津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■二代目・太左衛門

2019-11-30 13:53:48 | 自分史

 我が家に関係する先祖附その他の史料をみても、何時細川家に召し出されたのかは記録が見つからないでいた。
処が十年ほど前「福岡県史・近世史料集 細川小倉藩」の元和九年(1623)閏八月六日の項に、次の様な記録があることを発見した。

         |   知行高弐百石
         | 一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、
         |   しれ申候事

これは我家の初代・磯部庄左衛門の実兄であり、我家の祖・庄左衛門はこの兄・長五郎と共に召し出されている。
細川家士としての最後は8代の又太郎であり、これは明治三年(1870)七月に役職を罷免されている。
以降数年は熊本藩士であったのだろうが、詳細は判らない。180年ばかり細川家に仕えたことになる。

二代目太左衛門が母方の名字にかえ、現在の姓を名乗ることになった。
この人物はなかなか頑張っている。召し出しから54年勤めあげているが、15度の参勤交代を経験し江戸に在る事30年であったと記している。
幕府巡検使の案内や、水戸藩士・佐々助三郎の熊本巡行の案内役なども務めた。
15度の参勤を勤め、よくぞ金が続いたものだと少々感心するが、元禄九年に到るといよいよいきづまり「連々不勝手ニ而拝借之願申上候」処、参勤を免除されている。
まさに綱利公の代を過ごした人物であるが、出世には恵まれず穿鑿役にとどまった。150石取ではこんなところだろうか?

先祖附ではいろんな人物との関りが記されているが、そのような方々のご子孫といま交わりがあり、不思議さを感じている。
そんな方々の先祖附なども拝見し、時代を追って校合すると、新しい発見が見えるのではなかろうか。
楽しみは留まることがない。

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■祖父のこと

2019-11-03 09:12:48 | 自分史

 熊本史談会の若い友人N君が、私の祖父にかかわる史料をメールで送ってくれた。ただただ感謝である。

昭和19年私の父・祖父・祖母が相次いで亡くなり、母は姉と私を連れて熊本へ帰郷した。姉9歳・私は2歳の時である。
以来熊本地吾郎として育って、齢を重ねてきた。私が突然歴史に目覚めたのは60歳を過ぎてからの事だが、我家の事はいささかないがしろにしていた。
年をへて気が付くと、父や祖父母のことを知る人たちが幽明を異にしていた。
いろんな書物を読み、WEBを駆使して若干の資料を得た物の、判らぬことが多すぎてお手上げの状態であった。
今般のN君がもたらしてくれた資料は、昭和12年発行の会津正夫氏編の『錦渓舊友会』という著書からのものである。
祖父は「錦渓」なる雑誌の編集に携わっていたらしく、これは上記会の会誌ではなかろうかと思われる。

   
                   今年の古書籍販売会目録から           

私が小石川の細川家の職員住宅で生まれたという経緯は、祖父が細川家家政所に勤めていたからだが、いつ頃から勤め始めたかが判らないでいた。
今般の資料により大正4年に奉職したことが判明した。昭和19年に亡くなるまで職にある事30年、人生の約半分を勤めたことが判った。
その思想信条から、平壌に設立された「朝鮮語学校」の校長を努めたりして、某研究者の言を借りると「国粋主義者」なのだそうだが、その後はただひたすら、旧主細川家の為に尽くしたという事になる。

自らがあと数年で80歳になろうとする頃今、こういう風にして、じょじょに明らかになる我家の歴史である。

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■平川さんの思い込み

2019-10-31 06:18:19 | 自分史

 昨日は借りていた本の返却日となったので図書館行き、特段プリントの予定もなくいろいろな資料を眺めていた。
我家と先祖を同じくする平川家の「平川文書」が気になって目次を眺めていると、古文書類とは別に平成10年に書かれた、ご子孫の一文の冊子が添付されていた。
「平川家文書」は貴重品扱いとなっているから、その閲覧にあたっては手を洗うことを求められる。
平成10年の冊子だが、同じ袋に収められているため同様の扱いだそうな・・

