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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【読書ノート】『カウンターセックス宣言』ポール・B・プレシアド

2023-02-15 00:27:28 | 書評

 私は、フェミニズムやジェンダー、セクシュアリティについてきちんと学んだことがない。小説やドラマ、映画などを通じて感覚的に身につけてきた不確かなものしかもちあわせていない。
 ただし、1960年前後、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」を読んで、その逆、「人は男に生まれるのではなく、男になるのだ」もまた真かなと思ったことはある。

 だいたい、私は男らしさに欠けていると思っていたし、それを希求したこともない。ただし、性意識としては自分を男性だと思ってきたし、性的志向も異性愛的である。
 家父長制意識は希薄だと思ってきたが、希薄であろうが濃厚であろうが、部分的な逸脱はあれ、家族制度のうちで暮らしてきたことは間違いない。

           

 この書を手にしたのは、図書館の新着コーナーでけっこう特異な表紙を見かけたのと、「カウンターセックス宣言」に署名したというジャック・ハルバースタムの「前書き」冒頭に、
「 ポール・プレシアドのカウンターセックス契約に署名するとき、あなたは自然な男/女としての地位を放棄することに同意し、〈自然化された異性愛大勢の枠内で〉あなたに与えられるかもしれないすべての特権を放棄する」
 とあり、また著者自身の序論では、
「異性愛ー資本主義ー植民地主義という三つの近代的物語、すなわち、マルクス主義、精神分析、ダーウィン主義」を崩壊させるという精神のマニフェスト」
 と、刺激的な文章が並んでいたからである。

 またこの著者が、デリダ、フーコー、ドゥルースなどのいわゆる現代思想(前世紀後半のであるが)を経由しての論客であることから、それをどう適応しているかの興味、さらには、セックスにおいての補綴、義体であるディルド(いわゆる「大人のおもちゃ」として扱われてきたモノたち)に特権的な位置づけをしていることにも興味をそそられた。

 著者自身の経歴も気にかかる。1970年、スペインでベアトリスという女性として誕生するも性的違和を覚えるトランスとして育ち、2015年にはベアトリスからポールに名前を変え、16年には戸籍上の性も男性に変更したという。ラディカル・フェミニストからノンバイナリー(アンチ二項対立)なトランスジェンダーへという経歴らしい。

 このトランスジェンダーは、 単なる性同一「障害?」を超えて、中性、無性などなどあらゆるセクシュアリティやその自意識を含んだ多様なものを指し示し、 しかもそれらを、男性/女性という二項対立の間にあるマイノリティとするのではなく、全く同等なそれ自体の存在とすることにより、これまでの性的マイノリティの運動自体に内在していた男/女の性的二項対立そのものを止揚しようとする。
 要するに、ゲイやレズというマイノリティとされる内にもあった、男性/女性の役割分担などに残る二項対立(それらは結局の所、男根中心主義的家父長制支配に還元される)を拒否することによるセクシュアリティにおけるコミュニズムを目指す。

 これはまた、男性器、女性器による、ないしはそれに限定される快感の生産に対し、それらの補綴、義体とされたディルドの普及を推奨する。それは、男女の二元化されたセクシャリティを超えたあらゆる性的身体に共用されるものであり、その観点からすれば、むしろ男根自体が社会的通念によって工作されたディルド機能の代補であるに過ぎない。

 この論理は、性的営みを男/女の結合にある生殖行為を本来とし、それを自然なものとして特権化することに反対する。むしろ、この生殖のための性的行為の特権化こそ、多様であるべきセクシアリティを奇形であるとして抑圧し、排除する男根中心主義的家父長制、それに依拠した国家の実体だとする。

      

 ここに至ってプレシアドの理論は、性的マイノリティの権利の主張という消極的なものから、広く普遍的なセクシャリティのありようを媒介とした、コンミューン的展望という積極的な地平を見渡すこととなる。
 そのとき、ディルドは男/女の二元論に依拠した「自然的性行為」という正当化工作を乗り越え、性的権力を自分たちの手に取り戻すために連帯する新たな性のためのプロレタリアートを目指す特権的な用具として機能する。

 プレシアドは性におけるトランス化を目指すと同時に、世界のトランス化を目指す性的プロレタリアートを登場させる。彼ら/彼女らが世界を変え、世界をトランス化させるのに、巨大な権力闘争や革命的転覆は必要ない。必要なのは、今ここにある小さなディルドの潜在力をラディカルに肯定し、拡大することだとする。

 以上がすごく大雑把だが、私が読み取った限りでのこの書の概要である。
 残念ながら、それについての評価を記すことは出来ない。冒頭に述べたように、フェミニズムやジェンダー論、セクシュアリティに関する問題にもともと暗いからである。
 しかし、プレシアドの理論はじゅうぶん刺激的であった。彼女が集中的に攻撃する男/女二元論、それに依拠した現今の異性愛的男根中心主義的家父長制的ありようが性的マイノリティは無論、あらゆるセクシュアリティに及ぼしている抑圧的体制をなしていることは確かだろうと思う。

 問題はそれへの闘いの武器としてディルドを特権化することであるが、それへの判断は保留するしかない。この立場は、かつて精神分析を勉強した際、その異端とされたヴィルヘルム・ライヒ*を思わせるのだが、はからずも訳者あとがきにその名が出てきたのには驚いた。

 なお、岸田は国会答弁のなかで、「同性婚を認めると社会が変わる」と答弁したが、これは正しい。まさにいま、社会は変わろうとしているだ。
 その変化の一つの最先端が、この書で提示されている。

ヴィルヘルム・ライヒは、晩年、生命体(organism)とオーガズム(orgasm)を組み合わせた効能を持つという「オルゴンボックス」なるものを普及させようとした。

   『カウンターセックス宣言』
      ポール・B・プレシアド 藤本一勇:訳 法政大学出版

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沈黙のなかでこそ耐えられる哀しみ 小説『アイダホ』を読む

2023-01-20 02:44:54 | 書評

 注意深く読み進めないと、作者が(そして登場人物が)慎重に隠しおおせようとした真相がみえてこない。この小説についての他の人たちの感想を参照してみたが、そこを読み取った上でのものは意外と少ないようだ。
 にもかかわらず、肯定的な評価が多いのは、そうした「真相」にたどり着けないまでも、そこに描かれた状況の美しさ、趣の深さ、表現の鋭さ、などなどがそれ自体で読ませる豊かさをもっているからだろう。

