フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月25日(月) 晴れ

2006-09-26 02:07:37 | Weblog
  午後、お昼代わりに母の手作りのお萩を一つ口に入れて、久しぶりにジムへ行く。近頃の肩凝りの原因の一つが運動不足であることは間違い。去年も今年と同じく8月、9月は原稿書きの毎日だったが、肩凝りにならずにすんだのはせっせとジム通いをし、ジムに行かない日も原稿書きの合間にストレッチをしていたからだと思う。今年は8月半ばから持病の結石の症状が出始めたためジム通いを控えていたのだが、2週間前に石が出て、どうやらそれで今回は終息したようなので、今日からジム通いを再開することにしたのである。ジムに行く途中の蒲田駅東口の広場の上空を鳩の一群が旋回していた。

          
              鳩よ!(…という雑誌があったっけ)

          
                   ヒッチコックか!

  再開初日なので普段より軽めのトレーニング(筋トレ2セットとウォーキング45分=ドリア一皿分カロリーを消費)ですませ、4時半には上がる。その後、電車に乗って川崎のあおい書店に行き、編年体方式で編集された新版の『志賀直哉全集』全22巻の4巻から10巻までを購入。3巻まではすでに持っており、11巻以降は日記・書簡・年譜なので、学生時代に購入した『志賀直哉全集』全15巻と大差ない。昨日、購入しなかったのは持って帰るのが重いので大学が始まったら生協を通して注文すればよいと考えたからだが、岩波書店のホームページで調べたら第10巻が品切れで重版は未定と書いてあったので、ならばその第10巻を含めてあおい書店の棚に並んでいるものを購入することにしたのである。7冊で3万円ちょっと。普段から書籍の購入については金額をあまり気にしない私も、収入印紙が領収証に貼られるのを見ると(金額が3万円を越えると貼られる)、「買い込んだな」という感じがする。帰宅してから付録の月報をパラパラと見ていたら第6巻の月報の「編集室より」にこんなことが書いてあった。

  「読者カードを多数の方からお送り頂き、有難うございました。栞を付けてほしいとのご要望が強かったので、第五巻より栞を入れています。第八巻までは、第一~第四巻までの分を含めて二枚ずつ入れてあります。」

  へぇ~と思って調べてみると、確かに栞が入っている。ところが栞の枚数は確かに全部で10枚なのだが、一巻ごとに違っているはずの栞のデザインが、実際には、第1巻用のものが3枚もあり、その分、第9巻用と第10巻用の栞2枚が欠落していることに気がついた。まぁ、いいや、と納得しようかとも思ったが、せっかくのオリジナルの栞なので(志賀の描いたスケッチ画が使われている)、手に入るものなら手に入れたいと考え、岩波書店のホームページの「愛読者の声」というメール欄を使って問い合わせをしてみることにした。全巻完結からすでに5年が経過しているので、はたして栞のストックがあるかどうか…。固唾を飲んで(大袈裟か)返信を待ちたいと思う。

          
                 第1巻用の栞(自画像)

9月24日(日) 快晴

2006-09-25 00:51:57 | Weblog
  妻の実家の墓参りに行く。蒲田駅で義姉と待ち合わせ、横浜駅前のタクシー乗り場で義母と合流。三ッ沢墓地まではタクシーで10分ほど。市営の墓地なのでお寺さんではなく、墓地に隣接している石屋さんが実際の管理業務を行っている。お寺さんとの付き合いがないというのは、そのことを煩わしくなくていいと感じるか、味気ないと感じるかで評価が違ってくるだろう。私は保守的な人間なのだろう、墓に花を手向け手を合わせるだけでなく、その後で、お寺の縁側で茶を頂きながらご住職や奥様とお話をする時間というのは、墓参りという儀礼的行為の不可欠の一部であるように思う。死んだ人間と残された人間を介在するものがお寺さんではなく石屋さんというのはいかにもビジネスライクである。もちろんお寺さんも一種のビジネスではあるのだが、そこには長年の伝統に培われた社交の型というものが存在し、それが墓参りにはなくてはならないゆったりとした感覚、心の静けさを演出してくれるのである。

