King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

2度目の谷中散策

2007年12月05日 23時57分28秒 | 日々のこと
上野に来たので、やはりこのまま歩いて都内を散策しようと
またまた谷中に向かいます。
前回は、昭和感覚のレトロな町を堪能しましたが、今回は
行き損ねた有名喫茶店などを訪れようと思います。そのひとつが
乱歩゜です。

谷中墓地を抜けていくと、徳川慶喜の墓があるというので、まずは
それを見て行きます。そして感じたのは、この墓地が広くて今まで
排気ガス臭い空気を吸っていたのが、ここはわが町と同じような
きれいな空気で、植えられた植栽もよく伸びています。自分の家の
お墓のあるお寺の墓地みたいなところもあり、地元にいるのかと錯覚
するような地域でした。そこを突っ切りレトロな街に向かいますが、
今回は急遽の訪問なので前回の様に地図もなく、どこに何を見に行くと
事前に決めてもいません。

ただ、乱歩゜は行かねばなるまいとずっと思っていたので、そこは目指そうと
歩きました。墓地の中からでも、日暮里の駅前のタワーマシンョンが見えるので
方角を誤ることはありません。ただ猫をテーマに猫関係のお店に行くには
事前に情報を集めて計画的に歩かないと猫さんとの出会いもなかなか
難しいかもしれません。

私の場合、感性に任せて臭いに引かれるように面白そうなところを
うろうろして行きます。まず見つけた愛玉子という変わったお店。
お昼もとっくに過ぎていたので何か軽食をとりたいとお店を探しましたが、
そば屋や中華料理屋が見つかったものの、ここまで来てこんな店かいと
いう感じだったので、パスしてお寺が多くなったとおりにいきなり不思議な店
発見です。これは入るしかない。

看板にもオーギョーチーとフリガナがありましたが、主力商品もこのオーギョーチー
で、台湾産の果物らしいですが、何年か前に流行った台湾発スウィーツの元祖
みたいな物です。早速それを注文しましたが、味とか見てくれとかなんかより、
昭和の頃のものがそのままいまだにそのままあるという感動が全てであり、
まあそれ以下でもないし、それ以上にどうこうだということもありません。椅子も
壁にかけられた絵の数々とこれは生きている博物館のようなもので、一度は
経験としておくべきでしょう。

そして、そこからはほぼ直線に坂を下るだけで、乱歩゜に行けました。
私が予想した店内よりさらにごっちゃに古くて汚い店内でした。
ところかまわず張られている店主のメッセージや短歌やら海外の
置物やらこんなのが好かれるのかなと思いつつ、これなら家の方にある
喫茶店でも似た空気のところがいくつかあるしと思いつつ、さらに観察
すると、ドアの貼り紙には16日に臨時休業の告知と2時間ドラマの撮影
に使用される旨が書かれています。

喫茶店ということで撮るなら他にもありそうで、セットで作るほうが簡単な
気がしましたが、空気を求める人がいるのでしょう。他の客は、なんかやたら
語り合っている団体とうわさを聞きつけてきたような客がいました。こちらは
きょろきょろ観光客気分丸出しで観察を繰り返すのみ。でも接客業を
営む以上、店主の愚痴みたいなメッセージは自ら敗北を認めたような
惨めなイメージを与えます。私も観光客を相手にしてきたので、似たような
話しはよく聞きますし、有名になったが故の店主のおごりのような客を選ぶ
ような態度も見たり聞いたりして来ています。そんな店になってしまうのは
本当に悲しいと思います。

乱歩という全国からサスペンスファンが集うというイメージからはちょっと
違う店内の猥雑感とこれまたミスマッチなジャズのバックグラウンドミュージック。
ココアとアップルティーが有名だといいますが、私は喫茶店では珈琲が主力
商品であり、それで勝負できないと話になりません。珈琲をまず注文します。
それにまだ空腹だったので、トーストとチーズケーキを頼みます。どちらも
おいしかったものの、空気としては地元で珈琲を飲んでいるような感じでした。

珈琲はかなりおいしく感じたものの、ここじゃなきゃというものも少なく、
先の愛玉子と同じで谷中で体験すべきものをとりあえずクリアしたという
感じです。それから、商店街などを抜け夕やけだんだんに向かいます。
谷中珈琲を前回買えなかったので今回は買って帰ろうとしましたが、
あいにく豆を大量に買い込んだ後だったのでこれは次回にしました。
ここは安いし、店頭でも安く飲めるのでまたチャレンジします。さて、
そのすぐとなりくらいに前回も寄ったマミーズがあります。ここのアップルパイ
はぜひとも買って帰らなければなりません。

それから、商店街から駅に行く前回と同じコースです。夕やけだんだんでは
マンション工事があり、猫は見かけられません。今回目に付いたのは猫
より、猫が増えて困っています。というどこにでもある看板です。猫にえさを
やるなという看板を何箇所かで見て、猫で有名になった町でも、猫に
悪感情を抱く人はいるんだなと思わせます。しかし、実際どこでものら猫に
えさを与える人は沢山いるんですね。同じく虐待する人もいるし、人の
心を汲めない人や他人を思いやる心をなくした人が最近は増えているので
そんなトラブルは増えているのでしょう。

前回来たときより、観光化され商店街にもテレビに登場した写真が増えて
俗化した感じを受けました。ただ町が古ければいいんじゃなく人の心も昔の
ままで温かく、人々を受け入れてくれるそんな町であり続けてくれる事を
今回は強く感じました。まだまだ2回目でも全然飽きない行き足りない
そんなところです。
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フィラデルフィヤ美術館展訪