読んでいるとどうも違和感を感じる。新たに書き起こされた、共通の祖「磯部氏」から繋がる系図が間違っていることにも気づいた。
この間違った系図(下の写真)もさることながら、かなりの思い込みがあって若干わき道にそれた部分が見て取れる。
わずかな間違いも見て取れる。筆者に連絡を取りたいところだが、「個人情報」がネックとなっていて、教えてもらえない。
間違った思い込みが修正されることは望めない。


            

                            

              この図によると八人兄弟(妹)の二男庄左衛門の子太兵衛が平川姓を名乗ったとされるが、これが間違いである。
          兄弟は長五郎と庄左衛門の二人であり、庄左衛門に六人の子が有り、嫡男市右衛門の子が平川太兵衛である。
          我が家は庄左衛門を初代とし、次男である二代目・又之允が母方の姓を名乗って今日に至っている。
          (実は当家の二代目は太左衛門を名乗っている。ここでは又之允としているが初名か?)

          筆者は何故磯部家の嫡流が平川姓を名乗ったか、不思議に思って居られるようだが、母親の家の姓を名乗ったので
          はない
かと推理されているが、当家の資料からすると考えられない。
          父・庄左衛門は病気がちで熊本入りするとき生国へ帰国したい旨を兄・長五郎から申し
出ているが、三齋公は八代
          へ来て養生することを進めている。


          いろいろ推理を働かせて先祖を想うことは結構な事だが、それが思い込みとなってしまうことは大変危険である。
         

         

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■八代城御附衆(4)

2019-05-14 14:10:16 | 自分史
これは「元禄初年‐御侍帳」に記載ある「八代御城付」である。
都合50人、知行合計が10,448石5斗、其の外3名に御役料が付きその合計が300石である。(200石とあるが当然間違いである)
この時期になると、御番頭の格が少し下がっていて700石であることが判る。
上田新兵衛に至っては本来は500石であり、不足分200石が御役料として付けられている。(役から外れると当然御役料は無くなる。)

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■史談会の資料の準備

2019-05-14 07:08:30 | 自分史
史談会が近づくと、途端に資料の準備であわただしくなる。
今回は外部から講師を迎える予定であったが、少々事情があって叶わなくなってしまった。
こうなると責任上自分でやらなければならない。
熊本日日新聞の「文化短信」に掲載していただくために、その旨も連絡してあるからもう後に引けない。

いままで色々資料を読んできた中で、細川家に仕える家老職を勤めた家とか万石を領した家々にいろいろ紆余曲折があり、藩主との間に確執を生じている場面が見受けられる。
それらが如何に修復されたのか、それは藩主の代替りで改善されたり、離国を余儀なくされたり、本人の死去により次の代では家禄が大幅に減少したりしている。
そういう過程をたどって三卿家老と呼ばれる松井・米田・有吉家が固定し、そのほか家老職を努めていくことになる諸家が地歩を固めていくことが判る。

今回は「忠義が報われた人、忠義が報われなかった人、恨みを口にする人」という少々センセーショナルな演題にしてしまったが、いまになるとやりすぎの感があるが、新聞にも載るし、会員にもその旨連絡してあるし後に引けないところである。
これらのことを時系列に年表にしてみると、細川家の歴史も波瀾万丈であることが良くわかる。




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■お安く読む-インターナショナル新書「三河吉田藩・お国入り道中記」

2019-05-11 18:05:41 | 自分史

著:久住祐一郎 出版社:集英社インターナショナル 発行年月:2019å¹´04月 シリーズ名等:インター... 