       

 350ページの長編で、登場人物もまあまあの数だが、物語は二人の女性が交互に登場する基本構造でもって進む。
 その一人は、アイダホ北部の山地で、夫との間に二人の娘をもっていたのだが、下の娘を斧の一撃で殺害した「として」逮捕され(その際、長女はその場から逃がれ、行方不明になっている)、裁判にかけられたのだが、いっさいの自己弁護をすることなく、ひたすら有罪を認めて服役を望み、実際に服役中の女性である。だから、彼女の登場するシーンはこの刑務所の中と、そこでの回想シーンが主となる。

 もう一人は、その犯人とされた女性の夫(事件後離婚)が再婚した女性で、その事件が起こった山中で暮らし、その場所を肌で感じながら、夫の記憶の中からその事件の真相を紡ぎ出そうとする。
 
 ようするに、一人はその事件の真相を過去に葬り、ひたすら自分の罪として引き受けようとするのに対し、もうひとりはその事実を突き止めようとしているわけだ。

 となれば夫たる男性がその鍵を握っているのだが、彼は遺伝的な若年性認知症と事件の衝撃とで、すっかり記憶を失い、自分が過去、誰かと結婚をしていた事実も、二人の女の子の父であったことも記憶してはいない。

 しかし、彼の後妻となった女性は、いろいろな事象を組み合わせるなかで、どうやら事件の真相にたどり着いたようなのだ。

 この夫も亡くなり、事件から30年後、二人の女性は出会うことになる。というか、真相を推察した女性が、出所した女性を心からのいたわりを込め、そしてその後の生活をも保証するように万端の準備をして出迎えるのだ。
 それはまさに感動的なのだが、その前に、この事件の真相にたどり着いていなければその感動はかなり薄いものに終わるであろう。

 二人の、さほど饒舌ではないラストのシーンは、二人が「それを」語らないままに、しかも「それを」共有しているという思いが込められていて、そのこと自体が感動的である。

 しかし、何度もいうようだが、その感動の内容は事件の真相を知った、ないしは推測したものにより深く許されたものである。

 はじめに書いたように、事件の真相はよほど注意深く読み進めないとわからないだろう。筆者は決して明示的にそれを書いてはいないのだから。
 ただ、ヒントとしては、思わぬ怪我で片足を失うエリオットという少年、思春期に差し掛かった姉と妹とのちょっと屈折した関係、その辺にあることは書いておこう。

 この小説の魅力は、明示的に書かれないこと、登場人物も饒舌に語らないこと、そうでありながら読者に静かな推理や連想をうながし、そこへ到達したものを深い感動へと導くところにある。

 作者はアイダホ北部で育ったエミリー・ラスコヴィッチで、この小説は彼女の最初の長編小説だという。そして2019年、英語で刊行された小説を対象とした最大級の国際文学賞、国際ダブリン文学賞を受賞している。

 なお、書名の『アイダホ』が示すように、そこに登場する人物なども含めて、なんとなく土地の匂いが満ちているようで、それは作者自身が育った土地の反映でもあるようだ。

 
 『アイダホ』 エミリー・ラスコヴィッチ  訳:小竹由美子  白水社

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小説『キリンの首』を読む (付)私と生物学

2022-12-15 15:52:19 | 書評

 『キリンの首』 ユーディット・シャランスキー 
     細井直子:訳  河出書房新社

 邦訳のタイトルでは省略されているが、原書ではその書名に「Bildungsroman」というサブタイトルがついている。その意味は、著者がドイツ人の女性であることから、ドイツ文学伝統の「教養小説」とも受け止められるが、訳者解説によればこの言葉は「進化小説」とも読み取れるということなので、そのほうが適切かとも思われる。

              

 なぜなら、この小説の主人公、インゲ・ローマルクはギムナジウムで生物学を教えるベテランの女性教師であり、その世界観や人生観、そして教育方針も自然科学の法則によって貫かれているからである。
 ようするに、この教師は、自分が教える生物学とほとんど同一の価値観でもって生活し、かつ、教えているのである。そこには、生徒個々人への情をもった私的介入の余地はほとんど見いだせない。そればかりか、家族や職場の同僚に対してもそうなのである。ダーウィン流の適者生存こそが彼女の論理であり倫理なのだ。

 そうした彼女の姿勢が、現実とゴツゴツした関係の中で展開されてゆく。大半の場面がギムナジウムの教育現場でのそれだが、そこでの彼女の揺るがぬ姿勢と周辺との関係、そこに差し込まれる彼女の独白との奇妙な関係は、思わずクスッと笑いを誘ったり、あるいは先行きへの不安を感じさせたりする。
 その文体もまた、そっけないほど凛としたもので、乾いた情況を際立たせている。

           
            ユーディット・シャランスキー

 淡々と進む叙述に反し、一転して彼女が危機に立たされるのも、彼女のそうした姿勢ゆえである。それが終盤、集約された形で噴出する。
 それはまさに、キリンの首はなぜあんなに長くなったのかを説く進化の過程の授業の中で現れる。しかし、彼女は、授業が中断され、その危機を告げられた後もまた、そのキリンの首の講義を淡々と語り続ける。

 そこでは、今や不仲というか音信すらあまりないわが娘、クラウディアがかつては彼女の生徒であった頃の過去の出来事が明らかになり、彼女の陥っている現実の危機の姿が二重に浮き彫りにされ、明らかになる。
 キリンは進化の過程で、首を長くしたために他の生物には届かない食物を得たのだが、今やその首のギリギリのところまで水が迫ってきているようなものだ。

 こうした彼女に対する批判はある意味で容易である。しかし、本当に彼女を責めることができるのか。「適者生存」は、弱者を生み出しながらそれへの対応を自己責任による自助として突き放す現実のなかではまさにリアルではないのか。
 彼女についての最終の評価は、それぞれの読み手に託される。

