今朝の珈琲の味も実に秀逸であり、朝にブラジルの一杯の至福は
当分続くものと思います。この至福の中に危うい色どりはないのかと
いえばどうしても先日の法事で聞いた住職の法話と先日行われた天皇による
亀卜という行事に同じような彩を見る思いがしました。
昨日のランニングではその前の日がミューズパークの二往復で、少し軽めにして
おこうかとかかしの先の信号まで行って帰ってくるだけというごく軽いものにしました。
秋葉神社の先のお菓子屋さんのハンカチの木はもう花はなく、その代わりに押堀橋の
アカシアは満開でそれは心地よい匂いを出していました。キヤノンのつつじは盛りを過ぎ
香りはやや控えめになっていてあの花園をかけ抜けるような心地よさとは違うものと
なっていました。これらがすべて朝の珈琲の至福につながっているのですが、反面それを
脅かすような事象も浮かびただ喜びことほぐとはいかないのが今朝の空模様と同じです。
簡単にその危うい感じを説明しておくと法事の時の話は次はお盆という行事があり、それは
何を表しているかという事から施餓鬼の話になり、釈迦の十大弟子のひとり目連が神通力により
亡き母が息災か見てみると餓鬼道で苦しんでいるのが見て取れ、釈迦に相談するとあらゆる人に
施しなるべく多くの人に食事を与えよという答えでそれを受け施すことで母を救うことができた
ということでこの施餓鬼というものができたという事でした。
さらに天皇は大嘗祭に使うコメをどの田んぼで採るかを決めるため亀卜という占いをして栃木と
京都が選ばれたという事でした。天皇が行事をするたび憲法違反という訴訟が起きされてきましたが、
判例として天皇は刑法も民事も訴訟主体とならないという事は確立しており、天皇が被告の訴状は
却下されます。政教分離となり祭祀は全て天皇家の行事として国家行事や祭祀とは違うとされていますが、
そもそも絶滅危惧種のアオウミガメの甲羅を使用して行う意義とかそれを許す法制上の意義とか色々な
矛盾に突き当たるのです。
同様に私たちも多くの宗教的行事や葬儀などの科学とは埒外の事に金と時間を費やしそれが科学的に
何ら意味をなさないことや宗教家の事を真に受けてもいないくせにその法話に耳を傾け、故人の安寧の
ために一緒の時間を過ごすのです。
法話に出てくるのは神通力とか餓鬼道に落ちた母という普通の人には見えないことであり、そのために
今でも毎年時期にはそれにそった行事をしてその意図を汲むようなことをするわけですが、そもそも
その弟子の話のどのあたりまで話そのままで受け取っているのかというのが今回実に気にかかったのです。
つまり、趣旨として欲望を批判されそれを捨てる修行として施餓鬼というもので表していると
意訳して理解しているのか、それとも神通力という存在まで仏教としては肯定していて高弟なり
ありがたいお坊さんになると今でもその存在は認められるのかとかそんな常人では見えないこと
で悩んでそれがお釈迦に相談という話でしたが、年代的にはすでに亡くなっている存在としての
宗教的存在への問いであり、生前呪を唱えよとか何々の教を上げよというはずはなく、いずれも
言い伝えであり,後日談に過ぎないのです。施餓鬼の話では目連の話の外、多門の餓鬼が現れて
三日後にお前は死んで餓鬼道に落ちるが免れたかったら自分や餓鬼やあらゆる困苦の衆上に施し
三宝に供養すれば寿命が延び免れるだろうといわれ釈迦に相談すると『加持飲食陀羅尼』を唱えれば
無量の食べ物になり餓鬼の空腹は満たされ、寿命を延ばすことができたというのもあります。
こういうものは後日仏陀の教えとは別に作り出された話であろうことは想像できます。ただし、
気になるのは今の仏教界でもそんな教は現存しており、それを唱えて加持すれば本当に無量の
食べ物になるのかとか現実性との整合がどこまであるのかという事です。今の人はまったくの
精神性からこの話を聞き、理解して今生の欲を戒めて施しを良しとして後は先祖供養の重要せいだけを
聞き入れているのか。この二面性を常に考えるのです。今でも別に信じてもないくせになにかと
寺やら神社やらに出向きパワースポットだからとありがたがったり、天皇の行事に何の実効性も
感じないけれど希少な生物の犠牲をともなってもそれを行う価値があるのかとか誰も問おうと
しませんが、実際いかばかりの意義が両者にあるでしょう。
ここで出てくるのが大人の判断という態度です。何も宗教や呪術的な効果はなくても先祖を供養し
亡き人の供養に寄り添う人の心に即するという考えです。気持ちを理解してお話や由来はそんな
こともあったんだねえ程度に聞いて置くという事です。ただ、天皇の場合亀の甲羅を今も使うというのは
科学的にも現代的にも整合性がないのでわざわざそんなことを復活させる意味は甚だ怪しいといわざるを
えません。もともと祭祀はその年や年代によりやったりやんなかったりというものであり、伊勢神宮の遷宮も
応仁の乱で途絶えて以来、時の権力織田信長が復活させたりとその時の権力の力の象徴で儀式を復活させてその
恩恵にあずかるという経緯を考えれば亀の甲羅に罅にどれだけの意味があるのかと思わずにいられません。
現代的統計で今年の産地を決めてよいはずです。秋篠宮殿下がこわしてしまうものに巨額の税金をかける
べきでないというお言葉にも真実がこもります。憲法に定められた国家行事なのだからという意見がありますが、
それならば嫡出子で男子の世襲という定めも幻の象徴となる可能性もあり、法の定めというのがたいした意味も
なさないことを今後知ることになるのではないでしょうか。