 世の中には不思議なご縁がある。
実は平成24年の暮れに、「大嶋家文書研究会」が発刊された「大嶋家文書の世界」という本を御恵贈いただいた。
この本は「若様道中記」と「たみ縁組」という二本仕立てになっているのだが、「たみ縁組」の内容は細川家家臣・高田祐之進に吉田藩・松平伊豆守の家臣・大嶋氏の娘・たみが嫁ぐに当たっての記録である。
当時、細川家家臣・高田祐之進についてお尋ねがあったが、先祖附が所在しなかったが、できる限りの史料をお送りした。
その後、見事に上梓されご寄贈いただいたという次第である。

 今般の久住祐一郎氏の著書「三河吉田藩・お国入り道中記」に関する「紀伊国屋書店」の内容説明を眺めているうちに、これは「大嶋家文書の世界」に取り上げられていた「若殿道中記」そのものではないかと直感した。
この記録者は大嶋左源太とあるから間違いない。何という奇遇であろうか。
大嶋家には相当量の古文書が残されているようで、豊橋美術館と連携を進めたいという事が編集後記にかかれていた。
著者はまさにその豊橋美術館の学芸員で在られるという。

「大嶋家文書の世界」において「若殿道中記」は、読み下しに主力を置かれていた。
今般の出版は、内容をよく検討の上、下記のような内容になっているようだ。早速注文したところだが、到着が待ち遠しい。
こんな資料に出会いたいものだとつくづく羨ましく思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

内容説明

天保一二(一八四一)年、三河吉田藩(豊橋)の参勤交代の行列が江戸を出発した。藩主の代わりを務める若殿・松平信宝、初のお国入りである。しかし、出発までには数々の難題が待ち受けていた。決まらない日程、ダブルブッキング、馬に乗れない老家臣、幕府の規定人数オーバー、息子の行列を豪華にしたい藩主の親心と財政難…。藩の目付役が書き残した詳細な記録を繙き、吉田藩士たちの奮闘ぶりから働く武士のリアルな姿を浮かび上がらせる。

著者等紹介

久住祐一郎[クスミユウイチロウ] 
豊橋市美術博物館学芸員。1984年、新潟県生まれ。岡山大学教育学部卒業。同大学院社会文化科学研究科博士前期課程修了。
豊橋市二川宿本陣資料館学芸員を経て、現職。交通史学会常任委員

磯田道史氏推薦! 
「三河吉田藩の若殿様が参勤交代をした時の詳細な記録が発見された。この古文書をもとに参勤交代の驚くべき実情が明らかにされる」 

――(本書「はじめに」より) 
江戸時代に何万回と繰り返された参勤交代のうちのたった一回に焦点をあて、残された古文書を読み解いていくことでその実態を紹介しようという、きわめてミクロな視点の本である。
しかし、ミクロな視点だからこそ見えてくるもの、知ることができるものも多い。電話やインターネットのような通信手段のない江戸時代で、何百人もの宿泊場所をどうやって予約していたのか。
道中で発生した様々なアクシデントにはどのように対処していたのか。全国各地で日常的に繰り広げられていたが、現代の私たちにとっては知らないことだらけの参勤交代の実態が浮かび上がってくる。 

――(目次より抜粋) 
第1章 若殿と左源太 
  大嶋左源太豊陳/〝若殿〞松平信宝/山椒は小粒でも辛い/松平伊豆守家と「島原」 
第2章 参勤交代アレンジメント 
  殿様は〝タンキ〞/若殿のお国入り/「御意」を示す殿様と行列人数/左源太登場/先例と現実の間で/道中法度を叩き込め/宿のご予約はお
  早めに/吉田藩にもあった『超高速!参勤交代』 
第3章 〝サンキュー〞におまかせ 
  派遣で成り立つ大名行列/〝サンキュー〞とは何者か/島原御陣200年記念式典/専属契約の秘訣/山々安全、川々大水 
第4章 必読!参勤交代マニュアル 
  荷物は馬に積んで逃げよ!/川札の値下げ交渉/宿割役人VS旅籠屋/宿割役人はつらいよ/旅費節約のしわ寄せは御供に/紛失物は金で解決?/
  お供のアクシデント/殿様の一大事
第5章 若殿様のお国入り道中 
第6章 その後の三河吉田藩と大嶋家 