 この小説のバックグランドとしてもうひとつ述べておく必要がある。それは、この小説の舞台がドイツ東部で、これが書かれた2011年の約20年前まではいわゆる「東独」としてソ連を始めとする東側陣営にあったということである。そしてまた、著者のシャランスキーも東独出身で、ベルリンの壁崩壊は9歳の折であったという。
 その影響が、みてとれる部分がしばしばある。生物学に関していえば、レーニン時代から評価されてきたミチューリン農法、さらにはスターリン時代に評価されたルイセンコ学説などの存在がそれである。

         
     パブロフ(左)にマルクス主義的ではないと噛み付いたルイセンコ(右)

 それらはソ連時代の集団農場などで生産性を上げるために動員されたものだが、西欧のメンデル遺伝学やダーウィンの進化論の流れとは別の方法を精密な検証なしに採用したため、生産性の向上どころか、農業に壊滅的な打撃を与え、何百万単位の餓死者を出したと指摘する向きもある。
 例えばルイセンコ学説は、ダーウィンなどが否定した「後天的な獲得形質の遺伝」をあえて肯定し、生物を変革できるとした。シベリアなど寒冷地でも小麦が生産できるよう、その種を予め冷凍保存して置いてから撒くなどがその実践で、公式の「成功」の報告とは真逆で、惨憺たる結果に終わっていたのが実情だという。まさにスターリン的行政の一つの結果がそこにある。
 この小説の主人公、インゲ・ローマルクはそれに与するものではないが、(むしろ厳密なダーウィン主義者である)職員室での雑談で、なおそれを評価している同僚教師がいることも描かれている。
         
 それから、この作家・シャランスキーは生物学を愛する作家であるとともに、ブックデザイナーであり、この書の装丁も自ら行っている。ドイツ語版は、古い生物学の教科書をイメージしたといわれ、文中にも動植物や細胞分裂、遺伝子、生物系統樹などの面白いイラストがまるまる1ページ、ときとして見開き2ページにわたって描かれ、活字に追われた目を楽しませ、リセットしてくれる。

      

 邦訳版は出来うる限りそれに近づけようとしたようで、表紙の首のないキリンのレントゲン写真であるかのような絵をどんと据えたデザインや、文中のイラストなどをほとんど忠実に再現しているようだ。

 ここで私自身の告白であるが、どちらかというと文系人間で、自然科学は苦手だったが、しかし、そのなかでも生物学は好きだった。そこには、やはりこの自分へと連なる歴史があり、進化の節々にはそれぞれの「物語」や「出来事」があり、また「突然変異」などの「偶然性」を排除しないリアリズムがあったように思ったからだ。

 しかし、いま思い起こすと、そうした興味をもたせてくれたのは高校時代のやはり女性の生物学の教師であった。この書の教師像とはまったく違ったが、最初の授業が教科書を捨てた野外の自然観察のフィールディングであったりして、興味深い授業であった。
 この事実をこの読書レポートを書く最終段階で思い出したのは、もちろんこの書のせいともいえるが、反面、この書を手にとった潜在的要因があの頃の生物学の授業の余韻であったのかもしれない。

 ここで自慢を一つ。商業高校から公立大を目指した私の受験は、当初からハンディずくめで、高校では習わなかった科目の独学を迫られたりしたのだが、この生物学についてはほとんど満点を取れたと思う。曲がりなりにも、進学できたのはそのおかげだった。

      

 そうそう、その折の生物学の教師は後藤宮子さんといって、退職後も長良川の中流域で「登り落ち漁」という漁法を駆使して魚類や水生昆虫類の定点観測を行い、この川での生態系の変化を克明に記録した。自身、京都大学に研究員として席を置き、彼女の観測結果の全データは、今や京大に保管されているという。

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米中間選挙の推移を解いてくれる『アメリカとは何か』

2022-11-16 02:35:24 | 書評

 米中間選挙、投票日から一週間経ってやっと上院の民主党の辛勝が報じられたが、下院の方は当初の共和党のリードが保たれるのか、それとも民主党の追撃がなるか、未だにわからない。こうした激戦の中にこそ選挙の醍醐味がある。

 そこへ行くと日本の選挙は気が抜けたソーダ水のように味気ない。投票締め切り、開票開始と同時に、バタバタバタッと当確が各メディアによって報じられ、そこでもう大勢は決してしまう。若干の激戦地で結果は夜半に及ぶが、既に大勢は決まっている中でのささやかなエピソードでしかない。

 アメリカの選挙結果は当然アメリカ国内にとっての重大事だが、同時に20世紀以降の世界現代史にとっての重要なファクターでもある。政治、経済、文化、軍事にわたって、いま、アメリカを抜きにして世界の未来は語り得ない。  
         

 そんなことを前提としながら、岩波新書の『アメリカとは何か 自画像と世界観をめぐる相克』(渡辺 靖)を読んだ。
 とても面白かった。アメリカそれ自体の現代史が、まさに今回の選挙のように錯綜する要因を必然的に孕んだものとしてあることを理解する一助になるのだ。それはまさに、日本のようなお題目としての民主主義(であるがゆえに常に疑似民主主義でしかなかったのだが)とは違った、血で血を洗う局面をも含んだそれへの試行錯誤としてある民主主義の歴史、それこそがアメリカなのだ。

 「アメリカ民主主義」については19世紀にフランスから派遣されてアメリカのそれをよく理解していたトクヴィル(この人については私はあまり勉強していない)、そして、フランス革命やロシア革命よりアメリカ革命を高く評価したハンナ・アーレントを思い出す。
 両者は共に、小さな集落でのミーティングからタウンミーティング、シティミーティング、州単位のミーティングと経由する共同体の意志決定のプロセスを大きく評価している。

 それらが、トクヴィルやアーレントにとってなぜ評価されたのだろうか。それは、こうした統治の形が、広い領地と多くの領民をもつ国家の殆どが専制君主であった時代に、新しく生まれた実験的な形態の国家だったからである。
 アメリカは、これまでの自然発生的な国家とは異なり、民主制の明確な理念を掲げたいわば、実験国家として船出をしたのだった。

