昼から大学へ。3限の社会学演習ⅡBでは是枝裕和監督の『ワンダフルライフ』の一部を観て、ライフストーリー・インタビュー調査の特性について考える。また、ICレコーダーを各班に一台貸与し、操作の仕方を学習。4限の大学院の演習では80年代の「バブル文化」についてディスカッション。5限の時間に現代人間論系の会合。みんなの空き時間を探し出すのに苦労したが、ようやく会合をもてた。
6限の「現代人の精神構造」(第3回)は山田真茂留先生の担当(テーマは「現代人と宗教」)。前の会合が長引いて、30分ほど経過してから教室に顔を出す。38号館AV教室は音響と空調に問題がある。スピーカーの配置が悪いため、教室の最後部のエリアではマイクの声がよく聞こえない。空調システムがちゃんと作動していないため400人近くも受講生がいると教室が蒸し暑い。また、ホワイトボードに字を書くときは極太の、それも新品のマーカーを使用しないと、後ろの方は字が見えない。教室の最後部で学生の立場に身をおいてみると、そうしたことが教壇にいるときよりもよくわかる。懸案だった出席カードの件は、配布も回収も授業中にTAのI君にやってもらったところ、授業後の学生の退出がきわめてスムーズだった。授業後、山田先生の研究室でアクエリアスを飲みながら反省会。山田先生は早稲田大学に来られる前は立教大学におられたのだが、早稲田大学生(少なくとも文学部生)の授業中の私語の少なさは感動的だと言われた。これは他の先生方からもしばしば聞く話である。考えられる要因は2つ。第一に、学生の質が高いこと。第二に、友人同士が固まって座るという傾向が少ないこと(一人では私語は成立しない)。「現代人の精神構造」のキーワードは「個人化」であるが、授業中の学生たちの空間配置がまさにその「個人化」状況を示しているのである。ところで、今日の授業で山田先生は5枚のプリントを配ったが、それは今日の授業で使用するプリントだけでなく、次回の授業で使用するプリントも含まれていた。ここは私と山田先生の意見の分かれるところで、それをやると、次回、多くの学生はプリントを忘れてくる(だからプリントの配布は当日使用する分だけにした方がよい)と私なら考えるわけだが、どちらの予測が正しいかは来週の授業で明らかになる。山田先生、何か賭けましょうか?
夕食はTAのI君と五郎八で。私が天せいろ、I君がただのせいろ(これはI君が純粋に蕎麦好きであるためで、私に遠慮をしたわけではない)。
9時半、帰宅。メールをチェックし、すぐに返信の必要なもの数件に返信をしてから、風呂に入る。今夜は竹之内豊主演の『家族』の初回の放送があったのだが、それの最後と『セーラー服と機関銃』の最初が9分ほど重なっていたため、『セーラー服と機関銃』のビデオ録画を優先し、『家族』の方は録画をしなかった。TVドラマの初回を通常の放送時間よりも長めのものにする手法は最近よく使われるが、そういうことを安易にやるとかえって墓穴を掘るのである。『セーラー服と機関銃』は映画とは違う展開であることが今夜の2回目の放送で明らかになった。だから書くけれど、実は、映画では目高組の組員たちは一人また一人と殺されていくのである。テレビでは組員たちは痛めつけられはしても殺されるまではいかないようだ(ですよね?)。もの足りないような、ホッとしたような、中途半端な気分。映画で薬師丸ひろ子が対抗する組の事務所に乗り込んで機関銃をぶっ放すシーンは、そういう経緯があってのことである。同じシーンは、当然、テレビでもあるわけだが、それに至る経緯が違うとなると、どれだけ観る者の共感を得られるだろうか。耐えに耐えた主人公が最後に爆発するというのは任侠映画のパターンだが、そこにはたいてい「組長の死」(殺害)という事件が契機になっている。『セーラー服と機関銃』では主人公自身が組長なので、映画では「組長の死」の機能的代替物が「父親の死」(殺害)と「組員の死」(殺害)である。テレビでは「組員の死」は描かれないとすると(ですよね?)、「父親の死」がより一層強調され、シマ(縄張り)の中の住人たちが受ける被害が繰り返し描かれることになるのだろうか。そして組員たちが女子高生の組長とういものを受容していくプロセスが重視されるのだろうか。つまりは『セーラー服と機関銃』は家族の喪失と再生(地域共同体やヤクザの組は疑似家族である)の物語ということになるのだろうか。