 
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■「■御侍帳・家紋から考える」を考える。

2019-05-05 18:50:07 | 自分史

「■御侍帳・家紋から考える」を3回にわたりご紹介した。「4」もいつでもよい状態になっているのだが、少々問題が起きて躊躇している。
これは「御侍帳(家紋付き)」をベースにしてご紹介し、該当するお宅について「肥陽諸士鑑」で補強している。
家紋が両資料でまったく同じでもないケースがあるし、あったりなかったりすることもある。
処が、「御侍帳(家紋付き)」には記載ないお宅の史料が「肥陽諸士鑑」に記載されていることが判明した。
当然、逆のケースもある。
この二つの史料の明らかな差異は、これらの史料の政策当時の当主が知行取ではなかったことが影響しているのではないかと気づいた。
つまり、幼少で家を継ぐ場合そのままの知行が継承されず、ある年齢に至る迄「切米+扶持昧」が支給される場合があるからである。
さてどうしたものかと思案している所である。

じつは「御侍帳(家紋付き)」を1頁ずつご紹介しているのだが、これが65頁あるから65回を要するわけだが、このままではいくまいと思っている。
1回目迄遡り、「御侍帳(家紋付き)」と「肥陽諸士鑑」合体させなければ、「我家のことが紹介されていない」とクレームが来そうな気配である。
大いに厄介なことだがやらずばなるまいと思い至った。1~3回については夫々追加記事を挿入することにして、4回目以降は正規にご覧いただくことにする。
ご理解をいただきたい。

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■沢村大学の「起請文」

2019-05-01 09:59:45 | 自分史

 平成26年11月1日熊本大学付属図書館がリニューアル1周年の、同館恒例の「貴重図書展」で「誓いを立てる武士たち‐細川家血判起請文の世界」が催された。
その図録「解説目録」に沢村大学の「起請文」は紹介されていた。そこには「沢村大学と細川三齋ー三齋の仕打ちを生々しく」というタイトルがつけられている。
私は訳のわからぬタイトル仲介ではないのか・・・をつけてブログでご紹介した。(自分自身意味が判らないでいる)
私はこの写真を拡大して読み下しに頑張ったみたが、写真が鮮明でないこともあって判読できない部分が多く徒労に終わっていた。

 この起請文は八代市立博物館・未来の森ミュージアム主催の平成30年度秋季特別展示会 ザ・家老 松井康之と興長~細川家を支え続けた「忠義」~ 展に出品され来場者の注目を浴びていた。
この展覧会の「図録」にはありがたいことに釈文が紹介されている。
そしてこの図録においてはこの起請文は「主君(三齋)を見限る」というセンセイショナルなタイトルがつけられているが、まさにその内容は激烈であった。

