さんげ)と称して四季の花を散らし荘厳美を増しています。経蔵は元文元年(1736)の建造で忍徴(にんちょう)が門弟達と校訂した大蔵経を納めています。阿弥陀の徳を讃える六時礼賛(ろくじらいさん)が今日も続いています。
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寛永年間(1624-1644)、ほとんど廃絶状態になっていました。そこを延宝8年(1680)、万無心阿(まんむしんあ)が弟子の忍徴(にんちょう)とともに上人を偲び念仏道場として再興したのでした。
貞享4年(1687)、宮中から内親王の御座所を下賜されて方丈としました。その襖絵は金地著色の桐二竹図・若松図など重要文化財に指定されたものです。
本堂内部は通常非公開ですが、正面から恵心作の本尊阿弥陀如来や散華が拝観できます。境内には谷崎潤一郎ら著名人の墓もあります。
古都特有の厳かな雰囲気が程良い緊張を感じさせる法然院は善気山の清々しい山気に満ち、粛然とした気配がいまも漂っています。
ヒノキと杉木立の参道をのぼると三門にかわる茅葺(かやぶ)きの数寄屋風の門があります。門をくぐると白沙織段(はくしゃだん)があります。
両側に砂盛りがあり、白砂に文様が描かれています。池に架かる橋を渡ると方丈の玄関に出ます。本堂には恵心僧都がつくられた阿弥陀如来座像と法然上人が作られた木造を安置しています。
須弥壇の前には散花(さんげ)と称して四季の花を散らし荘厳美を増しています。経蔵は元文元年(1736)の建造で忍徴(にんちょう)が門弟達と校訂した大蔵経を納めています。阿弥陀の徳を讃える六時礼賛(ろくじらいさん)が今日も続いています。
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京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町にある安楽寺です。
安楽寺は住蓮山と号し浄土宗の寺院です。法然上人の弟子、住蓮房と安楽房が建てた「鹿ケ谷草庵」の跡に建っています。後鳥羽上皇の女官、松虫と鈴虫がこの2人の僧の影響で出家したため上皇が怒り、2人を死罪、法然を土佐へ、親鸞は越後へ流罪にしました。これは承元元年(1207)のことでした。承元の法難と呼ばれています。
延宝9年(1681)、住蓮房と安楽房の両僧を弔うために住蓮山安楽寺が建てられました。二人の供養のため2基の五輪石塔が建ちました。
東方の山林の中には鈴虫、松虫の五輪石塔の供養塔もあります。6月8日に供養会を行っているそうです。桜、ツツジ、サツキ、紅葉の季節に拝観できます。
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延宝9年(1681)、住蓮房と安楽房の両僧を弔うために住蓮山安楽寺が建てられました。二人の供養のため2基の五輪石塔が建ちました。
東方の山林の中には鈴虫、松虫の五輪石塔の供養塔もあります。6月8日に供養会を行っているそうです。桜、ツツジ、サツキ、紅葉の季節に拝観できます。
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京都府京都市左京区若王子町にある熊野若王子神社です。
熊野若王子神社は、京都三熊野の一つで 「哲学の道」の起点、また、東山三十六峰のふもととに位置しています。
熊野若王子神社は永暦元年 (1160)、平安時代の末期に、後白河法皇が紀州の熊野権現を勧請して建てられれました。社名は天照大神の別称「若一王子」に因んで名付けられました。
背後の東山中に滝があり、熊野三山の那智大社に見立てています。熊野詣の時には、この滝で浄めを行ってから出発したといわれています。花見の名所としても有名で寛正6年(1465)足利義政により花見の宴が催されています。
御神木の梛(なぎ)の大木は樹齢400年で京都で最も古いものです。熊野詣、伊勢参宮などの際に諸々の罪けがれを祓い清めるみそぎの木として用いられ、いまも、この葉で作ったお守りはすべての苦難をなぎ倒すといわれています。
応仁の乱により荒廃しましたが豊臣秀吉によって再興され社殿、境内が整備されました。境内には末社として恵比寿神社、三解社が祀られ、背後の若王子山頂には新島襄の墓があるそうです。
花乃影
澄や岩間の
和すれ水
梅通
(梅通は京の俳人です。)
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熊野若王子神社は、京都三熊野の一つで 「哲学の道」の起点、また、東山三十六峰のふもととに位置しています。
熊野若王子神社は永暦元年 (1160)、平安時代の末期に、後白河法皇が紀州の熊野権現を勧請して建てられれました。社名は天照大神の別称「若一王子」に因んで名付けられました。
背後の東山中に滝があり、熊野三山の那智大社に見立てています。熊野詣の時には、この滝で浄めを行ってから出発したといわれています。花見の名所としても有名で寛正6年(1465)足利義政により花見の宴が催されています。
御神木の梛(なぎ)の大木は樹齢400年で京都で最も古いものです。熊野詣、伊勢参宮などの際に諸々の罪けがれを祓い清めるみそぎの木として用いられ、いまも、この葉で作ったお守りはすべての苦難をなぎ倒すといわれています。
応仁の乱により荒廃しましたが豊臣秀吉によって再興され社殿、境内が整備されました。境内には末社として恵比寿神社、三解社が祀られ、背後の若王子山頂には新島襄の墓があるそうです。
花乃影
澄や岩間の
和すれ水
梅通
(梅通は京の俳人です。)
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今日は京都府京都市左京区永観堂町にある永観堂(禅林寺)を紹介します。
聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山派の総本山で通称永観堂と呼ばれています。斉衡2年(855)空海の弟子である真紹僧都によって創建され、貞観5年(863)清和天皇より禅林寺の定額を得ました。諸堂は、おおらかな自然と一体となった長い回廊で結ばれています。
一時衰えましたが、平安時代の末、承暦年間(1077-1081)に永観律師が入山して念仏道場を開き寺を中興しました。このことから永観堂と呼ばれるようになりました。
念仏を唱えて行道をしていると本尊の阿弥陀仏が壇上より降りてきて先導をはじめ、振り返って「永観遅し」と声をかけたという逸話が残っているそうです。
東山のふもとに建つ閑静な古刹は「もみじの永観堂」として知られ、東山を背景にした池泉廻遊式の庭園の紅葉は有名です。古今集でも詠まれたほどに紅葉がきれいな場所なのです。
鎌倉時代中期には浄土宗西山派の本山の基礎を固めました。応仁の乱により堂舎が焼失しましたが明応6年(1497)後土御門天皇の命により再建され、以後遂次諸堂が建てられ現在の伽藍となりました。
重要文化財の本尊のみかえり阿弥陀如来像は、左後方を振り返っためずらしいものです。国宝の山越阿弥陀図(やまこしあみだず)や鎌倉以来の仏画なども寺宝になっています。
多宝塔からは京都市内が一望できます。慈愛に満ちた高さ80cmの如来の表情は、見る人の心を癒してくれます。
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聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山派の総本山で通称永観堂と呼ばれています。斉衡2年(855)空海の弟子である真紹僧都によって創建され、貞観5年(863)清和天皇より禅林寺の定額を得ました。諸堂は、おおらかな自然と一体となった長い回廊で結ばれています。
一時衰えましたが、平安時代の末、承暦年間(1077-1081)に永観律師が入山して念仏道場を開き寺を中興しました。このことから永観堂と呼ばれるようになりました。
念仏を唱えて行道をしていると本尊の阿弥陀仏が壇上より降りてきて先導をはじめ、振り返って「永観遅し」と声をかけたという逸話が残っているそうです。
東山のふもとに建つ閑静な古刹は「もみじの永観堂」として知られ、東山を背景にした池泉廻遊式の庭園の紅葉は有名です。古今集でも詠まれたほどに紅葉がきれいな場所なのです。
鎌倉時代中期には浄土宗西山派の本山の基礎を固めました。応仁の乱により堂舎が焼失しましたが明応6年(1497)後土御門天皇の命により再建され、以後遂次諸堂が建てられ現在の伽藍となりました。
重要文化財の本尊のみかえり阿弥陀如来像は、左後方を振り返っためずらしいものです。国宝の山越阿弥陀図(やまこしあみだず)や鎌倉以来の仏画なども寺宝になっています。
多宝塔からは京都市内が一望できます。慈愛に満ちた高さ80cmの如来の表情は、見る人の心を癒してくれます。
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今日は京都府京都市左京区南禅寺にある南禅寺の真乗院を紹介します。
真乗院には応仁の乱で西軍の総大将だった山名宗全のお墓があります。山名持豊(宗全)は嘉吉の乱では、播磨の白旗城に籠城した赤松満祐を滅ぼし、備前、美作を与えられました。その後、山名氏の領国は9ヶ国におよび、管領の細川氏を凌ぐほどになったのです。
宝徳2年(1450)入道になり宗全と号しました。赤松家の処遇をめぐって将軍足利義政と対立。享徳3年(1454)子・教豊に家督を譲ってのちに、備前で赤松則尚を滅ぼしました。
長禄2年(1458)に幕政に復帰してからは、細川勝元と対立。畠山政長を管領職から追い、畠山義就を就けたため、応仁の乱が勃発し、何年にもわたって両雄は争いを止めることなく、京中と寺社はことごとく灰燼となったのでした。
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京都市左京区南禅寺福地町にある南禅寺の金地院(こんちいん)です。
南禅寺の塔頭のひとつです。 慶長の初め、以心崇伝によって南禅寺へ移されました。もとは北山にあった寺でした。以心崇伝は足利氏の家臣・一色秀勝の第二子でした。南禅寺に引き取られ、玄圃霊三の弟子となり建長寺や・南禅寺の住職になり、臨済宗の最高位についた人です。。
慶長13年(1608)に徳川家康の命により、以心崇伝は駿府に赴き、外交事務の担当をするようになります。黒衣の宰相ともいわれたそうです。
方広寺の鐘銘に「国家安康」があり、家康公の名を引き裂いており、「君臣豊楽」は豊臣家を主君として楽しむ、ととれると換言しました。それにより「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家を滅亡させたのです。
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南禅寺の塔頭のひとつです。 慶長の初め、以心崇伝によって南禅寺へ移されました。もとは北山にあった寺でした。以心崇伝は足利氏の家臣・一色秀勝の第二子でした。南禅寺に引き取られ、玄圃霊三の弟子となり建長寺や・南禅寺の住職になり、臨済宗の最高位についた人です。。
慶長13年(1608)に徳川家康の命により、以心崇伝は駿府に赴き、外交事務の担当をするようになります。黒衣の宰相ともいわれたそうです。
方広寺の鐘銘に「国家安康」があり、家康公の名を引き裂いており、「君臣豊楽」は豊臣家を主君として楽しむ、ととれると換言しました。それにより「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家を滅亡させたのです。
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