明日は大学の創立記念日。翌日の授業のことを考えなくてもいい金曜日というものは久しぶりである。これが週末気分というものか。
6限の「現代人の精神構造」(第3回)は山田真茂留先生の担当(テーマは「現代人と宗教」)。前の会合が長引いて、30分ほど経過してから教室に顔を出す。38号館AV教室は音響と空調に問題がある。スピーカーの配置が悪いため、教室の最後部のエリアではマイクの声がよく聞こえない。空調システムがちゃんと作動していないため400人近くも受講生がいると教室が蒸し暑い。また、ホワイトボードに字を書くときは極太の、それも新品のマーカーを使用しないと、後ろの方は字が見えない。教室の最後部で学生の立場に身をおいてみると、そうしたことが教壇にいるときよりもよくわかる。懸案だった出席カードの件は、配布も回収も授業中にTAのI君にやってもらったところ、授業後の学生の退出がきわめてスムーズだった。授業後、山田先生の研究室でアクエリアスを飲みながら反省会。山田先生は早稲田大学に来られる前は立教大学におられたのだが、早稲田大学生(少なくとも文学部生)の授業中の私語の少なさは感動的だと言われた。これは他の先生方からもしばしば聞く話である。考えられる要因は2つ。第一に、学生の質が高いこと。第二に、友人同士が固まって座るという傾向が少ないこと(一人では私語は成立しない)。「現代人の精神構造」のキーワードは「個人化」であるが、授業中の学生たちの空間配置がまさにその「個人化」状況を示しているのである。ところで、今日の授業で山田先生は5枚のプリントを配ったが、それは今日の授業で使用するプリントだけでなく、次回の授業で使用するプリントも含まれていた。ここは私と山田先生の意見の分かれるところで、それをやると、次回、多くの学生はプリントを忘れてくる(だからプリントの配布は当日使用する分だけにした方がよい)と私なら考えるわけだが、どちらの予測が正しいかは来週の授業で明らかになる。山田先生、何か賭けましょうか?
夕食はTAのI君と五郎八で。私が天せいろ、I君がただのせいろ(これはI君が純粋に蕎麦好きであるためで、私に遠慮をしたわけではない)。
9時半、帰宅。メールをチェックし、すぐに返信の必要なもの数件に返信をしてから、風呂に入る。今夜は竹之内豊主演の『家族』の初回の放送があったのだが、それの最後と『セーラー服と機関銃』の最初が9分ほど重なっていたため、『セーラー服と機関銃』のビデオ録画を優先し、『家族』の方は録画をしなかった。TVドラマの初回を通常の放送時間よりも長めのものにする手法は最近よく使われるが、そういうことを安易にやるとかえって墓穴を掘るのである。『セーラー服と機関銃』は映画とは違う展開であることが今夜の2回目の放送で明らかになった。だから書くけれど、実は、映画では目高組の組員たちは一人また一人と殺されていくのである。テレビでは組員たちは痛めつけられはしても殺されるまではいかないようだ(ですよね?)。もの足りないような、ホッとしたような、中途半端な気分。映画で薬師丸ひろ子が対抗する組の事務所に乗り込んで機関銃をぶっ放すシーンは、そういう経緯があってのことである。同じシーンは、当然、テレビでもあるわけだが、それに至る経緯が違うとなると、どれだけ観る者の共感を得られるだろうか。耐えに耐えた主人公が最後に爆発するというのは任侠映画のパターンだが、そこにはたいてい「組長の死」(殺害)という事件が契機になっている。『セーラー服と機関銃』では主人公自身が組長なので、映画では「組長の死」の機能的代替物が「父親の死」(殺害)と「組員の死」(殺害)である。テレビでは「組員の死」は描かれないとすると(ですよね?)、「父親の死」がより一層強調され、シマ(縄張り)の中の住人たちが受ける被害が繰り返し描かれることになるのだろうか。そして組員たちが女子高生の組長とういものを受容していくプロセスが重視されるのだろうか。つまりは『セーラー服と機関銃』は家族の喪失と再生(地域共同体やヤクザの組は疑似家族である)の物語ということになるのだろうか。
明日は大学の創立記念日。翌日の授業のことを考えなくてもいい金曜日というものは久しぶりである。これが週末気分というものか。