2007年12月05日 23時25分11秒 | 日々のこと
年末お歳暮の買い物のついでに、上野で開催されている
フィラデルフィヤ美術館展へ行って来ました。
ダイレクトメールによる案内で是非行こうと思っていたもので
時間がとれずに先延ばしにしていたらついに12月になって
しまったという感じです。フェルメールの日本初公開の牛乳を
注ぐ女が同時期では人気の展覧会ですが、内容では
こちらを見るべきでしょう。

前回の新美術館の長蛇の列と年寄りパワーには圧倒されましたが、
最近日本はどこに行っても年寄り集団があふれています。もう
国民の2/3は老人という国になったのですから次に来るのは、人口減
社会だといえます。だからもうバブルの頃のように金がうなるような
こともないのでしょう。スリム化効率化がこれからの日本のテーマで
しょう。

さて、池袋で買い物を済ませ、上野に向かいます。池袋では、つい上を
見上げ人が落ちてきたのかと思いましたが、以前より変な人物は減っている
と感じます。私の詩集を買ってくださいという人もいなくなりましたし、
駅内ホームレスもいなくなりました。上野の公園も青テントとホームレスも
非常に少なくなっていてかつていた中東系の売人風の人たちもいません。
笛を吹いている街頭パフォーマーがいましたが誰も聞いていないというのが
まだ十分紅葉しきっていない街路樹とマッチしていました。
公園内に目に付いたのは、カメラマンで何をとろうとしているのか三脚をたてて
老人が何かを待っている姿が見られました。

今日の目的地は、いつもの地獄門のある美術館でなく丸い球体のある
東京都美術館です。最近は、有楽町や銀座などの再開発地ばかりが
取り上げられていますが、この歴史的建築物や博物館や美術館の林立
する上野のよさも目を見張るものがあります。以前はそれこそ、ホームレスの
溜まり場としてクローズアップされしまたが、そんないかがわしさより歴史を
封じ込めたような各建物群を見て歩くだけで色々感じさせるものがあります。

券を前もって買ってあったので内部に入ると、やはり券を求めるお年寄りの
列が我々の行く手をさえぎります。年寄りに券を売るのも一苦労のようです。
年齢を証明できるものを見せてくれと係りの人が何度も言っているのにハア
という返事のようで、最後にあきらめて今度から持ってきてくださいという声が
聞かれました。見れば白髪で背の曲った老人です。そんなの証明を出せと
言う方が野暮だぜと思いつつ、奥の入り口にたどり着きます。

これから、モジリアーニやピカソ、ルノアールのあの名画の前にいるのかという
本物を見る興奮を何度も味わいます。本物とパンフレットなどの図版と何が
違うかというと色がまず違うということと、本物は光を発しているのではと思うほど
絵から発するものを感じることです。最近はカメラはデジタルになり、印刷技術も
デジタル化が進み、そのせいで図版の解像度は落ちているのです。ですから
本物と印刷物の差はより大きくなっています。やはり絵にしろ映画にしろ
本物を見ないことには味わいも感動も得られません。

前回の六本木の美術館ほど混んではいませんでしたが、絵の前は渋滞で
その原因は、絵を見るというより解説を読んでいるからで、絵を眺める時間より
それを読んでいる時間の方が長い人達が多いからです。そのうえ音声案内で
解説を聞いている人も多く、絵なんかろくに見ていないくせに、混むのです。
地方の美術館では絵を眺める椅子まであるのですが、さすがに都内の美術展
ではそれはなく、ずっと立っている時間が続きます。それも絵の前で立っている
人より、解説を読むところでつっかえているのですからどうしようもありません。

そのお陰で絵の正面で過ごす時間が長く取れるからいいのですが、絵の大きさに
関係なく近づいて見すぎの人もまた迷惑です。今回ゴッホの絵は一枚だけだった
のですが、不人気で人があまりたまっていなかったのはおもしろい現象です。
日本人はゴッホ好きですが、評判がよくないと駄作だとでも思っているのか
人のコメントや前評判に大きく影響されます。今回の展覧会では、オキーフの絵や
カンディンスキーやアンドリューワイエスもあったのです。それらはまるっきりノーマーク
状態です。

一番の呼び声が高かったのは、やはりルノワールの浴婦でしょう。こちらも、
日本初公開ということで、話題になりました。私はこの絵の前に立ちなるほど
とつぶやいてしまいました。この浴婦の肌の色にその言葉は出てしまいました。
その色を見ていると絵に吸い込まれるかのようなイメージにとらわれます。
そして感じるエタニティー。至福がいつまでも続くかなのような満足感に
浸れます。彼が表現したかった自己表現とはこの境地だったのではと感じます。
それはオキーフのピンク地の上の2本のカラ・リリーにも感じます。作者が
性的なイメージをモチーフにしたことはない、と断言していたといいますが、
それは見る人の波長と絵から発する波長の到達点がたまたま性的なもの
であったに過ぎず、絵に何を感じるかも絵に何を織り込むかもまったく自由で
一番優先させたい願いが性的なものならそうなっても仕方のないことです。

キリコの絵にも同様に、時間と空間とその融合点を感じます。画家が閉じ
込めようとした2次元空間に表現できる限界と昇華は今でも続いています。
絵は70年も80年も前のものでも、そこに込められたエタニティーは2007年の
21世紀でもまるで色あせません。今でも、究極の芸術を感じ肌に吸い
込まれるかのような感動を味あわせてくれるのです。それをこれだけ集めた
アメリカの実力を感じて美術館を後にしました。
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