自分の中途半端な読み下しを再度ながめながらも、ようやく全文を確認することが出来た。その全文をご紹介しよう。

                起請文前書之事
            一私儀 三齋様へ重畳御奉公申上ニ付 結構ニ被召仕
             公儀幷御国之御仕置等迄御為を仕候処ニ 松井右近と
             申者 是も御懇ニ被召仕候 彼者ねいものにて 御家中之
             妨ニ罷成候 第一私と間悪敷御座候 其比私ハ江戸・
             駿府・京都方々御供御使ニ参申候ニ付 加々山隼人御国
             迄ニ罷居御仕置仕候處ニ こもう共御座候を私承届
             せんさく相極 銀米大分上納仕せ候ニ付 其意趣を
             存加々山一類之者共引合候て右近か後見を仕さゝへ申候
             儀を御承引なされ 様々私を御痛被成候段之事
            一慶長十八年ゟ私知行被召上 へい門仕罷居候を
             光壽院様以御侘言 元和二年ニ知行返シ被下 従前へ
             罷出候事
            一其時分走り可申哉と被思召候てや 私母七十餘ニ
             罷成候を人質ニ被為取 三ヶ年之間 佐渡守被成御
             預候事
            一右三年之内ニ江戸御普請之役人を無足ニて仕立
             御普請相勤申候事
            一大坂冬之御陳 是又無足にて人数仕立申候て
             私儀へい門にて罷居申候事
            一御国之仕置私仕候て 諸費用なと承届候内ニこもう
             仕候とて 加々山寄子福田善右衛門・抜並宗為と申
             者ニ算用御聞直させ候へ共 私手ニかけ米銀拂
             不申 人之算用承置申事ニ御座候ヘハ 毛頭こもう・
             ゑこ無御座ニ付 数年大分之算用にて御座候へ共
             数月かゝり 志水九郎左衛門尉所にて少も無滞仕渡候て
             其/\返号取申 于今所持仕候 然處ニ私数年
             たくわえ置候銀 御家中ニ借置候を 不得御意借
             申候とて不残被召上候事
            一三齋様御隠居なされ候節 何も御家中歴々御
             隠居へ望申候へ共 右之段無御情奉存 又 忠利様
             御恩深ク御座候ニ付 私望不申上候を御にくミ候て
             殊外御腹立之由候処ニ 私知行ニ中國ゟ参候女
             御座候を召仕置申候 御代替りニ私知行
             三齋様御領ニ罷成候ニ 彼女遅返シ申との御たゝり
             つよく御座候故 忠利様以御内意 私を松平
             宮内様へ被成御預候 誠御家之御取立にて御座候ヘハ
             片時も他国仕私にて無御座候処ニ 外聞実儀迷惑ニ
             奉存候へ共  忠利様御内意忝奉存候て他国仕候事
            右之段々にて御座候故 奉對 三齋様 慮外之言上之
            様ニ御座候へ共 忝奉存候儀無御座候 件之さゝへを以 右
            私ひつそく仕内及飢申段  忠利様御へや栖之
            節被 聞召付 私氣つき不申候様にとの 御諚にて
            御隠蜜にて節々御薬被為拝領 又金銀米を度々
                                  拝領仕 其上にも私似合之道具共御座候迄他方へ
            被遣 中々御心付不淺 御情之程可申上様無御
            座候ニ付  三齋様へ至于今内縁之以才覚も終ニ御
            侘言申上候儀共毛頭無御座候ニ 今度従 三齋様
            殿様へ之御書ニ御供ニ被 召連候様にとの儀 何共
            難心得奉存候 第一 妙解院様御詞之筋目も御座候故
            八代ニ参候儀如何ニ奉存候 私事 殿様之御事
            一筋ニ奉存罷居候故 三齋様へ不罷出候とても不
            苦奉存候へ共 如何様共 御諚次第にて御座候 自然
            へんしゅ之者共ハ以内縁御侘言申上たる事も候哉と
            申儀も可有御座と奉存 乍恐私心底之程只今
            以罰文申上候 此等之趣宜被仰上可給候 以上
                 右於偽申上者
                (略 起請文罰文)
                 
                 寛永二十年
                    正月十一日 沢村大学助 花押・黒印
                      林 外記殿

 何度も/\も読み返しているが、沢村大学の心の闇を窺い知ることは出来ない。
 

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■忠利→光尚代の家禄の変遷

2019-04-27 10:13:58 | 自分史

         肥後御入国宿割帖          真源院様御代御侍免撫帳           寛文四年六月・御侍帳          
   寛永9年12月・忠利代          慶安元年・光尚代               光尚代