 そしてこの実験過程はいまも終わってはいないといえる。ヨーロッパ諸国は君主制から共和制へという流れに基本的に沿ってはいるが、それぞれに逆行的な要因をも孕んでいる。
 そして、アメリカ以外の大国、ロシアや中国は、その名称や国の運用形式には共和制や民主制を思わせる面をもってはいるがが、実質的には専制国家そのものである。
 中国の首脳筋には、広大な国土と多様な民族を束ねてゆくのにはそうした形態しかとりえないのだと率直に語る向きもあるようだ。そして、専制に見えるそれらの措置が、最大多数の最大幸福のためやむを得ない措置なのだともいう。

 その意味では、アメリカはそうではない道を模索する実験国家であり続けているといえる。
 ただし、その実験過程も容易ではない。高度な資本制ゆえの富の一極集中、それへの批判は民主党内ではサンダースなどの社会主義的潮流を産み、共和党内ではトランプ流のポピュリズムを産み出す。それらは、両党の動向に様々な波紋をもたらし、かつ、アメリカのありようを左右する。

 そのアメリカの国際的な動向にはかねてより二つの方向がねじれをもって存在している。第一次世界大戦時がそうであったような伝統的な孤立主義、そして、第二次世界対戦後そうであったような「世界の警察」を標榜する介入主義、これらは、既に見た国内での政治と密接に関連しながら世界へと関与している。
 グローバルな時代、アメリカがどちらを選択するかはもちろん世界史的な影響力をもつ。

 前世紀末の冷戦終了後、もはや実質の資本主義しか存在しない現実において、「歴史は終焉した」ともいわれた。しかし、引き続き世界史的矛盾は存在し、新たな冷戦の戦線は築かれたと思う。
 その一方は、一応民主主義をその政治体制とするいわゆる西側であり、その先頭にはもちろんアメリカが立っている。
 そしてもう一方は、それと明言しないまでも専制を維持し、あるいはそのもとに発展してきたロシアや中国を中心とした勢力である。
 そうした新たな冷戦の一部が熱戦となって現実化した戦争がロシア対ウクライナのそれである。

 日本でのこの戦争の評価や報道のされ方は、ロシア=悪、ウクライナ=善(プーチン悪い人・ゼレンスキー良い人)が圧倒的だが、国際的には必ずしもそうではない。
 国連総会のロシア非難決議に対しては、賛成が九〇カ国ほどなのだが、反対ないし棄権の合計もまた九〇カ国ほどなのだ。

 この戦争に対して、ロシア国内が揺れていると報じられる。それは事実だろう。しかし、一方のアメリカもまた、孤立主義の伝統がもたげ、戦場から離れる可能性を秘めてはいる。

 以上、るる述べてきたのはこの書の内容の忠実な紹介では決してない。それどころかそのディティールを無視した私の感想、個人的な世界史観にすぎない。ただし、これがこの書に触発されたものであることは事実である。
 
 この書の大枠で賛同したいのは、途中でもすこし述べたが、アメリカという国が250年前に始まった民主主義という理念に基づく人工国家の壮大な実験で、その実験はなお未完であるということだ。
 そして、その未完の実験の成り行きによって現実の世界の動向が左右されるということだ。

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『ニホンジン』が地球の反対側で辿ったもう一つの歴史

2022-10-15 16:35:42 | 書評

 『ニホンジン』というタイトルの小説がある。書いたのはガイジン(この言葉にはある種の違和感があってあまり使わないが)だろうか。「?」である。では、ニホンジン自身だろうか。これまた「?」である。
 ニホンジンでもないガイジンでもないとしたら宇宙人か。そんな訳はない。

         

 種明かしをしてしまうと、著者は日系三世のブラジル人作家で、1910年代にブラジルへ移民した日本人一家とその子供の世代、そしてその孫の世代である自分自身のアイディンティティに関わる問題を書いているのだ。こうしてこの書は前世紀末にまで及ぶ三代にわたる物語で、200ページほどの小説でありながら、構成としては大河小説の趣を持つ。

 初代は日本での貧困を逃れ、出稼ぎのつもりでブラジルへ出かける。ある程度蓄積できたら、できるだけ早く帰国し、残してきた父母を楽にさせてやりたいぐらいのつもりなのだ。彼らは、礼儀正しく、勤勉で、彼の地でも高い評価を得る。
 しかし、農業資本のもとでの労働の対価は、月末には同じ資本が経営する食料や日用雑貨の売店への支払いに吸収されてしまい、手元にはいくらも残ることはない。したがって、短期間に財を成して帰国できることが夢物語であることを知らされることとなる。
 

 それでも、ブラジルは仮の住まいだとしてポルトガル語を覚えたり、ブラジル人やイタリアなど他国からの移民と積極的に交わることはしない。それどころか、黒人などに対してはあからさまな差別意識すらもっている。

               

 二代目になると事情が変わってくる。ものごころついたときから日本以外の言語や風物の間で暮らし、どこかで、自分がハイブリッドな存在であることを意識している。
 

 したがって、ブラジル社会や他の移民たちとも積極的に交わり、とりわけ結婚などでの積極的離反を志す者も出てくる。一世のなかに深く根付き内面化されている「大日本帝国」は、二世にとっては何かしら外在的なものに過ぎない。

 それらは個的には二世の進路や結婚を巡っての問題だが、それがそうした個の問題にとどまらず、日本人移民社会全体を大きく揺るがす問題として鋭く突きつけられたのは、日本の敗戦をめぐっての騒動である。
 日本の敗戦を受け入れる「マケグミ」と、その情報自体がアメリカによるフェイク・ニュースに過ぎず、日本は勝ったのだとする「カチグミ」との相克である。

 そうした対立があったことは知っていた。しかしそれが、敗戦の一年以上後の46年にもなお継続するという長期にわたるものであり、また、カチグミのテロ組織シンド・レンメイ(臣道連盟)によるマケグミ襲撃を伴うほどの激しいものであったことは知らなかった。しかも、その襲撃において、15名もの死者を生み出しているのだ。
 この小説でも、当時、マケを主張して殺された人が史実どおりの実名で出てくるし、この小説での登場人物の一人も殺され、それがこの小説のクライマックスをなしているともいえる。