      
                   見渡す限りの墓石

  タクシーで横浜駅まで戻り、MORE’Sのレストランで昼食をとり、高島屋にショッピングに行く。ただしショッピングの分野の違う女性3人組とはここで別れ、私は6階の伊東屋に文房具を見にいった。あれこれ見て回って、楽しんで、来店の記念にと伊東屋オリジナルのボールペンと鉛筆を2本ずつ購入した。
  それから電車に乗ったが、川崎で途中下車し、ダイスに行って、1階のさくらや、4階のあおい書店、5階の東急ハンズを見て回る。さくらやでは何も買わなかったが、あおい書店で竹内真『図書館の水脈』(メディアファクトリー)を、東急ハンズでノート2冊を購入。あおい書店の素晴らしいところは、個人全集のコーナーがあることである。売り場面積が広いからこそできることだが、新書ブームの昨今、近現代日本文学の巨匠たちの重量感溢れる全集がずらっと並んでいる図は壮観である。

          
                  墓石に見えなくもない

  竹内真『図書館の水脈』は村上春樹の『海辺のカフカ』へのトリビュート小説と銘打たれている。主人公の45歳の独身の作家は20年以上も前から知らない街の図書館で暮らす話を書こう書こうと思っていて、しかし、なかなか書き出せずにいるところに、『海辺のカフカ』が出版され、15歳の少年が知らない街の図書館で暮らすというストーリーであることを知る。「こりゃ参ったな」と彼は思った。

  「走り始めた列車の中、私はその本に見入っていた。開いたページの一文に興奮と落胆を同時に味わっていた。
  落胆というより嫉妬と呼ぶべき感情だろうか。いつか愛を打ち明けようと思いつつ大事に友情を育んできた女性が、私よりずっと男っぷりのいい相手と結婚した時の気持に近いかもしれない。
    (中略)
  だけど今さら書いたとしても、人はそれを二番煎じと呼ぶだろう。たとえ私の話が空想でも剽窃でもなく、私自身の実体験だったとしても。
  人が何と言おうとも、書きたいものを書くべきだという考え方もある。しかし私の中には、たった数ページ読んだだけで怖じ気づいてしまった自分がいる。
  こうして手にしている本より力のある物語を書く自信など、私にはなかった。-物語を紡ぐのが仕事のくせに、ほかでもない自らの経験すら書くことができないのだ。それを思うと、自分の不甲斐なさにため息が出てくる。
    (中略)
  そんな風にして、私の旅は始まった。
  海でも眺めて酒でも飲んで、夜には帰るつもりだったというのに、そのままふらりと一人旅に出てしまったのだ。喜多見の駅前の本屋で買った、『海辺のカフカ』という物語に導かれるようにして。
  幸い、数少ない仕事の依頼は一通り片づけたところだった。私が日帰りで帰ろうが何日も帰らなかろうが、誰にも迷惑はかからない。
  45歳にして初めての家出のようなものだった。ほんの気まぐれではあったけれど、それは意外と長い旅となる。」

  こうして物語は始まる。そして物語にはもう一人の、いや一組の主人公がいる。ワタルとナズナという若い男女だ。彼等の恋の物語と作家の旅の物語は交互に語られる。そう、『図書館の水脈』は『海辺のカフカ』と同じく、2つの別々の物語(やがてそれはどこかで出会うのであろう)から構成されているのである。
  この小説のことは、去年の調査実習クラスの学生だった「おちゃけん」のブログで知った。彼はなかなかの読書家で(小説中心のようだが)、彼が面白いと言う小説は確かに面白い。8月11日のフィールドノートに感想を書いた海堂尊『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)も彼がブログで絶賛していたので読んでみる気になったのである。
  帰宅したのは妻よりも私の方が1時間ほど遅かった。妻はたんに買い物好きだが、私は散歩と買い物の両方が好きなのである。