・ 25,000石 長岡佐渡(松井興長)     → ・30,000石 長岡佐渡興長         → ・30,000石 長岡佐渡      
・        長岡式部少輔(松井寄之)→      未・家督(寛文元年家督)      → ・現米3,300石 長岡帯刀(未・家督)
・ 15,000石 有吉頼母助       → ・ 18,500石 有吉平吉英貴       → ・18,500石 有吉内膳
 (10,000石 長岡河内  八代・三齋付家老                 離国     )
・   6,500石 長岡大監物(米田)   → ・ 10,000石 長岡監物是季         → ・10,000石 長岡監物
・ 5,000石 長岡勘解由(沼田)   → ・ 5,000石 長岡勘解由延之      → ・ 5,000石 沼田小兵衛
・ 5,000石 志水伯耆        → ・ 6,000石 志水新之丞恵重      → ・ 6,000石 志水伯耆
・ 5,000石 小笠原備前       → ・ 6,000石 小笠原備前長元      → ・ 6,000石 小笠原民部少
・ 3,200石 長岡右馬頭       → ・ 3,000石 長岡右馬助之直(三渕家ニ代)→・ 4,000石 山名弥三右衛門(三代之政)
・ 3,000石 清田石見        → ・ 3,035石 清田石見乗栄       → ・ 3,000石 清田石見
・ 3,000石 氏家志摩        → ・ 3,000石 氏家志摩元高       → ・ 3,000石 氏家志摩
・ 3,000石 南条左衛門       → ・ 1,500石 南条大善元信       → ・ 4,000石 南条左近(光尚実弟)
・ 3,000石 沢村大学助       → ・ 5,000石 沢村大学吉重 
・ 1,500石 松井宇右衛門      → ・ 6,000石 沢村右衛門友好(吉重養子)→ ・10,000石 沢村宇右衛門
                     ・ 5,000石 上月文右衛門景信
                     ・ 5,000石 平野弥次右衛門長知    → ・ 3,900石 平野茂左衛門 寛文五年御暇
                     ・ 3,435石 大木織部兼憲       → ・ 3,435石余 大木織部
                     ・ 3,008石 奥田権左衛門正慶     → ・ 3,008石 奥田権左衛門
・ 3,000石 三渕(朽木家ニ代)内匠助                         
                     ・ 3,000石 佐久間半丞
                     ・ 3,000石 尾藤金左衛門知成     → ・ 3,000石 尾藤金左衛門
                     ・ 2,822石 朝山斉助         → ・ 2,822石余浅山次郎左衛門 寛文九年御暇
                     ・ 2,500石 伊丹次左衛門景重     
                     ・ 2,500石 伊丹半弥                       万治二年知行差上
・ 2,500石 谷 主膳正
・ 2,500石 後藤市十郎
・ 2,500石 中津海三右衛門
                     ・ 2,150石 田中左兵衛氏久      → ・ 4,150石 田中左兵衛
・ 2,150石 道家帯刀
                     ・ 2,000石 浅山修理安末       → ・ 2,000石 浅山清右門                     
                     ・ 2,000石 出田左兵衛
                     ・ 2,000石 坂崎清左衛門成方     → ・ 3,066石 坂崎清左衛門
                     ・ 2,000石 西郡要人
                     ・ 2,000石 早川弥五右衛門
                     ・ 2,000石 平山三郎左衛門
(於豊前忠興代12,000石 藪内匠)
・ 2,000石 藪 図書        → ・ 2,000石 藪 図書正成       → ・ 2,000石 藪 図書
・ 2,000石 藪 市正        → ・ 2,000石 藪 市正正直       → ・ 2,000石 藪 小吉
・ 1,500石 寺尾左助          ・ 1,050石 寺尾九郎左衛門      → ・ 1,500石 寺尾九郎右衛門
                     ・ 1,500石 長岡道伯(初代三渕重政) →     同左    
                     ・ 1,500石 松野右京正照       →     同左    
                     ・ 1,500石 有吉内膳正貞之      →     同左    
                     ・ 1,500石 三宅藤右衛門重元     →     同左     
                     ・ 1,500石 長尾伊織         → ・ 1,500石 長岡伊織
                     ・ 1,500石 立石市兵衛        → ・ 1,500石 立石助兵衛     
                     ・ 1,500石 岩越惣右衛門       →     同左     
                     ・ 1,500石 田中兵庫氏次       →     同左
                     ・ 1,500石 林 外記         →     同左         後殺害さる
                     ・ 1,500石 加賀山権四郎幸白     → ・ 1,500石 加々山権三郎
                     ・ 1,500石 谷 内蔵丞        →     同左
                     ・ 1,500石 奥田源左衛門

 

