フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

10月14日(土) 晴れ

2006-10-15 07:26:32 | Weblog
  朝、フィールドノートの更新をしてから家を出る。蒲田駅に着くと、沿線の火災の影響で京浜東北線が止まっていたので、多摩川線→目黒線(南北線に接続)→東西線と乗り継いで大学に到着。2限の授業(社会学基礎講義B)に10分ほど遅刻(電車の中から教員ロビーに電話を入れて遅刻する旨を教室のホワイトボードに書いておいてもらった)。
  昼休み、研究室で食事(コンビニのおにぎり3個)をしていたら、女子学生が2人やってきて、先日の社会学専修のガイダンスに出られなかったので当日配布した資料をもらいにきましたという。先週も同じことがあったが、私の研究室に来てもそういうものは置いていない。社会学研究室(32号館101)に行って助手さんからもらって下さいと言おうとして、今日は土曜日だから101は閉まっていることを思い出す。何か質問があったら答えられる範囲で答えますがと言って、しばしおしゃべり。専修進級をめぐって、これからしばらく1年生にとっては悩ましい季節である。
  3限の授業(社会学研究10)の後、研究室で卒論の個人指導を一件、演習の発表の相談を一件。テーブルの上に散乱している書類を片づけてから(来週研究室に来たとき気分がいい)、午後6時、研究室を出る。
  夜、『たったひとつの恋』の初回を観る。既視感のあるドラマである。恋愛はゲームに過ぎないと醒めた口調で語る主人公の青年(亀梨和也)のキャラクターは、1年前に亀梨が演じた『野ブタ。をプロデュース』のそれに酷似している。小さな町工場の従業員と宝石商の社長令嬢という階層差の大きな男女(それも男<女)の間の恋愛というパターンは、最近では『恋におちたら』で使われている(草剛と松下奈緒)。ヒロイン(綾瀬はるか)が健康上の問題(それがはたしてどれくらい深刻なものなのかは初回だけではよくわからなかったが)を抱えているという設定は、『ラストクリスマス』(織田裕二と矢田亜希子)や『ビューティフルライフ』(木村拓哉と常盤貴子)や『世界の中心で、愛をさけぶ』(綾瀬はるかがTVドラマ版のヒロインを演じていた)を連想させる。主人公とヒロインが恋に落ちるきっかけがプールに一緒に転落するハプニングであるというのも『恋におちたら』とまったく同じである。つまり、北川悦吏子の脚本は、冒険を冒さず、近年ヒットしたTVドラマ(そこには彼女自身のものも含まれている)の筋書きや場面を再利用する形で作られた一種のコラージュ、「ヒットした恋愛ドラマ」の見本帳のような趣がある。もちろんあらゆる物語はすでに存在する物語からの引用で成り立っているのだと開き直ることはできる。ただ、私が気になるのは、北川悦吏子がそうした引用・模倣をかなり意識してやっていて、TVドラマ好きの視聴者がそれに気づいてくるれることまでを計算に入れている、と感じられる点である。映画にはそういう作品がときどきあって、すれっからしの映画ファンはそれをニタニタ楽しんだりするわけだが、若者向けの恋愛ドラマでそれをやることの積極的意味はどこにあるのだろうか。要するに才能の枯渇ということではないのか。…というきつい言い方を私がするのは、ドラマの中で、「慶応大学」がチヤホヤされているのが気にくわないという心理が働いているのでしょうね、たぶん。ちなみに北川悦吏子は早稲田大学第一文学部の出身である。