9月23日(土) 晴れ

2006-09-24 02:01:16 | Weblog
  今日はお彼岸の中日。母と妻と3人で鶯谷の菩提寺に墓参り。川越の妹夫婦も合流。昼食を根岸の香味屋(下町の洋食屋として有名)で食べようと、開店時間(11:30)に合わせて行ったのだが、予約客でいっぱいだった。いつの間にかずいぶんと敷居の高い店になってしまった。しかたなく近所の商店街の蕎麦屋に入ったのだが、汁がいかにも下町風で濃くて辛い。妻は蕎麦湯で汁を薄めて天ぷら蕎麦を食べていた。食後の腹ごなしにみんなで鶯谷から上野まで歩く。上野公園はたくさんの人で賑わっていた。不忍池は一面の蓮の葉で覆われていた。大黒天堂の一角に曼珠沙華が咲いていた。「曼珠沙華ひとむら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしずかなる径」という木下利玄の歌を思い出す。蓮の写真を撮っていて一団から遅れた私を、妻が「孝治さ~ん!」と大きな声で呼んだ。その呼び方が可笑しかったらしく(昔の若いカップルのようであったからだろうか)、母と妹夫婦が大笑いしていた。アメ横の近くの喫茶店で一服して、上野駅から電車に乗って帰ってきた。浅草生まれの父が愛した場所をめぐる散歩であった。

          
                  上野公園の木漏れ日

      
                 一面の蓮の葉(不忍池)

          
                曼珠沙華ひとむら燃えて…

  蒲田に着いて、私は真っ直ぐ帰宅はせず、有隣堂に寄って池内紀編『素白先生の散歩』(みすず書房)を購入し、シャノアールで読む。岩本素白(本名は堅一)は、明治16年に東京は麻布に生まれ、明治37年、東京専門学校(早稲田大学の前身)を卒業し、麻布中学の教師を経て、大正11年、早稲田大学文学部教授となった。定年後は跡見学園短大で教鞭を執り、昭和36年に78歳で亡くなっている。同期生で歌人の窪田空穂は彼について、「教員という職は大体安定したものであるが、それにしても岩本君はその上での単純と純粋を窮めた人という感がある」と語った。生前の著作はわずかに三冊。論文集『日本文学の写実精神』と随筆集『山居俗情』『素白集』である。『山居俗情』の中の「街の灯」(昭和9年)の一節を引く。

  「山の手に比べると下町の夜は明るい。そうは言っても、ネオンの灯の海の銀座を横ぎって、あの、和風ではあるが白ちゃけた色合からしてが、形の変った大きな西洋菓子でも見るような歌舞伎座近くになると、街の明るさはにわかに減ずる。更に暗い水を渡って築地門跡前、よしその角の東京劇場はあいていようとも、そこを曲った築地二丁目一丁目あたりはもう暗いという感じさえ起こるほど、灯の少い静かな町である。そこから両国行きの電車路に沿って、人形町通りの明るい灯の街へ出るまでに、ところどころやや燈火の濃い場所はあっても、桜橋、西八丁堀、蠣殻町、今頃の夏のことにして見ると、濃い宵闇に火影の涼しさを覚える程、みんな静かな町続きである。
     (中略)
  月の無い夏の晩であった。散歩には出たものの、余りの蒸し暑さに水の畔りに出たいと思って、この橋の袂を東へ折れたことがあった。風といっては文字通り鬢(びん)の毛もそよがないのであるが、暗いながら川一杯の水に新富川岸の灯が映って、眼にだけは涼しい景色であった。この川沿いの静かな片側町の奥深い客商売の家の入口には、火影を涼しく見せるために敷石から板塀まで、ふんだんに水が打ってあった。同じ町並みに塩湯があって、そこから出て来たらしい三四人連れの女達が何か睦ましげに物語りながら、宵闇に白い浴衣を浮かせて通り過ぎたが、そのあとには覚束ない白粉の匂いが、重い夜気の中に仄かに漂っていた。それから、堀割について明石町の河岸に出て、暗い水を行く小舟の灯を見送ったり、川口に懸かっている帆前船の灯を眺めたりして家へ帰ったのであるが、中一日を隔ててあの大地震であった。勿論その一帯は焦土と化してしまったのであるが、考えて見れば、あの時ゆきずりに見た、夏の夜の入浴を楽しんでいたらしい町の人達も、果たして無事に彼の劫火を免れ得たかどうかは分らない。それから数多の年月が経って、その辺りもどうやら元の姿には帰った。然し改変のある度ごとに、景趣の減じていくのが都会である。この町の灯も今は以前の火影とは違ったものである。」

  文章の呼吸というのはこういうものだという見本のような文章である。それにしても当時の東京の地名はどれも美しい響きをもっていた。地名に「東・西・南・北」や「新」や「元」を付けて古い地名をお払い箱にしたことは本当に取り返しのつかない愚行であった。

