フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月23日(金) 晴れ

2008-05-24 10:20:55 | Weblog
  昼から大学へ。電車の中で資料を見ながら授業のシミュレーションをしていたら、東京駅を乗り越して秋葉原まで行ってしまい(快速だったのだ)、危うく3限の授業に遅刻するところだった。
  その3限の授業(日常生活の社会学)は、いつも前回の授業のポイントの復習や出席カードの裏に書かれた質問や感想をいくつか紹介することから始める。先週の授業は「名前」をテーマにしたもので、その中で、私は「孝治」という自分の名前には子どもの頃から苦労させられた(「たかじ」と読んでもらえず、たいてい「こうじ」か「たかはる」と誤読される)というエピソードを語ったのだが、「たかじという名前は素敵だと思います」というコメントが書かれた出席カードがあって、私は大いに驚いた。いまはもう慣れたのでそれほどでもないが、私は子どもの頃、「たかじ」という名前が嫌いであった。「孝」を「たか」、「治」を「じ」と読むという組み合わせはいわゆる湯桶読みというやつで、変則的というか、人名らしからぬ読み方である。名前は個人のアイデンティティの核となるものの一つだが、私は自分の名前を自分のものとして受け入れることに心理的な抵抗を感じてきた。それはちょうど性同一性障害者が自分の身体に違和感を感じるのに似ているだろう。長年にわたってそういう葛藤を抱えてきた人間が、「たかじという名前は素敵だと思います」と言われたのだから驚いた。醜いアヒルの子が「おまえは本当は白鳥なのだ」と言われたような感じ、といったらわかってもらえるだろうか。そういう話を今日の授業の最初でしたら、今日の出席カードの裏に、また別の学生が「私も先生の名前、素敵だと思います」と書いてきた。う~ん、本当か? 私をからかっているんじゃないのか? じゃあ、君は君の子どもに「たかじ」という名前をつけることができるのか? 授業の後、「メーヤウ」でインド風ポークカリーを食べながら、私はその出席カードを書いてきた学生(顔は知らない)に向かって心の中で問いかけるのだった。
  5限の卒論演習は4人の報告(いつもは3人なのだが、先週体調不良で報告できなかった学生がいたので)を時間を延長して7時まで行なった。今年の卒論演習の特徴は、みんなよく発言をすることである。一つの報告が終わると、まず私がコメントを述べ、「じゃあ、みんなの方から何かありますか」と水を向けるのだが、沈黙の時間が訪れることはめったになく、次から次に質問や意見が出る。思うに、これは幹事のM君のキャラクターによるところが大きい。たいていM君が先陣を切って発言するのだが、彼には鋭い質問をして頭のいいところを見せつけてやろうといったような野心というか下心がなく、思いついた質問や意見を健康なニワトリが卵を産むように何のためらいもなくポロリと口から出すのである。これが他の学生たちの発言を誘発するのである。私は彼らが勝手にディスカッションしているのを傍らで聞きながら、たまに交通整理みたいなことをすればいいだけなので、大変に楽である。来年度からスタートする文化構想学部のゼミもこうあってほしいものである。