私がこの地に住まうようになってから半世紀に及ぶが、なにせ当時は田んぼの中の一軒家、歩いて行ける範囲に買い物ができるところはまったくなかった。
結構離れた商店にまで車で出かけた。当時は路上駐車の規制が緩かったので、ちょっと留めて買物をし、また少し移動して別のものを買うといった具合であった。
やがて、都市化の波が郊外に及ぶに至って、ポツポツと小売店が現れ、ちょっと離れた場所には当時「市場」といっていた小売の集合店舗が現れるようになった。これで買い物はうんと楽になったが、先行した小売店のなかにはこれに押されて店じまいしたところもあった。
やがて、駐車場を備えた、今のスーパーの原型のような地元資本の店が現れ、買物の集約性がうんと高まった。しかしそれらも、より大きな店舗が近隣に出来るにつれ、それらに飲み込まれるようにして姿を消していった。この半世紀、この繰り返しを何度みてきたことか。

結果として、わが家の周辺についていえば、当初できた小売店はほぼ全滅した。
残ったのは全国チェーンのスーパー2店舗で、そのうち一軒はほぼ全国展開の総合スーパ、またもう一軒は岐阜県に本店を持ち、中部地区を中心に展開している食品スーパー(それでも二百数十店舗を数える)である。
これらも、改装や移転などを経由してきたのだが、ここのところこの二つで安定しているかのようだ。

私んちの前にできたドラッグストア
今激しいのはドラッグストアのなりふり構わぬ出店ラッシュだ。
一昨年、私の家の前に片側一車線のバス通りをはさみ、ここのところ旺盛な出店をみせているドラッグストアのチェーンがオープンした。
最近のこの種の店は、食料品についても鮮魚や生鮮野菜以外は置いている。牛、豚、鶏の他、野菜も玉葱、人参、じゃがいもなどは置いているからカレーやシチューならじゅうぶん間に合ってしまう。

少し引いて、手前で車が交差しているところが道路
調味料類も多い。だから、調理をしているうちに不足しているものがあったら、火を止めて、つっかけ姿で、はねられるのを覚悟なら道路をまっしぐらに横切って30秒足らず、慎重に左右を確認して横断しても1分もあればたどり着ける。
もちろん、日用品は一通り揃う。
以前は、上に見た中部地方に本拠を置く食品スーパーチェーンの系列店のドラッグストアでそれらを買っていた。ここも便利で、行きつけのクリニックの薬を調合していたので、薬をもらいに行くと、そのドラッグストアの買物の割引券をくれるのでそれを利用していた。

以下は閉店し引っ越しを準備している旧店舗の周辺
しかし、ここも、上に見た私んちの前の新しい店に押されてついに閉店してしまった。ただし、少し離れた場所へ移転し、そこでより広い店舗で品揃えもよく再スタートということらしい。
ただ、私んちからは遠くなるので利用機会はあまりないだろう。
なお、その前に、かつて郊外型の書店として鳴り物入りで開店したところが撤退し(かつて私が、岩波新書を買いにったら、「そんなもの置いてません」とそっぽを向かれた店だ)、その後にまた別のドラッグストアがオープンした。

今回、移転する古くからのドラッグストアは、南側と東側を新しい店に抑えられて、たまらず新天地へ移転となったのだろう。しかしこの3店は、互いに徒歩で行き来出来る距離だから、今後もしのぎを削る競争は免れないだろう。
そのへんの主婦も、そして私も、3円安ければそちらへ行くから、その競争も熾烈であろう。そんな折から、それらから少し離れるが、またまた新しいドラッグストアが開店するようだ。

すっかりがらんどうの旧店舗内部 ここへ何度足を運んだことか
若い頃、アメリカの小説かなんかで、ドラッグストアに買物に行くというのを読んで、「薬屋へ買物に行く」っていうイメージがいまひとつよくわからなかったのだが、ここへきて、それはじゅうぶん分かる。
このドラッグストアの乱立競争は、その相互間にのみ及ぶものではない。いまや、一般のスーパーにとっても脅威となっているはずだ。
早い話が、この私も、このくらいならスーパーへ行く必要はないと、目の前のドラッグストアーで間に合うものはそれで済ませてしまう。だから、スーパーへ買物に出かける頻度はほぼ半減している。
おかげで運動不足気味だ。

もちろん、これに通販での居ながらにしての物品調達も加わる。
気がつけば、この半世紀、流通の姿はすっかり変わってしまった。これらが、価格競争やサービスの面で、消費者にとってプラスの方向で進むのならいいが、知らぬ間に、私たち自身がこうしたシステムの歯車として巻き込まれ、自分では「賢い消費者」のつもりでいても、その実、視野の狭い「消費マシーン」として組織化され、機能しているのではという疑念もある。
早い話が、なんとなく決まりきった品揃えのなか、私たちの欲望そのものがパターン化され、その消費もある定形へとはめ込まれつつあるのではないだろうか。