 カチグミの根拠のひとつに、マケたのなら天皇ヒロヒトが生きているはずがない、彼が生存していること自体がマケていない証拠だというのは象徴的だ。
 たしかに当時、ブラジルは遠く、情報過疎地であったかもしれない。しかし、当時の政府の海外にいる日本人に敗戦の事実を知らせる試みは全く不十分だったといわざるを得ない。
 満蒙開拓団を見捨てていち早く引き上げた関東軍同様、海外移住者に対する棄民にも等しい態度が一般化していたのではないか。

  

 小説は、作家と同じく、この小説の語り手でもある移民三世が日本へ行く決意をするところで終わっている。ただしそれは、もはや一世が強く抱いていた望郷の念による「帰国」ではない。
 主人公が作家の分身であるとするならば、三世に至り、自分たちの歴史を相対化して見つめようとする志向が可能になったともいえる。だから彼の日本への「移動」は、自らの原点を確認し、そこから父祖のたどった道を再確認するための行為のように思われる。

 いろいろ書いてきたが、この小説のネタバレになるようなことは避けてきたつもりだ。興味のある方は読んでみて欲しい。
 この出版は、今年がブラジル独立200周年に当たるところから、他のブラジル文学とともに企画されたものである。

 なお、この出版元の水声社はけっこう面白い刊行物を世に送っている。

『ニホンジン』 Oscar Nakasato   訳:武田千春  水声社 

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「プラハの春」からチェコ初代大統領になった劇作家の作品を読む

2022-09-20 14:51:48 | 書評

 世の中三連休、その初日はあるパフォーマンスに参加。
 二日目からは台風の中で読書。そして読んだのがこれ。
 
 『通達/謁見』 ヴァーツラフ・ハヴェル(松籟社)

 著者は劇作家にしてエッセイストで、「プラハの春」の立役者の一人でもある。プラハの春は1968年、当時、社会主義圏の一員であったチェコスロバキアにおいて起こったスターリニスト官僚体制に対する民主化運動であったが、ワルシャワ条約機構(ソ連を中心とした東欧圏の軍事条約体制)の軍事介入によって弾圧され、終息を余儀なくされたもので、そのリーダー格であったハヴェルは「危険人物」として監視や抑圧の対象となったばかりか、逮捕されることもあり、一度は5年の刑で収監されたりした(健康上の理由で刑は短縮されたが)。

 そうした条件下でも彼はおのれを曲げることなく劇作活動を続けるのだが、それらの作品はいずれも舞台にかけることを許されず、日の目を見なかった。ただし一部作品は海外で劇化され、その映像が闇ルートでチェコスロバキアに逆輸入され、多くの人々がそれに接したともいわれる。

           

 この書は彼の書いた十二場の劇「通達」と一幕劇「謁見」の二つ脚本からなるが、これら二つの脚本に共通するのは、いわゆる不条理劇であるということだ。そして同時に、その内容は官僚制やそれによって損なわれるヒューマニティへの批判的洞察といえる。逆にいうと、官僚制の不透明さはそのまま不条理劇に通じると言っていいほどだ(読んでいてフランツ・カフカの「審判」などを連想した)。

 不条理劇においては、まさに不条理な事象の続出で、事態は一向に進展せず、それと対応する主人公も、そしてそれを読んでいる(観ている)私たちも苛立ち、焦燥のなかに立たされる。

 最初の作品、「通達」の主人公グロスはある役所の局長であるが、ある時、本局から重要と思われる通達が届くがそれは今まで見たことも聞いたこともない言語で書かれていて、その内容はさっぱりわからない。
 それでいろいろ調べた結果、それが日常言語では事態を正確に表現できないとして新しく開発された人工言語プティデペであり、それが彼の知らない間に流通しつつあることを知る。そして彼の役所においてもその学習会などが行われていて、それを知らないのは局長であるグロスだけなのだ。

 そうした状況を画策したのは局長代理のバラーシュで、それが成功し、彼は新言語の普及に不熱心であるとしてグロスを退け、自分が局長になる。しかし、新言語は正確を期すあまり、冗長で入り組んでいて、かえって効率を損なっているとのクレームが出始める。
 やがてそれが公になり、新言語は姿を消し、それと同時にグロスは局長に返り咲き、バラーシュは局長代理に戻る。

 しかしだ、グロスはやがて、やはり彼の知らないところで、ホルコルなる新しい言語が鎌首をもたげ、やはり局長代理のバラーシュがそれを取り仕切っていることを知る。
 こう書いてくると、少しも不条理ではなく筋が通っているではないかといわれそうだが、実際にこれらは、数々の小さな不条理の積み重ねのであるこの作品から、敢えて私が抽出した筋書きであって、この文字通りのこの「あらすじ」の周りには山ほどの不条理がまとわりついているのだ。

                           

 もうひとつの作品、「謁見」は、あるビール醸造所の責任者、醸造長と、その醸造所で樽転がしとして働くヴァニェクとの会話劇である。このヴァニェクはどうやら政治犯としてこの醸造所に送り込まれた劇作家であり、醸造長は彼を監視し、その報告書を提出する義務を負っている。このヴァニェクとは、作者のハヴェルその人であるとみて構わないだろう。

 醸造長はヴァニェクを呼び出して話しだすのだが、話はなかなか進行せず、同じ会話の堂々巡りに終始する。しかし、やがてその意図が見え始める。醸造長は、ヴァニェクに関する監視結果、ようするにヴァニェクをチクる文章を上部に提出しなければならないのだが、何を書いていいかがわからない。
 そこで思いついたのは、もともと文章家であるヴァニェク本人にそれを書かせようということだった。

 そして、それを知ったヴァニェクがとった行動とは・・・・。

 この対話劇は実に面白い。同じような会話の堂々巡りのような繰り返しのなかで少しずつ差異が生まれ、やがて思わぬ事態が・・・・という展開の仕方が面白い。

 なお、醸造所だけにビールを飲みながらの会話で、しばらくすると演者が舞台裾へ引っ込み、やがてズボンのチャックを上げながら登場するというシーンが繰り返される。

 さてその作品の一部を紹介してきたが、ソ連の東欧支配が終わった際、脱スターリニズムの担い手として周囲から推され、1989年から最後のチェコスロバキアの大統領を務めたのはこのヴァーツラフ・ハヴェルであった。
 そして、1993年、チェコとスロバキアがそれぞれ分離独立した後、チェコ共和国初代大統領を努めたのも彼であった。その後、約10年間、2003年までその職を努めた。

