8時半、起床。ハムトーストと紅茶の朝食。最もシンプルな朝食である。シンプルな朝食には訳があり、今日は昼食に鰻を食べることになっているので、お腹を空かしておくことにしたのである。
11時45分に「すず金」の前で現代人間論系の助手のAさんとS君と待ち合わせ、店内に入る。お昼の時間のちょっと前に入らないと混んでしまう。鰻重(上)、肝吸い、肝焼きを注文する。肝焼きは数が限定されているので、ちょっと早めに来ないと注文しそびれる。鰻重のタレの甘味と肝焼きの苦味のバランスが絶妙である。ビールをコップ一杯だけ飲みたい気分になる。せめて冷えた麦茶があったらと思う。本日、S君はAさんのアドバイスに従って朝食を抜いてきた。ところがそのAさんの朝食はビーフシチューだったという。もちろん昨日の夕食の残りなのであるが、他人へのアドバイスと自分行動のこの見事なまでの不一致には驚いた。
食後のコーヒーは「カフェ・ゴトー」で。私はブレンドコーヒー、Aさんはウィンナーコーヒー、そしてS君はパイナップルジュース。雑談の中で、私がやってみたくてまだ出来ずにいることの一つに「喫茶店でクリームソーダのお替りをする」というのがあるという話をした。コーヒーのお替りはできるのに、クリームソーダのお替りは(心理的に)しずらい。それと似た(?)ものとして、道をスキップで歩くというのがあるねと私が言うと、Aさんが、自分はそれは平気ですと言った。本当か? じゃあ、ひとつやってみせてもらおうじゃないか。はい、いいですよ、という話になり、キャンパスのスロープをスキップで上まであがってもらった。それは実に見事なスキップであった。大人がスキップをするのを私は久しぶりに見た。前がいつだか覚えていないくらい久しぶりのことだった。私とS君はスロープの下にいたので、スロープをスキップであがるAさんの表情を確認することはできなかったが、あの躍動感から判断して、間違いなく微笑みを浮かべていたはずである。スロープを下っていた男子学生がスキップであがってくるAさんとすれ違ったとき、見てはいけないものを見たようにあわてて顔をそらしたことからもそれは推測できた。
2時から教授会。終ったのは6時半近く。帰り道であゆみ書房に立ち寄り、以下の本を購入。
川西政明『新・日本文壇史』第一巻(岩波書店
丸山哲史『竹内好』(河出ブックス)
『新・日本文壇史』は伊藤整の『日本文壇史』のひそみにならった野心作で、全10巻の予定である。最初の巻は「漱石の死」というタイトルが付いてる。漱石の死は大正文学の始まりを象徴する出来事で、明治の文壇の話が中心だった『日本文壇史』から襷を引き継ぐにふさわしい話題である。漱石の臨終の一部始終が克明に描かれ、あたかも自分が夏目家の一人として、あるいは漱石の門弟の一人として、その場に居合わせているかのような感覚である。
漱石の葬儀は青山斎場でおこなわれた。受付を担当する門弟たちの中に芥川龍之介もいた。
「森鴎外が来た。ツバの広いソフトに、黒の二重回しを着ている。受付の人間を見回すと、帽子をとって、礼儀正しく一礼した。赤味をおびたつやつやした顔、つよい光を放つ鋭い目、かたく結んだ口元、広い額、いかにも豊な知性と創造力を感じさせる。
鴎外は大型の名刺を江口の前においた。「森林太郎」とあるだけで、ほかは何もない名刺であった。
江口は名刺を芥川の前に置き換えた。芥川の目が名刺と鴎外の顔とを見比べた。その瞬間、芥川の顔一面に鋭い緊張が走った。芥川は漱石を師に選んだが、彼の文学の本当の師は鴎外といってよかった。その鴎外と対面し、芥川の瞳は異常な光を放った。
受付の人間はみな丁重に鴎外に挨拶をかえした。鴎外の後ろ姿が遠ざかっていった時、芥川が思わず「あれが森さんかあ」と話した。「はじめて見た。いい顔をしてゐるな。じつにいい顔だな」と感嘆して呟いた。」(21-22頁)
明治文学の二大巨頭、夏目漱石と森鴎外。そして大正文学の寵児、芥川龍之介。三人の人生が交錯する一瞬をとらえた見事な文章である。臨場感というものは、たんに詳細な記述によって生まれるものではない。ディテールは重要だが、そのディテールを語る文章のリズム、文体によって臨場感は生まれるのである。