フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月26日(火) 晴れ

2010-01-27 02:22:09 | Weblog

  7時、起床。昨日は早寝をしたので、いつもより早く目が覚める。ジャガイモとワカメの味噌汁に卵を落としてグツグツ煮る。卵が半熟になったところでご飯にかけて食べる。これがうまいのだ。フィールドノートの更新。12時に歯科へ。親不知を抜いた痕のチェック。とくに問題なし。消毒をしてもらって、1週間後に抜糸の予約。昼食は「オレンチーノ」に食べに行く。味噌煮込みうどん(牡蠣を追加)とご飯。ご飯には自家製のフリカケをかけて食べる。南天堂書店(古本)で以下の本を購入。「シャノアール」で読む。

  笠智衆『大船日記』(芙蓉社)
  『モーリス・ベジャール自伝』(劇書房)

  笠智衆は小津安二郎の映画には、監督2作目の『若人の夢』(昭和3年)から遺作となった『秋刀魚の味』(昭和37年)まで、ほとんどすべての作品に出演している。最初の頃は通行人程度の役だったが、『一人息子』(昭和11年)で始めての大きな役をもらう。この作品は小津の最初のトーキー作品で、何回か授業の教材として使ったことがある。かなり画質が悪く、方言の多い台詞はいまの学生には外国語のように聞こえるらしいが、上京=成功の物語の破綻を母子関係の哀切を通して描いた傑作である。笠智衆が演じるのは信州の小学校の大久保先生(!)で、大志を抱いて小学校の先生を辞めて東京へ出て行くが、立身出世の夢破れて場末のとんかつ屋の主人になる。前半の凛々しい姿と後半のうらぶれた姿の対照がとても同じ人物とは思えない。当時、笠は32歳。しかし、このうらぶれた大久保先生役が好評を博したせいだろう、以後、「フケ役」は笠の定番になる。『東京物語』(昭和28年)で尾道から上京してくる老夫婦役をやったとき、笠はまだ49歳だった。いまの私より6つも若いのだ。しかし、どうみたってあの老夫婦は70代である。老夫婦の長男の町医者を演じた山村聡は当時43歳。笠とは6つしか違わないのだ。それでもちゃんと親子に見えた。笠の「フケ役」の凄さがわかるだろう。
  ところでさきほど書いたように『一人息子』は小津の最初のトーキー作品である。つまり笠はこのとき初めて台詞のある演技をしたのである。

  「サイレント映画のホンは、トーキーのものとはずいぶん様子が違っていました。一応、台詞は書いてあるのですが、それは画面に文字タイトルで出る。ですから俳優は、撮影の時、別に台詞を言わなくてもいいわけです。完成した映画では、俳優がしゃべり始めるとパッと画面が切り変わり、タイトルになる。それでも、気持ちを作るために、台詞に近いことを言うのですが、スターさんのなかには、「早くメシにしようぜ」などと、適当なことをしゃべっている人もいました。僕も、台詞を覚えたりはしませんでしたね。」(34頁)

  『一人息子』は小津の最初のトーキー作品であると同時に、松竹蒲田撮影所での最後の作品となった。蒲田撮影所は線路(東海道線)の側にあったために、同時録音のトーキーには不向きで(電車の音が入ってしまう)、『一人息子』の撮影は終電から始発の間の深夜に行われたのである。

  「サイレントからトーキーになる時、やめていった俳優さんも多かったようです。立ってるだけなら絵になるが、台詞をしゃべるとダメになる人もたくさんおりました。僕は、トーキーになって「しめた」と思ったくらいです。表現方法がひとつ増えたと考えたからです。けっして台詞が上手なわけではないのですが、動きだけより言葉が加わるほうが、少しでも多くのことを伝えられるのではないでしょうか。僕の場合、サイレントがもっと長く続いたら、逆に、消えていった俳優かもしれません。」(41頁)

  トーキーになって笠にも困ったことはあった。出身地の熊本訛りなかなか直らなかったことだ。しかし、小津は笠の訛りを注意しなかった。

  「きっと、僕の演技には注文することが多過ぎて、訛りにまで気がいかんかったのでしょう。それとも、訛りも僕の〝味〟だと考えてくださったのでしょうか。それに、小津作品の台詞には、独特の節があるので、僕が多少訛っていても、観ているお客さんには、あんまり気にならんかったと思います。」(43頁)

  小津は脚本も自分で手がけた。「独特の節」とは、「洗練されたぶっきらぼうさ」とでもいうようなもので、たぶん山田太一はそれを継承している。


笠智衆(りゅう・ちしゅう)1904-1993