 惜しむらくは、彼が監視から脱し、自由にものが書け、その作品が上演可能になった時、まさに激務というべき職のなかにあり、それらが不可能になるという「不条理」を迎えねばならなくなったことである。
 それでも、大統領を退いた03年から死去する11年までの間に、2、3の作品は残したようだ。

 1936年から2011年までの75年間の波乱の生涯であった。 
 

不条理な展開がいっぱい詰まった作品だが、別に難解ではなく、読んでいて面白い。官僚制へのシニックなジャブ攻撃が随所に見いだされ、その落とし所もなるほどと思わせる。

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現実より詩的なパラレルワールド 『ピラネージ』スザンナ・クラーク を読む

2022-09-07 16:07:05 | 書評

 以下は、図書館の新着図書の中から拾い上げてきた一冊についてのメモである。

 ちょっと変わったある種のパラレルワールドを扱ったファンタジックな小説。
 この別のワールド、ちょっと変わった儀式のようなものに通じた限られた人間にしか行けないようだ。
 そこはまた、何百という部屋を持ついまは崩壊しつつある宮殿風の大伽藍で、各部屋には神話を題材としたかのような石の像が半壊した姿でとどめられている。ときおり潮が満ちてくるのだが、その海がどこにあるかは書かれてはいない。


          

 読みすすめるうちにわかるのだが、この別のワールド、そこに長時間留まると前のワールド、つまり私たちがいるこの世界での記憶をなくしてしまうらしい。
 だから、そのアナザーワールドに通うことができる限られた人たちも、長時間そこに滞在しようとはしない。

 ところで小説は、何らかの理由でそこに長時間滞在したために以前の記憶をなくし、その別世界の原住民であるかのように純真な存在になってしまった若い男の独白として書かれる。彼の叙述によれば、この宮殿世界には彼と「もうひとりの人」と13人分の遺骨と見られる痕跡、つまり合わせて15人の住人しかいないことになる。


       

 話が進展し始めるのは、16人目の影がちらつき始めることによる。「もうひとりの人」は、主人公に16人目との接触を厳禁する。しかし、それはその影を次第に鮮明にし、主人公自体も携えていた過去の日記を参照することにより、この崩壊した大伽藍の他の世界が姿を表し始め、それとの接触の開口部が明らかになり始める。

 主人公がこの崩壊した大伽藍の世界から抜け出す過程は、同時に失われた自己のアイディンティティを取り戻す過程である。
 しかし、かつての自己、つまり現実のこの世界の自己へと収斂し、アナザーワールドでの経験をファンタジーとして退けてしまうのはちょっともったいないではないか。

        

 作者、スザンナ・クラーク(英国の女性作家。ファンタジー小説の世界では著名な人らしい)もそう思ったのだろうか、ラストシーンでの主人公はやはり崩壊した宮殿の大伽藍を想起している。私自身、読んでいて、その空間の描写は幻想的で素晴らしく、またそこでの主人公の感受性そのものが詩的であったと思っている。

 現実にとらわれ、それに流されないためには、常にそれを相対化してみることができる地点、すなわち私たちの中にあるアナザーワールドを起動する必要があるのではなかろうか。

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フランス作家の韓国小説? 『ビトナ ソウルの空の下で』を読む

2022-08-23 01:24:36 | 書評

 いつものように、同人誌の締切に追われ、そのための様々な資料を読み漁る合間に、箸休めのようにして小説を読もうと(こんな態度は、小説や文学を愛する人からはひどく軽蔑されるだろうな)、図書館の新着図書コーナーで目についたのがル・クレジオの『ビトナ ソウルの空の下で』であった。 
 

 なぜ、これが目についたかというと、同人誌の次号でまさに朝鮮に関して書こうとしていたことによるが、同時にフランス人の作者が、なぜ韓国を舞台に主人公をはじめ現地の人しか出てこない小説を書くのか、しかも2017年にまず韓国訳が韓国で出版され、翌年、フランス語版が母国で発刊されたのか、それが気になったのである。
 しかもこの作家、こうした「韓国小説」はこれがはじめてではなく、2014年にも韓国南方の島を舞台にした『嵐』という小説を書いているらしい。

 これはまた、借りてきてから知ったのだが、この人、2008年には「ヨーロッパ文明への批判的な視点と詩的な文章が評価され」ノーベル文学賞を受賞しているらしい。

          

 タイトルに出てくる「ビトナ」は18歳の女子学生であるが、彼女は二重の意味において語り手である。ひとつには、この小説が彼女の一人称の語りによって書かれていることによるが、もうひとつには、この小説内において、肉体の不自由な41歳の女性サロメ(本名はキム・セリ)のもとへ行き、彼女のためにいろいろな物語を聞かせるバイトをしているからである。

 こう書くと「千夜一夜物語」のようだが、それとは異なるのは、この語り聞かせの主導権は完全にビトナの方にあり、サロメが待ち焦がれているにもかかわらず、ビトナはマイペースで長い間行かなかったりして、私なんかは、なぜもっと行っていろいろ話してやらないんだと少しイライラしたりする。一回行けば、時間の長短にかかわらず、5万ウオン(約5,000円)が手に入るにもかかわらずである。

 ビトナの事情に関していえば、しつっこいストーカーに付け回されていて部屋までかわるのだが、それでもなお、付け回されることになる。ただし、危害は加えられないようだ。

 ビトナは結局、サロメの症状が悪化して入院し、その死を迎えるまで、前後して途中で中断し、また続けたりしながらも、4つの物語をすることとなる。
 私がもっとも感動したのは、幼い頃、朝鮮戦争の戦火を逃れて母に背負われ川を渡り、南へ逃れてきたチョ・ハンスさんの物語だ。このとき、チョ少年は二羽の伝書鳩をポケットに忍ばせていたが、その後の生活のなかでそれらを飼うことは叶わず、定年退職後、「グッドラック」と名付けられた巨大団地の管理人となり、やっと屋上で何羽かの伝書鳩を飼うことができるようになる。

