8時、起床。
家を出る前に、卵焼き、春巻き、味噌汁、ご飯の朝食兼昼食。
野良猫のなつの体がモコモコしてきた。冬仕様だ。
書斎にいるとき、一時、激しい雨音がした。路上の楓の葉が雨に濡れて美しい。
3限は選択基礎演習。グループ報告2週目。今日は「マンガ喫茶=インターネットカフェ」と「ラーメン屋」のフィールド調査の報告。私はマンガ喫茶=インターネットカフェはまだ行ったことがなく、ラーメン屋(専門店)もめったに行かないので、どちらの報告も大変興味深く聴いた。テキストの講読+現場のフィールドワークで学生たち(全員1年生)が生き生きとしてきた感じだ。
4限は演習「ケーススタディの方法」。この演習は2年生は履修できない。4年生と3年生だけの演習だが、中心は3年生(40名中34名)。しかし、就活シーズンで欠席者が目立つ。発表者が準備したレジュメがもったいない。これなら2年生にも開放した方がよいような気もする。今日の報告(自伝分析)は「石原真理子」「宮本延春」「本田宗一郎」「Hyde」の4本。
授業を終えて、5時頃、大学を出る。
神楽坂で途中下車して、「トンボロ」に立ち寄る。6時閉店の「トンボロ」の本日最後の客。珈琲とトーストを注文し、日誌を書く。
隣の「SKIPA」から「スタンドバイミー」が聞こえてくる。「SKIPA」はおしゃべりカフェ、「トンボロ」は物思いカフェという棲み分けが私の中ではできている。今日は「トンボロ」の気分だ。
7時過ぎに帰宅。風呂を浴びてから夕食。本日はステーキ。
深夜、今日帰りがけにTSUTAYAで借りてきた『言の葉の庭』を観る(45分ほどの小品だ)。ゼミ4年生のOさんがゼミ論の中間報告で言及していた作品である。どんな作品か興味があったので、観てみたわけだが、美しい映像と繊細なストーリーの作品だった。観たことをメールでOさんに伝える。折り返しOさんからメールが届き、「ゼミ論で使ってもいいでしょうか?」と聞いてきたので、「食べたいものを食べる。読みたい本を読む。歩きたい道を歩く。会いたい人に会う。使いたい資料をゼミ論で使う」と返信する。
就寝前の読書は安住敦『俳句への招待』。「我流俳句作法」からの一節。
「俳句というものは忙しいからできない、暇だからできるというものではない。俳句を作るという心の用意さえととのっているならば、どのように忙しくてもできる。俳句を作るという心の用意がととのっていなければどのような暇があってもできない。暇をもて余しているような精神の弛緩した生活からは俳句は生まれない。俳句は忙しくてもできるというより、忙しいくらいでなければできないと言った方がいいかも知れない。生命力が燃焼していなければならない。
若い人にはないことだが、年配の方ではよく、ほかに何もやることがないから俳句でもやってみようか?といった動機で始めようとする人がいる。動機としてはそれでいいとしよう。しかし、いつまでもそういう了見では碌な俳句ができるはずはない。俳句を作るのは孫の守りをするのとは違う。
俳句は恋愛のようなものかも知れない。もちろん年齢には関係しない。若い人には若い人の激情があり、年配の方には年配の方の思慕があるだろう。恋愛が人をトリコにするように俳句も人をトリコにする。その俳句のトリコにならなければいい俳句はできない。俳句のトリコになるというのは、明けても暮れても俳句を考えていろということではない。作っていろというわけではない。仕事に追いまくられて俳句から遠ざかっているかのようなときでも、心の隅には俳句の虫が棲んでいなければならない。仕事のあとのひととき、ほっとわれにかえったときその俳句の虫がむくむくと頭をもたげて来るだろう。ときには仕事最中でも我武者らに頭をもたげてくることがあるだろう。」(88-89頁)