11時から社会学の教室会議(大学院)があり、大学へ。昨日と同じく晴天で、昨日とは違って少々蒸し暑い。キャンパスの木々の緑が色濃くなりつつある。GWも終わり、これから夏休みまでは授業、授業、授業・・・の日々である。先月の何かの会議のとき、向かいに座っておられた英文学のバーダマン先生に、「毎月、第一週がGWだといいと思いませんか?」と冗談を言ったら、「う~ん、そこまでは思わないけどね」と真面目に返答されてしまった。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を感じましたね。不真面目ですみません。
昼食(「たかはし」の二重弁当)を食べながらの会議は2時間ほどで終了。GW中に作成した何通かの書類を事務所に提出し、明日の授業(大学院の演習と基礎演習)の準備。
帰途、飯田橋ギンレイホールで『再会の街で』を観た。昨年、ロードショーにかかっていたとき、新聞の映画評を読んでぜひ観たいと思っていた作品だった。主役は大学時代のルームメイトだった二人の男。一人は、歯科医として順調な人生を歩んでいるが、家族とのコミュニケーションがいまひとつうまくいっていない。もう一人は、「9.11」で妻と3人の娘と愛犬を失い(あの飛行機に乗っていたのだ)、抜け殻のようになって、社会とのつながりを絶って生きている(死んでいる、というべきか)。その二人がある晩、ニューヨークの街角で出会う。最初、歯科医のことを覚えていないと言っていた男は、しだいに歯科医に心を開くようになる。だが、話題が家族のことに及ぶと、それを激しく拒絶する。一方、歯科医の方も男にかかわるうちに自分自身の問題(職場や家庭)が露呈していく。家族の喪失と中年期の危機が互いに共鳴と衝突を繰り返しながら、物語はゆるやかではあるが、希望のみえる場所へ向かって展開していく。深刻な問題をテーマにしているが、シリアスになりすぎることは慎重に回避され、随所にユーモアがちりばめられ、後味のいい作品に仕上がっている。後味のいい作品・・・といま書いたが、実をいうと、一つだけ、家族の喪失を「9.11」と結びつける必要があったのかという疑問が小さな魚の骨のように喉にひっかかった。「9.11」でなくても、たとえば交通事故でも構わなかったのではないかと。男にとっては家族の喪失であることには変りあるまい。だが、観客にとっては、少なくともアメリカの観客にとっては、違うのであろう。男の悲しみを、他人事ではなく、自分たちの悲しみとして受け止めるためには、そうした仕掛けが必要(有効)だったのだろう。
昼食(「たかはし」の二重弁当)を食べながらの会議は2時間ほどで終了。GW中に作成した何通かの書類を事務所に提出し、明日の授業(大学院の演習と基礎演習)の準備。
帰途、飯田橋ギンレイホールで『再会の街で』を観た。昨年、ロードショーにかかっていたとき、新聞の映画評を読んでぜひ観たいと思っていた作品だった。主役は大学時代のルームメイトだった二人の男。一人は、歯科医として順調な人生を歩んでいるが、家族とのコミュニケーションがいまひとつうまくいっていない。もう一人は、「9.11」で妻と3人の娘と愛犬を失い(あの飛行機に乗っていたのだ)、抜け殻のようになって、社会とのつながりを絶って生きている(死んでいる、というべきか)。その二人がある晩、ニューヨークの街角で出会う。最初、歯科医のことを覚えていないと言っていた男は、しだいに歯科医に心を開くようになる。だが、話題が家族のことに及ぶと、それを激しく拒絶する。一方、歯科医の方も男にかかわるうちに自分自身の問題(職場や家庭)が露呈していく。家族の喪失と中年期の危機が互いに共鳴と衝突を繰り返しながら、物語はゆるやかではあるが、希望のみえる場所へ向かって展開していく。深刻な問題をテーマにしているが、シリアスになりすぎることは慎重に回避され、随所にユーモアがちりばめられ、後味のいい作品に仕上がっている。後味のいい作品・・・といま書いたが、実をいうと、一つだけ、家族の喪失を「9.11」と結びつける必要があったのかという疑問が小さな魚の骨のように喉にひっかかった。「9.11」でなくても、たとえば交通事故でも構わなかったのではないかと。男にとっては家族の喪失であることには変りあるまい。だが、観客にとっては、少なくともアメリカの観客にとっては、違うのであろう。男の悲しみを、他人事ではなく、自分たちの悲しみとして受け止めるためには、そうした仕掛けが必要(有効)だったのだろう。