今日は朝から快晴。GW最終日にしてようやく五月晴れの一日となる。散歩に出たいのをぐっと我慢して、明後日の基礎演習の資料を作成しおえてから、遅い遅い昼食をとりがてら散歩に出る。風が心地よい。
久しぶりに(一体、何年ぶりだろう? もしかして20年ぶりくらいじゃないか!?)駅前の「南蛮カレー」に入る。チキンカレー(500円)を注文。価格から察せられるように大衆的なカレー屋である。しゃれたところなど全然ない。お冷の入ったコップにはスプーンが放り込まれている。わざとらしさが感じられなくもないが、たしかに昔のカレー屋はこうだった。チキンカレーを注文したのは、TVドラマ『僕の歩く道』で主人公の自閉症の青年(草剛)の口癖「カレーはやっぱりチキンカレー」が頭にあったためである。ルーは私の記憶にあるものよりもスープ状で、時代に迎合してきた跡が感じられる。ご飯の上から掛けたルーがご飯を通過して、薄茶色になったご飯は見た目は美しくない。しかし、美味しければそれでよいのである。うん、美味しい。家庭のカレーとも、インド風やタイ風のカレー専門店のカレーとも違う、大衆的なカレー屋のカレーの味である。
「ルノアール」で食後の珈琲を飲みながら読書。田村俊子「魔」と小川未明「魯鈍な猫」を読む。明後日の大学院の演習でAさんが紹介・考察することをメールで申告してきた作品である。「魔」は年下の文学青年から恋の告白をされた夫ある女性作家の心理を描いた作品で、とにかく上手いの一言。「魯鈍な猫」はまだ最後まで読み終えていないが、その静謐な文章には心ひかれることろがある。新聞に連載された小説なので、一節一節はスケッチのように短いが、冒頭の駅の描写はとても印象的だ。
「氷を噛んで来たやうな、北風が、白く鈍色に光つたレールの上を吹いた。汽車に乗つて既に幾十分か、幾時間か前へこの駅を出発して、何処にか行つてしまつた人々の紙切れが、当てもなく地面に転がつてレールの上を越して行つた。
並んでゐる倉庫の三角形の家根と家根の間から、遠い北の国の山々が見えた。まだそれらの山には雪があつて花崗岩を刻んだやうに頂きが鋭く光つてゐた。青い雲切れのした空が慰めるやうに、山々を見落してゐた。
私は、停車場の外側の、風に吹き晒されてゐる柱に身をもよせて、北国から来る汽車を待ちつつあつた。その汽車には、まだ互に顔も知らない十二になる女の児が乗つてゐるはずであつた。其の児は孤児(みなしご)である。故郷にゐる叔母が、子供の守に世話してくれたのであつて、私が旅費を送つて呼び寄したのであつた。
まだ、汽車がこの停車場の構内に入つて来るには三十分ばかり間があつた。そこに私の傍に、二三人の者が立つてゐたけれど、何の関係もない、始めて顔を見た、そしてまた直にその顔を忘れてしまふやうな人々であつた。それらの人々も、やはり、誰か汽車に乗つて来るのを迎ひに出て待ちつつある様子であつた。
・・・(中略)・・・
私は、これらの人々と過去において、現在において、恐らくまた、未来においても何等の関係がない。たとへこれらの人々が悲しいことがあつて泣く時でも自分は、それを知らうはずもなければ、それに泣く理由もない。同じく、自分が生活のために苦しみ、若しくは病んで死ぬとも、これらの人々は、それを知らうはずもなく、同情せぬとてうらむ理由もないのである。
その時、私は二たび、幾百里隔てた遠い北国から汽車に揺られて来つつある孤児の少女のあることを思つた。かつて、この孤児とは互に顔を見たこともないのに、偶然に顔を知り、偶然に物を言ふやうになつた。人生を繋ぎ合う目に見えない約束といふものが不思議でならなかつた。」
荒涼とした風景の中のヒューマニズムとでもいおうか。「魯鈍な猫」は未明唯一の長編作品で、筋や構成に欠け、物語としては成功していないという評判だが、一つ一つの節には冷ややかな美しさがあって、私は嫌いではない。