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■独り歩きを始めた「新・肥後細川藩侍帳」

2019-04-21 15:45:45 | 自分史

 インターネットで公開している「新・肥後細川藩侍帳」が時折、いろいろな書籍や、論考その他に引用されているのを知り、少々背筋が寒くなる思いがする。
インターネットにUPした以上は、良きにつけ悪しきにつけ共有の財産だと考え、私もあちこちから引用させていただいていることだし、お使いいただくことに異議を唱えるものではないが、このサイトがまだ未完であるがゆえに、内容の錯誤なども有り、引用された書籍や論考にかえって迷惑をかける結果を恐れているのである。
私はいたって小心者だから、参考資料やURLとして当方サイト名がこれらに掲載されるのを見ると、心臓がバタバタする思いである。
何度かブログでも申し上げている通り、「新・細川藩侍帳」は改変を続けているのだが、その都度UPという訳にはいかず、まだまだ間違いがあるまま独り歩きをしている。
かって東大史料編纂所刊行の「大日本史料ー細川家史料」の人名索引のリストを作成してサイトにUPしたことがある。
これはさすがに史料編纂所から削除のご指摘を受け、すぐさまサイトから削除した。
しかしわがサイト「肥後細川藩拾遺」からは消えているが、じつは残骸がさまよっていて、特定の名前を打ち込むとその残骸に出会うことがある。
システム上この世界から消え去ることは出来ないのであろう。
ブログに於いても単なる歴史好きの戯言では済まされずに、過去の投稿についても間違いを見つけては朱書きで訂正を入れたりしている。
間違いに気づかれながらもお見逃し頂いているのであろし、考えてみれば恥を晒しているようなものである。
このサイトを立ち上げたときに、ある方からしっかり出典をあきらかにすることをご指摘いただいた。
それは厳に守っていかなければと心している所である。ときおりとんだことに足を突込んだものだと思うときがある。

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■私の歴史狂いの発端

2019-04-20 06:25:36 | 自分史

 私が古文書に触れた最初は、わが家に残る「先祖附概要」という和綴じ文書である。
眺めつすかしつしてもミミズが張ったような文字を読み解くことはできず、断片的にしか理解できなかった。

しかし、家祖である磯部氏が織田信長の家臣だったという記述や、その後毛利氏に仕えたこと、また浪人して下松に居住していた折忠興公が旅の途中で度々お寄りになり、お休み所を提供したり食事を差し上げたりしたことなどが判明した。
下松居住中での細川家との関りが、磯部長五郎とその弟で我が家の祖である磯部庄左衛門が豊前に召し出されるという結果をもたらした。
長五郎が忠興公に殉死した蓑田又助を介錯したことは、森鴎外の小説にも取り上げられ是も驚かされた。
ドラマでおなじみの水戸光圀公のご家来・助さん(佐々助三郎)の名前を見つけたのも大変な驚きで、助三郎が来国した際二代目太左衛門が道案内を勤めたことを後で知った。
そんな記述に触れるうちに、何とか古文書を読めるようになりたいと願望するに至った。

 その間、熊本大学の松本寿三郎教授の「細川家侍帳」、川口恭子客員教授の「細川家家臣略系譜」が相次いで出版され、これを拝見するに及んで大いに触発された。
独自で一年ほどをかけて「新・細川家侍帳」を作り、又HPを立ち上げるとともにこれをご紹介することにした。もう10数年前の事である。

これが序々に思いもよらぬ反響を得ることになり、現在の私の活動の原動力になっている。
いろんなお宅からご先祖調査のご相談があったり、又先祖附の読み下しの依頼が相次いだ。
有難いことにその後もそれぞれのお宅との交流が続いている。

 一方我家の始祖磯部家については相当の努力をし、いろいろ情報を頂戴もしたが、現在に至るも確たる状況には行きつかないでいる。
当家の先祖附の解読については、大叔父が親交のあった川口恭子先生にお願いしてお手を煩わしたらしく、先生筆跡の読み下し文がコピーとして手元にある。
これを手本に私の古文書解読の一歩がスタートした。

