先日、完全につぼにはまった本として、三浦しをん著『風が強く吹いている』を紹介しましたが、今度は箱根駅伝を目指す青春小説とはまったく趣は違う、同じ著者の『まほろ駅前多田便利軒』という2006年直木賞受賞作を読みました。
まほろ駅前で便利屋を営む主人公多田のもとに、高校時代の同級生行天が転がり込み、便利屋を手伝う(というか時には邪魔をする)ようになり、二人でいろんな出来事にかかわりながら、それぞれのこれまでの生い立ちや生き方が明らかになっていくという物語です。
そんな話の前半、二人が再会したばかりの時に、高校時代は秀才で見た目も良かったのに今は無一文になり帰る場所もなくなったみすぼらしい格好をした行天が、これまたあまり羽振りがいいとは言えない便利屋になっている多田に対して次のように言います。
「俺は、あんたは要領よく大学を出たあと、堅実な会社に入って、料理がうまい女とわりと早めに結婚して、娘には『おやじマジうぜえ』とか煙たがられながらもまあまあ幸せな家庭を築いて、奥さん子どもと孫四人に囲まれて死んで、遺産は建て替え時期の迫った郊外の家一軒、って感じの暮らしをするんじゃないかと思ってた」
多田自身は、そういう人生を歩んでいたのが、訳あって便利屋になり、だからこそ物語になっているのですが、読んでいて、「まさに自分のことだ」と思ってしまいました。まあ、私だけのことでなく、多くの人に共通する、そこそこの人生像なんでしょうね。
そこそこの人生で何が悪いかと思う一方、もう少しそれぞれのエピソードもほしいなぁとも思います。10年前だったら、仕事をして家に帰る以外はさしたる趣味もなく、それこそ行天の言葉通りの生活へまっしぐらだったと思います。
しかし、倅が散ドラに入って、自分の生活に少年野球が入ってきて、禁煙して走るようになってからは、ジョギングも生活の一部になりました。これとて平凡な人生のヒトコマに過ぎませんが、平凡なりに自分だけの人生と言えるものだと思います。
しかし、私の上司に言わせると、まだまだだそうです。上司はもう60歳を過ぎいつリタイアしてもいいそうですが、45歳の時からリタイア後のことを考え始め、50歳から準備を始め、関東近郊の地方に広めの敷地を確保し家を建てました。リタイア後にはそこで自分で野菜を作り、自分で料理して暮らすのだそうです。一応、奥さんは説得してあるそうですが、団塊世代にありがちなこうした田舎生活は、往々にして奥さんの反対から破綻することが多いと聞きますから、自信満々の上司のことを私は内心心配しているのですが、仕事一筋の人が多い世代なのに定年の15年も前から考え始めていたことには感心しました。まあ、会社に入ってからは猛烈サラリーマンになりましたが、もともとは好き勝手なことをしてきた団塊世代ですから、そういうベースはあったのでしょうけどね。
翻って自分自身はどうかと考えると、リタイア後のことまではさすがにイメージ出来ていません。上司には「一日中走っているわけにはいかないだろう」と言われましたが、確かにその通りです。散ドラも60歳を過ぎてまでやっているのかどうなのでしょうか(そもそも散ドラが存続しているのか??)。
近所に、小学生たちの通学時に白いスピッツを連れて毎日見守ってくれているポポちゃんのおじさんことMさんという方がいます。クロの散歩の時などに会うと、いまだに家の倅のことなども気遣ってくれます。Mさんを見ていると、何か自分にできることで地域に貢献出来ればいいなぁなんてことは漠然と思ったりもします。
そこそこの人生を捨てて、物語になるような人生を歩むつもりはありませんが、そろそろ折り返し後の人生のことも考え始めていい頃なのだと少し思いました。
余談ですが、題名にもある「まほろ駅」がある「まほろ市」とは、東京都南西部にあり、一応東京であるものの、神奈川県に突き出ていて、JR八王子線と箱根急行鉄道通称ハコキューが交差して、市の周縁部に沿って国道16号が走っているということで、明らかに八王子のお隣の町田市のことを指していて、親近感がわきました。
その中で、「まほろ市で完結するので人が出ていかない、また出ていったとしても帰ってくる確率が高い」などと市の特徴が語られていますが、これって八王子もほとんど同じようですね。
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今日のジョグ
5.2km 32分53秒