 チョさんは、これらの鳩たちと、まるで意思疎通ができるかのように訓練に勤しみ、ついにその夢を叶えることができる。その夢とは、チョさんが戦争前に暮らした生まれ故郷(北側)との鳩を通じての交信であった。
 インターネットの時代の鳩を通じての交信、それに至る鳩たちのチョさんの意志を理解し、その故郷の村へたどり着く不思議さ、そこにはなにか快楽のようなものがある。

       

 ビトナは他に三つのまったく違ったシチュエーションの話をサロメにするのだが、気をつけてよく読むと、最初のチョさんのテリトリー、グッドラックとつながっているのがわかる。ただし、それぞれの話の内容には必然的なつながりはなにもない。

 ビトナをしつこく監視していたストーカーの正体も明かされる。その意味で、一見バラバラに放り出されたようなこの小説のひとコマひとコマは、集約されるとはいえるのだが、その集約のされ方は、西洋合理主義の理詰めの決着ではない。

 どこか、必然性の論理を越えた至極ゆったりとした辻褄の合い方、これがこの作家が自国フランスではなく、韓国を舞台とした「韓国小説」として表現したかったものかもしれない。

 なお、私がもっとも心情移入したのは、物語の聞き手サロメであったことをいい添えておこう。自分で物語を紡ぎ出すことができない私は、それを聴くことが大好きなのだ。

 

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フランスで110万部を売ったというゴンクール賞作品『異常』を読む

2022-08-01 02:22:10 | 書評

 ゴンクール賞といえば1903年に始まったフランスの伝統ある文学賞で、日本でいえば
芥川賞に相当するだろうか。かといってその権威などよく知らない私は、それを追っかけたりはしたことがない。
 例外的には、2010年に『地図と領土』でこれをとったミッシェル・ウェルベックをたまたま図書館で手にして気に入り、追っかけのように図書館にある彼の和訳のもの8冊ほどを読んだことがある。

 だから今回、2020年のゴンクールをとったというエルヴェ・ル・テリエの『異常(アノマリー)』を図書館の新刊コーナーで見かけたときも、「フーン、ゴンクール賞ね」と思ったぐらいだったが、念のために「訳者あとがき」を見て驚いた。なんとこの書、昨年末までにフランスで110万部売れたというのだ。もちろん、いわゆる「純文学」で100万部以上とは稀有なことである。
 ならば、一度読んでみようと思い、借りてきた次第。

          

           暗い感じの表紙だが実際にこの色彩

 最初にでてきたのは、「人を殺すのは、たいしたことじゃない。必要なのは、観察し、監視し、熟考することだ」の独白で始まる殺し屋の話である。何だこれは、いわゆるピカレスク(悪漢小説)かと思う。
 しかし、彼の役割はすぐ終わり、次々と別の人物が、そう、11人もの人物が登場する。だが、彼らが全てではない。これは彼らをも含む247人の運命に関する物語なのだ。

 彼らの共通点はなにか。それは2021年3月10日、パリ発のアメリカ、ケネバンク空港(ポートランド郊外)行きエアー・フランス006便(ボーイング787)に乗り合わせたということである。
 事態はこの便が遭遇したことによって生じる。そして、ここから先(本書でいうと第一部の終わりから第二部へ)は、SF的なムードに一変することとなる。

 ネタバレになってしまうが、まあ、大まかに書くとしよう。
 この便は、アメリカ東海岸近くで巨大な積乱雲に遭遇し、きりもみ状態になったり、機体に損傷を負ったりするが、機長マークスの冷静は措置によって無事それを抜け出して着陸に成功する。それはそれでいいだろう。

 問題は、その同じ飛行機が、同じように損傷を受けながら3ヶ月後の6月24日にも積乱雲の中から現れることによる。この二重現象。もちろん、搭乗員や乗客の247名もそのままに。
 ここからの事態はなぜそのようなというSF的な解明(それは可能だろうか?)と同時に、哲学的な問いともなる。人間の自己同一性とはなにか?自分が自分であることの保証は?自己と他者との差異は?時間的差異による自身の差異とそのズレは?etc.etc・・・・。

         フォト

             作家 エルヴェ・ル・テリエ
           
 この小説では、それらを形而上学的に問うのではなく、現実に二重化してしまった人々の問題としては具体的に展開するのだが、もちろん、それらは一定ではない。
 その二重性をどう受け止め、どう解消するのかも11人それぞれでちゃんと書かれている。

 そして、それらが収まれば事態が解消するわけではない。
 なぜなら、それは、この小説の終幕に至って、さらに劇的な展開を見せ、そして衝撃的な展開をみせるからだ。そこは語らないでおこう。

 以上描いたように、この小説は多彩な展開を見せ、読みだしたら止められないし、その結末もまさに「異常」というほかはない。
 
 その他にもこの小説にはいろいろな仕掛けが施されている。20年のゴンクール賞作品だが、事件の舞台は21年の近未来の話であるし、登場人物の一人、作家のミゼルは『異常』というタイトルの小説を書いているという入れ子状態でもある。ちなみに、これもネタバレになるが、このミゼルという作家、最初の飛行機が着いた3月10日から、次の飛行機が着いた6月24日の間に自殺をしてしまっていて、あとから到着したミゼルが、自分が自殺をした現場を訪れるシーンもある。

 とにかく、盛沢山の要素を巧みに配置した作家、エルヴェ・ル・テリエの力量は大したもので、110万部を売り上げるのもわかる気がするが、どうなんだろう、日本だったら直木賞に収まるのではとも思える。決して、その区分けを重視しているのではなく、単にジャンル分けの話なのだが。

【追記】最近のNHKの土曜ドラマ『空白を満たしなさい』で、自殺者が復生し(つまり生き返り)、自己の死に至る過程を点検するという話をやっていたが、一部で重複するように思った。かつて生きていた自己と、復生した自己との同一性と差異、その溝を埋めることはできるのか?自己とはなにか?などなど。

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またもや早とちりのミス 著者は別人だった!