 古い資料との出会いは不思議な偶然がある。
かってNHKの「ファミリーヒストリー」で歌手の財津和夫氏を取り上げるにあたり、私はNHKから資料の提供の依頼を受けた。
財津家は数代前に養子に入っておられ、NHKではそれ以後の新しい時代を中心に編集され、古い資料は役に立たなかったようだ。
図書館通いを重ねる中で財津家の親族に平川家があることが判り、この史料を調べるうちに、財津家の親族とは全く縁のない別の平川家の存在を知った。
この平川家が当家とルーツを一にすることが判り、その資料を得て当時大いに興奮したことであった。平川家文書
初代の兄・長五郎に「熊」なる女子があったことは先祖附にも記載されていて存在は承知していたが、この熊(のち龍源院)が忠興公の元にあり、八代の塩屋観音の復旧に尽力したりしている。
また熊本に於いて女ながら宗嚴寺を創建しているが、このことは熊本史談会の若い友人N君がもたらしてくれた情報である。宗嚴寺

先祖附からは伺えぬこのような貴重な情報が得られると、このような駄文を書き残そうと思わせてくれる。

 先祖附には一定の形式があるようで、各家のものをいくつも読んでいると自然と古文の読み下しは出来るようになった。
全くの独学だが、「くずし字辞典」とにらめっこをしながらも、現在ではいろんな古文書の提供を受けたり、又自らも手に入れたりして楽しんでいる。
その後は家族もあきれる歴史狂いと相成った。

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■私塾「修道齊」

2019-04-15 18:12:02 | 自分史

 齢を重ねわが人生もそうそう長くはないことを思うと、わが家の歴史に全く興味を持たない子供たちのためにご先祖様の事跡を書き残しておかなければならないと、「自分史」というカテゴリーを設けて駄文を書き残すことにした。
これは人様にお見せすべきことではないのかもしれないが、ご容赦いただきたい。

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 もうずいぶん訪ねていないが、私の本籍地城山下代には曾祖父の顕彰碑が立っている。
                     
維新後の混乱が落ち着いた明治十二年、曾祖父・又太郎はこの場所にささやかな「修道齊」という漢学の私塾を開いている。明治廿年まで続いたらしい。
また現存するかどうかも承知していないが、この地区の鎮守のお宮(下代菅原神社?)を建立したらしい。
そんなことがあって、塾生や地元の人たちが建立されたものであろう。恥ずかしながら碑文にどのようなことが描かれているかも承知しない。拓本を取りたいと思うが大きな碑文であり、どうしたものかと思案している。
明治十六年に隠居し、十二歳の祖父が家督しているが、しかし隠居をしたといっても祖父を頭に三男一女がある。
また昭和22年廃止になるまでの「家制度」の中であり、いろいろな重責を担っていたのであろう。
経済的には曾祖父が私塾の経営をもってこれらを育てたという事になる。
細川護美公(韶邦・護久弟)に近侍していたこともあり、維新後護美公から京都へ出ての就職の斡旋があったと聞くが、何故かこれを辞退している。
慶応三年に上田久兵衛の長女・晩稲と結婚しているが、久兵衛からは「藤婿」(姓がS藤であるが故)とよばれ可愛がられている。
又太郎は時習館に学び居寮生にも選抜されているから舅殿のお眼鏡にかなったのだろうか。
明治十年の西郷の熊本進軍の際、過去に川尻奉行を勤めた久兵衛は、川尻住民から請われていわゆる「川尻鎮撫隊」を結成してして住民の安寧に努力した。しかしこのことが西郷に与したという疑いとなり刑死に至るという皮肉な結果となった。曾祖父も行動を共にしたと思われるが詳細は知りえない。
明治三十年三月には旧藩関係者からの要請でもあったのか、横井小楠も関わっている江戸留守居役・吉田平之助暗殺事件後の子息による仇討ち事件に関する「吉田傳太復仇一件聞取書」を書きあげている。これは当時曾祖父が穿鑿役を勤めていたことによるものであり、又太郎の死(明治三十七年一月)の七年まえのことである。
横井小楠が現場を離れて藩邸まで刀を取りに行った有様なども記されている。誠に不名誉な話だが、小楠を語る人たちはこの文書は避けて通るようだ。

長男である祖父は長じて平壌に赴き「朝鮮語学校」の校長を務めたりしているが、研究者の論考などを読むと「国士」だとされている。
「東亜同文会」との関りが深いように思えるが、やはり細川家との関りが匂うし、のちには細川家の家政所に家扶として勤めた。

                        


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