どうしてこんなところに日の丸が?
普通は消費者の欲望が新たな商品の開発や製作、流通を生み出すと考えられているのだが、商品開発者や流通業者の極度の合理化とその宣伝技術によって、消費者である私たちの欲望そのものが干渉を受け、それらの合理化に応じてその購入のパターンを規制されているとしたら、それは私たちの自由意志を装ったビッグ・ブラザーによる欲望と消費のコントロールというほかはない。
情報リテラシー共々、流通、消費、買物などのリテラシーも必要な時代なのかもしれない。
結構離れた商店にまで車で出かけた。当時は路上駐車の規制が緩かったので、ちょっと留めて買物をし、また少し移動して別のものを買うといった具合であった。
やがて、都市化の波が郊外に及ぶに至って、ポツポツと小売店が現れ、ちょっと離れた場所には当時「市場」といっていた小売の集合店舗が現れるようになった。これで買い物はうんと楽になったが、先行した小売店のなかにはこれに押されて店じまいしたところもあった。
やがて、駐車場を備えた、今のスーパーの原型のような地元資本の店が現れ、買物の集約性がうんと高まった。しかしそれらも、より大きな店舗が近隣に出来るにつれ、それらに飲み込まれるようにして姿を消していった。この半世紀、この繰り返しを何度みてきたことか。

結果として、わが家の周辺についていえば、当初できた小売店はほぼ全滅した。
残ったのは全国チェーンのスーパー2店舗で、そのうち一軒はほぼ全国展開の総合スーパ、またもう一軒は岐阜県に本店を持ち、中部地区を中心に展開している食品スーパー(それでも二百数十店舗を数える)である。
これらも、改装や移転などを経由してきたのだが、ここのところこの二つで安定しているかのようだ。

私んちの前にできたドラッグストア
今激しいのはドラッグストアのなりふり構わぬ出店ラッシュだ。
一昨年、私の家の前に片側一車線のバス通りをはさみ、ここのところ旺盛な出店をみせているドラッグストアのチェーンがオープンした。
最近のこの種の店は、食料品についても鮮魚や生鮮野菜以外は置いている。牛、豚、鶏の他、野菜も玉葱、人参、じゃがいもなどは置いているからカレーやシチューならじゅうぶん間に合ってしまう。

少し引いて、手前で車が交差しているところが道路
調味料類も多い。だから、調理をしているうちに不足しているものがあったら、火を止めて、つっかけ姿で、はねられるのを覚悟なら道路をまっしぐらに横切って30秒足らず、慎重に左右を確認して横断しても1分もあればたどり着ける。
もちろん、日用品は一通り揃う。
以前は、上に見た中部地方に本拠を置く食品スーパーチェーンの系列店のドラッグストアでそれらを買っていた。ここも便利で、行きつけのクリニックの薬を調合していたので、薬をもらいに行くと、そのドラッグストアの買物の割引券をくれるのでそれを利用していた。

以下は閉店し引っ越しを準備している旧店舗の周辺
しかし、ここも、上に見た私んちの前の新しい店に押されてついに閉店してしまった。ただし、少し離れた場所へ移転し、そこでより広い店舗で品揃えもよく再スタートということらしい。
ただ、私んちからは遠くなるので利用機会はあまりないだろう。
なお、その前に、かつて郊外型の書店として鳴り物入りで開店したところが撤退し(かつて私が、岩波新書を買いにったら、「そんなもの置いてません」とそっぽを向かれた店だ)、その後にまた別のドラッグストアがオープンした。

今回、移転する古くからのドラッグストアは、南側と東側を新しい店に抑えられて、たまらず新天地へ移転となったのだろう。しかしこの3店は、互いに徒歩で行き来出来る距離だから、今後もしのぎを削る競争は免れないだろう。
そのへんの主婦も、そして私も、3円安ければそちらへ行くから、その競争も熾烈であろう。そんな折から、それらから少し離れるが、またまた新しいドラッグストアが開店するようだ。

すっかりがらんどうの旧店舗内部 ここへ何度足を運んだことか
若い頃、アメリカの小説かなんかで、ドラッグストアに買物に行くというのを読んで、「薬屋へ買物に行く」っていうイメージがいまひとつよくわからなかったのだが、ここへきて、それはじゅうぶん分かる。
このドラッグストアの乱立競争は、その相互間にのみ及ぶものではない。いまや、一般のスーパーにとっても脅威となっているはずだ。
早い話が、この私も、このくらいならスーパーへ行く必要はないと、目の前のドラッグストアーで間に合うものはそれで済ませてしまう。だから、スーパーへ買物に出かける頻度はほぼ半減している。
おかげで運動不足気味だ。

もちろん、これに通販での居ながらにしての物品調達も加わる。
気がつけば、この半世紀、流通の姿はすっかり変わってしまった。これらが、価格競争やサービスの面で、消費者にとってプラスの方向で進むのならいいが、知らぬ間に、私たち自身がこうしたシステムの歯車として巻き込まれ、自分では「賢い消費者」のつもりでいても、その実、視野の狭い「消費マシーン」として組織化され、機能しているのではという疑念もある。
早い話が、なんとなく決まりきった品揃えのなか、私たちの欲望そのものがパターン化され、その消費もある定形へとはめ込まれつつあるのではないだろうか。

どうしてこんなところに日の丸が?
普通は消費者の欲望が新たな商品の開発や製作、流通を生み出すと考えられているのだが、商品開発者や流通業者の極度の合理化とその宣伝技術によって、消費者である私たちの欲望そのものが干渉を受け、それらの合理化に応じてその購入のパターンを規制されているとしたら、それは私たちの自由意志を装ったビッグ・ブラザーによる欲望と消費のコントロールというほかはない。
情報リテラシー共々、流通、消費、買物などのリテラシーも必要な時代なのかもしれない。