昼から大学へ。3限の「現代人間論系綜合講座1」は、前半が、安藤先生のシリーズ(近現代日本の小説に見る「私」の構築)の最終回のお話。続いて、私が安藤先生のお話にコメントを述べるという形で、安藤先生がシリーズの中で取り上げた全作品(夏目漱石『三四郎』、島崎藤村『破戒』、田山花袋『蒲団』、小林多喜二『一九二八・三・一五』、小島信夫『抱擁家族』、庄野潤三『夕べの雲』、吉本バナナ『キッチン』『満月』、三田誠広『僕って何』、村上春樹『ノルウェイの森』、田中康夫『なんとなく、クリスタル』、増田みず子『シングル・セル』、綿谷りさ『蹴りたい背中』)について、私なりの(社会学的な)視点で再解釈を行なった。安藤先生のお話は社会学的な文学研究で、私の話は文学的な社会学研究である。両者は重なるところもあるが、ずれるところもある。その辺りのことが学生にうまく伝わったであろうか。ただ、こういうのは、一種の後出しジャンケンのようなところがあり、後から話をする方が有利なのである。先手の有利は取り上げる作品を指定できることであるが、今回については、私もすでに読んでいる作品がほとんどであったため、戸惑いはなく、先手の指し手(解釈)を見てからそれを批判的に検討できるという後手の有利だけが残った。授業の後、安藤先生が「美味しいところをもっていかれちゃったな・・・」とぼやいておられたが、確かにそういうところはある。すみませんね、安藤先生。来週登場される草野先生(今回はフロアーで聴講されていた)は、文学的な文学研究を展開されるはずで、文学作品を「資料」として取り扱う(今回の)安藤先生や私のやり方は踏襲しないだろう。とりあげる作品はドストエフスキー『白痴』とのこと。草野先生が書かれた『ロシア恋愛小説の読み方』(NHK出版)を読んで予習しておこう。授業後、「フェニックス」で安藤先生、TAのI君と雑談。この雑談が、ここでは書けないようなことばかりで、なかなか面白いのである。イギリス文学というのはゴシップが重要なジャンルなのであろうか。
帰途、丸の内の丸善に寄る。文房具コーナーをひとわたり見てから(もうモールスキンの2008年7月始まりのスケジュール帳が出ていた!)、店内の喫茶店で休憩する。読むべき本を持ち合わせていなかったので、Ian Burkitt(2008)Social Selves:Theories of Self and Society.Sageを購入。オレンジフロートを飲みながらパラパラと読む。その後、若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』(作品社)を購入し、電車の中で読む。彼自身が翻訳をした『ロリータ』の研究書だが、最初にナボコフの創作したチェスの次の一手問題の分析から始まっているのがいかにも若島らしい。若島は若い頃、詰め将棋の作家としてアマチュア将棋の世界ではよく知られた人物である。将棋がほとんど唯一の趣味であった学生時代の私は、京都大学の数学科に若島という将棋の強豪がいることを知っていた。その彼が、大学院進学のときに英文学に転じたことを知って非常に驚いた記憶がある。なんで数学から英文学なのだと。もしかしたら若島自身がそのことをどこかで書いているのかもしれないが、私は知らない。しかし、それを知らなくても、その後の若島が英文学の世界で素晴らしい仕事をしてきたことを知っていればそれで十分だ。それにしても、この『ロリータ、ロリータ、ロリータ』は詰め将棋作家であった若島の面目躍如たるものがある。
「というわけで、『ロリータ』のすべてを論じ尽くすという意図は本書にはまったくない。その代わり、目標は小さく設定し、『ロリータ』のごく一部、新潮文庫版でわずか五ページ足らずの一節を、徹底的に精読する。それはあくまでも読みの実践例であり、ナボコフを、あるいは『ロリータ』をどのように読めばいいのか、一つの方向性と方法を提示するものである。『ロリータ』全体は文庫版で五〇〇ページ以上あるから、ここで示すような精読を一〇〇倍以上積み重ねて、初めて全体が見晴らせる場所に到達できるのだとご了解いただきたい。中間報告にすぎないわたしの実践例を一つのサンプルとしながら、読者が自分の力で『ロリータ』の読み直しにとりかかる。そんな動機付けに本書がなれたとしたら、わたしはそれだけで満足である。」(15頁)
これが文学的な文学研究の姿勢であるとすれば、社会学者ジンメルの真似をするわけではないけれども、私は文学者にはなれそうもない。いかなる意味でも文学者にはなれそうもない。
帰途、丸の内の丸善に寄る。文房具コーナーをひとわたり見てから(もうモールスキンの2008年7月始まりのスケジュール帳が出ていた!)、店内の喫茶店で休憩する。読むべき本を持ち合わせていなかったので、Ian Burkitt(2008)Social Selves:Theories of Self and Society.Sageを購入。オレンジフロートを飲みながらパラパラと読む。その後、若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』(作品社)を購入し、電車の中で読む。彼自身が翻訳をした『ロリータ』の研究書だが、最初にナボコフの創作したチェスの次の一手問題の分析から始まっているのがいかにも若島らしい。若島は若い頃、詰め将棋の作家としてアマチュア将棋の世界ではよく知られた人物である。将棋がほとんど唯一の趣味であった学生時代の私は、京都大学の数学科に若島という将棋の強豪がいることを知っていた。その彼が、大学院進学のときに英文学に転じたことを知って非常に驚いた記憶がある。なんで数学から英文学なのだと。もしかしたら若島自身がそのことをどこかで書いているのかもしれないが、私は知らない。しかし、それを知らなくても、その後の若島が英文学の世界で素晴らしい仕事をしてきたことを知っていればそれで十分だ。それにしても、この『ロリータ、ロリータ、ロリータ』は詰め将棋作家であった若島の面目躍如たるものがある。
「というわけで、『ロリータ』のすべてを論じ尽くすという意図は本書にはまったくない。その代わり、目標は小さく設定し、『ロリータ』のごく一部、新潮文庫版でわずか五ページ足らずの一節を、徹底的に精読する。それはあくまでも読みの実践例であり、ナボコフを、あるいは『ロリータ』をどのように読めばいいのか、一つの方向性と方法を提示するものである。『ロリータ』全体は文庫版で五〇〇ページ以上あるから、ここで示すような精読を一〇〇倍以上積み重ねて、初めて全体が見晴らせる場所に到達できるのだとご了解いただきたい。中間報告にすぎないわたしの実践例を一つのサンプルとしながら、読者が自分の力で『ロリータ』の読み直しにとりかかる。そんな動機付けに本書がなれたとしたら、わたしはそれだけで満足である。」(15頁)
これが文学的な文学研究の姿勢であるとすれば、社会学者ジンメルの真似をするわけではないけれども、私は文学者にはなれそうもない。いかなる意味でも文学者にはなれそうもない。