2022-05-31 11:42:13 | 書評

 先般、1・2とある小説本を、てっきり上・下と勘違いし図書館から借りてきて読んだところ、実は3巻があって、その3巻は著者デパントの母語=フランス語では出版されてはいるものの、まだ邦訳はされていないとあって、生きてるうちはその結末を見届けられないかも・・・・というミスを犯してしまったと書いた。もっとも、結末はともかく、その過程自身がけっこう面白かったからさほど後悔はしていないが。

 で、今回はまたまた失敗をやらかしてしまったのだ。
 舞台はやはり岐阜県図書館の新刊コーナー。ふと目をやると、ベルンハルトの『推敲』という書が並んでいるではないか。すわ、「あの」ベルンハルトの新作と迷わずに借りてきた。

 この作者については、最初手にとった『朗読者』が面白かったので、その後、邦訳されているもの7、8冊を読み漁ったことがある。この『朗読者』は国際的に評価され、2008年には映画化もされている。ただし、映画の邦題は『愛を読むひと』(監督:スティーブン・ダルドリー)だった。

              

 帰宅して早速読みはじめてみると、なんか違和感があるのだ。文体や叙述のスタイルがまったく違うし、どこか実験的な書に思える。著者の名前を確認する。トーマス・ベルンハルトとある。ん?ちょっと違うような・・・・ということで『朗読者』で検索してみると著者名はベルンハルト・シュリンンク。同じベルンハルトでも、一方は姓の方であり、もう一方は名の方なのだ。ついでに『朗読者』のベルンハルトはドイツ人で今も健在だが、『推敲』のトーマスの方はオーストリア人で、しかも1989年に既に故人となっている。

 つまり、ベルンハルトという字面のみでまったく別人の書に接することになったわけだ。
 でも面白ければいいじゃないかと読み始めたのだが、はじめっからまず視覚的に違和感があった。見開きでスキャンして載せた写真を見ていただきたい。2ページ分をびっしりと文字で埋め尽くされているのがおわかりだろう。これは、たまたまこのページでのことではなく、どのページもそうなのだ。

 どういうことかというと、300ページほどの小説なのだが、前半に「ヘラー家の屋根裏部屋」という小見出しがあり、中間に「目を通し、整理する」という小見出しがあり、それぞれの始まりに段落の始まりを示す「一字下げ」があるほか、全てのページがびっしり文字で埋め尽くされているのだ。ようするに、300ページから成るこの小説は、たった2つの段落からなっているのだ。そうそう、小説によくある「 」付きの会話体がまったくないのも各ページが文字で埋められる原因をなしている。


           

             余すところなくページ全体を文字が。どのページも・・・・。
 

 ようするにこの小説の前半は、隠れた主人公ロイトハイマーの友人である「私」が、ヘラー家の屋根裏部屋に逗留し、自死したロイトハイマーの遺構に「目を通し、整理する」に至った経緯と、ヘラー家の描写なのだが、その描写は150ページ近くの一つの段落で語られる。

 後半は具体的にロイトハイマーの書き残したものの紹介だが、ロイトハイマーによって延々と語られるその家族関係が何やら凄惨である。どうやら彼の家族は父母と自身を含む三人兄弟、それに姉との六人家族なのだが、それを彼は、父と姉、そして自分の陣営と、母と兄弟の陣営とに分断する。その分断は、前者を「聖」、後者を「俗」とするほどである。
 彼=ロイトハイマーにとって、母はもはや母とも呼ばれず、その出身地からなるエファーデング人でしかない。これら家族のうち、彼が最も侮蔑的に描写するのはその母=エファーデング人である。そして、彼が最も敬愛するのがその姉である。

 この小説のもうひとつの主人公は、その姉のためロイトハイマーが設計し建てたコーベルンアウサ―の森の中心の円錐形の家である。彼は、イギリスのケンブリッジでの研究生活の傍ら、故郷オーストリアでのこの円錐の建設の没頭するのだが、後半はこの円錐の虜となったかのようである。
 この円錐の家は完成し、それを敬愛する姉に披露するのだが、その直後、姉は急死する。その後を追うようにロイトハイマーは自死する。

 ここまで読んで、私にはひらめくものがあった。それはこの小説の主人公に模されているロイトハイマーの正体についてである。オーストリア出身でケンブリッジで学究生活を送り、自分の姉のために住宅を設計したのは、まさに今世紀初頭の哲学者、ヴィトゲンシュタインにほかならないのだ。ヴィトゲンシュタインが姉のために設計したのは森の中の円錐形のものではなく、ウィーン市街の方形のものだが、彼はそのディティールにまでとことんこだわり尽くしたことが伝えられている。
 この私の推理は、訳者あとがきで正解であること知った。

                                                                                         
           ヴィトゲンシュタインがその姉のためウィーンに建てた住宅
 
 もうひとつ、この小説の実験的な試みを述べておくと、300ページに及ぶなか、人名の固有名詞はロイトハイマーとヘラ―しか出てこず、前半、後半を通じて、語り手の位置にある私の固有名も出てこない。ただし、この3人は幼少時から親友だったようだ。
 その他の人物は、父、母、兄弟、姉、友人などなど、その関係性でしか語られない。
 それと、母の俗物性(ほんとにそうであったかも疑問)についての記述はミソジニー風である。「 女性である限り精神に反対し感情に味方する。自然とはそういうものですでに証明されている」という叙述があるかと思うと、その姉に対しては「誰よりも親しい愛する人」などと今度は近親相姦的な記述が続く。まさに主観的な好悪が露骨に表出されている。

 既に白状したように、早とちりで間違えて借りてきて読まざるを得なかった小説ではある。しかし、面白くもなかったかというとそうばかりではない。この 実験的スタイルは細かいフレーズにも施されていて、それはそれで結構面白かった。ただしそれにしても、全ページをびっしりと文字で埋め尽くされている文章を読むというのは、なんとなく重圧に抑え込まれている感じがするものだ。
 表現における差異化の追求、それは広義の芸術界を貫いてあるものだろう。

 長生きすれば(といっても百歳社会ではまだ八十路前半はその端っくれだが)いろんなものに出逢えるものだ。

来月早々に両眼の白内障の手術を行うこととなった。そのせいで、この所を今月中に返済すべく、慌てて読んだため、どうしても冗漫な箇所はななめ読みになるなどし、ディティールで見逃しがあるかもしれないことをお断りしておく。
 
   『推敲』トーマス・ベルンハルト 飯島雄太郎:訳  河出書房新社
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