9月22日(金) 曇り

2006-09-23 01:38:19 | Weblog
  ここ数日、右肩が凝っている。たまにこういうことがある。ずっと昔、まだワープロが普及する前、鉛筆やペンで字を書いていたときは、筆圧が強いせいだろう、始終右肩が凝っていた。キーボードで字を打つようになってからは、悪筆からも肩凝りからも解放されたが、それでもやはり長時間(終日)机に向かっていると、右手でマウスを操作するためか、左右の視力が不揃いな眼でディスプレイを眺めているためか、スキーで転倒して右肩を痛めた後遺症のためか、原稿が思ったように捗らないことから来るストレスのためか、単独の要因のためではなく諸々の要因の複雑な相互作用のためか、右肩から右の肩胛骨の辺りがひどく凝って辛いことがある。書斎には全自動マッサージ機が置いてあるが、まぁ、気休め程度の効き目しかない。徐々にほぐれるのを待つしかないか…。
  夕方、散歩に出る。有隣堂で日垣隆『知的ストレッチ入門』(大和書房)を購入し、カフェ・ド・クリエで1時間ほどかけて読み終える。肩が凝ってはいても本は読めるのである。日垣は『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)で新潮ドキュメント賞を受賞したジャーナリスト。そういうしっかりした仕事をしている人の仕事術を読むのは面白い。付箋の使い方、クリアチェストの使い方、ロング書棚やパーソナルコピー機や手帳についての蘊蓄も興味深かった。世の中には知的仕事術・生活術そのものを専門(?)にしている人もいるが、そういう人の書いたものは方法論的フェテシズムに陥っているようなところがあって、案外役に立たないのである。
  元早稲田大学総長(13代)で現白鴎大学学長の小山宙丸先生が亡くなられた。享年79歳。私は学生時代、小山先生のキリスト教概説(だったかな?)の講義を受けたことがある。大変温厚で、真摯な研究者といった雰囲気の方であった。1994年、私が放送大学から早稲田大学に移ってきたときの総長が小山先生だった。文学部から総長が出ることは大変珍しかった。当時の中央図書館(現在の高田早苗記念研究図書館)1階の広間で、総長から新任教員一人一人に辞令(?)が手渡され、全員で記念写真を撮ったのだが、小山先生は私の顔を覚えていて下さったようで、そのことが嬉しく、また晴れがましい思いがした。いま、抽出の中を探しても、そのときの辞令も記念写真も出てこない。たかだか12年前のことなのに、とても遠い昔のような気がする。合掌。

              
                  小山宙丸先生

9月21日(木) 曇り

2006-09-22 00:25:19 | Weblog
  会議漬けの一日だった。午前10時から最初の会議が始まって、最後の会議が終わったのが午後7時半。ほとんどノンストップの9時間半であった。唯一の空き時間は、二つ目の会議が午後1時45分に終わり、三つ目の会議が始まる午後2時までの間の15分。この時間にメーヤウへ駆け込んで昼食。本日のタイムサービス(午後2時から5時の間)の対象がタイ風レッドカリーで、午後2時まで待てば(わずか10分)750円のところが600円になるのだが、それでは三つ目の会議の開始に間に合わない。アホらしいと思いつつも、好物のタイ風レッドカリーを注文し、750円を支払う。今夜のわが家の夕食は餃子であることが予告されていたので、帰宅は少々遅くなるが夕食は家で食べるから私の分をちゃんと残しておいてくれと、会議の途中で妻に電話で伝える。8時半過ぎに帰宅。腹ぺこだったので、風呂は後回しにして、即食事。餃子14個を平らげる。ああ、美味しかった。

          
          一汁一菜 餃子のときは餃子だけあればいい

  2000年3月に社会学専修を卒業したSさんから「お久しぶりです」という件名のメールが届いた。11月に結婚式をあげることになったのですが、出席していただけますかというメールだった。もちろん喜んで、と返事を出す。Sさんは自分のことを私が憶えているか不安に思っているようなので、とんでもない、あなたは私の中では「眼鏡がお洒落な女子学生」歴代ベスト5に入っていますと書き添える。これ、ホントである。