久しぶりに(一体、何年ぶりだろう? もしかして20年ぶりくらいじゃないか!?)駅前の「南蛮カレー」に入る。チキンカレー(500円)を注文。価格から察せられるように大衆的なカレー屋である。しゃれたところなど全然ない。お冷の入ったコップにはスプーンが放り込まれている。わざとらしさが感じられなくもないが、たしかに昔のカレー屋はこうだった。チキンカレーを注文したのは、TVドラマ『僕の歩く道』で主人公の自閉症の青年(草剛)の口癖「カレーはやっぱりチキンカレー」が頭にあったためである。ルーは私の記憶にあるものよりもスープ状で、時代に迎合してきた跡が感じられる。ご飯の上から掛けたルーがご飯を通過して、薄茶色になったご飯は見た目は美しくない。しかし、美味しければそれでよいのである。うん、美味しい。家庭のカレーとも、インド風やタイ風のカレー専門店のカレーとも違う、大衆的なカレー屋のカレーの味である。
「ルノアール」で食後の珈琲を飲みながら読書。田村俊子「魔」と小川未明「魯鈍な猫」を読む。明後日の大学院の演習でAさんが紹介・考察することをメールで申告してきた作品である。「魔」は年下の文学青年から恋の告白をされた夫ある女性作家の心理を描いた作品で、とにかく上手いの一言。「魯鈍な猫」はまだ最後まで読み終えていないが、その静謐な文章には心ひかれることろがある。新聞に連載された小説なので、一節一節はスケッチのように短いが、冒頭の駅の描写はとても印象的だ。
「氷を噛んで来たやうな、北風が、白く鈍色に光つたレールの上を吹いた。汽車に乗つて既に幾十分か、幾時間か前へこの駅を出発して、何処にか行つてしまつた人々の紙切れが、当てもなく地面に転がつてレールの上を越して行つた。
並んでゐる倉庫の三角形の家根と家根の間から、遠い北の国の山々が見えた。まだそれらの山には雪があつて花崗岩を刻んだやうに頂きが鋭く光つてゐた。青い雲切れのした空が慰めるやうに、山々を見落してゐた。
私は、停車場の外側の、風に吹き晒されてゐる柱に身をもよせて、北国から来る汽車を待ちつつあつた。その汽車には、まだ互に顔も知らない十二になる女の児が乗つてゐるはずであつた。其の児は孤児(みなしご)である。故郷にゐる叔母が、子供の守に世話してくれたのであつて、私が旅費を送つて呼び寄したのであつた。
まだ、汽車がこの停車場の構内に入つて来るには三十分ばかり間があつた。そこに私の傍に、二三人の者が立つてゐたけれど、何の関係もない、始めて顔を見た、そしてまた直にその顔を忘れてしまふやうな人々であつた。それらの人々も、やはり、誰か汽車に乗つて来るのを迎ひに出て待ちつつある様子であつた。
・・・(中略)・・・
私は、これらの人々と過去において、現在において、恐らくまた、未来においても何等の関係がない。たとへこれらの人々が悲しいことがあつて泣く時でも自分は、それを知らうはずもなければ、それに泣く理由もない。同じく、自分が生活のために苦しみ、若しくは病んで死ぬとも、これらの人々は、それを知らうはずもなく、同情せぬとてうらむ理由もないのである。
その時、私は二たび、幾百里隔てた遠い北国から汽車に揺られて来つつある孤児の少女のあることを思つた。かつて、この孤児とは互に顔を見たこともないのに、偶然に顔を知り、偶然に物を言ふやうになつた。人生を繋ぎ合う目に見えない約束といふものが不思議でならなかつた。」
荒涼とした風景の中のヒューマニズムとでもいおうか。「魯鈍な猫」は未明唯一の長編作品で、筋や構成に欠け、物語としては成功していないという評判だが、一つ一つの節には冷ややかな美しさがあって、私は嫌いではない。