津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■三渕家家紋、名前は・・?

2022-11-11 06:55:59 | 家紋

                                                                          

   次回「御侍帳・家紋から考える(58)」でご紹介する細川幽齋公の御実家の三渕家の家紋は上のようなものである。
約9㎜角の小さなものが紹介されている。一般の家紋帳などでは紹介されていない。
この家紋は細川家の六つの家紋として綿考輯録に紹介されているが、一発でお分かりの方は、大変な細川家通と認定申しあげる。
取り上げている家紋は「御侍帳(家紋入り)」(熊本藩侍帳集成所収・15)なのだが、原本にどのような大きさで書かれているのかはよく知らないが、小さいながらよく雰囲気は表されている。拡大してみよう。

                  

 正式な名前は「岩に鶺鴒紋(岩上鶺鴒紋)」という。細川家では今ではお使いになる事はないと思われるが、記録として残されている。
もっとも綿考輯録には次のように紹介されているのだが・・・・(左下、最近ある有料家紋サイトではこの細川家の六つの家紋として紹介されているようだ。)

                                                                   

 「石叩き」ともよぶ鶺鴒、我が家の近所でも年中よく見受ける。長い尾で盛んに地面をたたいているが何のため?
ちなみに伊達政宗の花押が「鶺鴒の花押」と呼ばれてつとに有名、細川忠興宛の政宗書状にも雄渾な花押が見られる。
            ■なんでも鑑定団「細川忠興宛 伊達政宗書状」

又、過去のヤフオクでは「岩上鶺鴒図」等が出品されていましたね~。画讃は本居宣長でした・・・・

              

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■御侍帳・家紋から考える(57)

2022-11-10 08:37:46 | 家紋

                         
          新・肥後細川藩侍帳【き】の部

木村八之允は、(南東48-13)木村辰二家の5代目。家紋は「隅立平角に村文字紋」

木村嘉源太は、「細川家家臣略系譜」に名前が見つからない。家紋は「菱に杏葉紋」「三つ矢筈紋」

木村唯蔵は、(南東48-22)木村得太郎家の4代目、郡代・副奉行・奉行職などを勤めた。
        家紋は「丸に違い鷹の羽紋」「七つ割平四つ目紋」

木岐村次は、御船頭(南東58-51 船)木岐武左衛門家の7代目。家紋は「四つ石紋」「   」

木原彦左衛門は、(南東48-12)木原勘七家の5代目。家紋は「丸に  」「三つ目結紋」  

清原仁五次は、(南東48-24)清原仁吾次家の5代目か。家紋は「隅切り平角に抱え柊紋」

木野庄兵衛は、(南東48-15)木野庄九郎家、庄兵衛名乗りの人が多く人物の特定に至らない。家紋は「五徳紋」

貴田權内は、加藤清正十六人衆の一人・貴田孫兵衛を祖とする(南東48-6)貴田権内家の7代目・寿三郎(権内)か。
       家紋は「二つ地紙紋」?  

衣笠十右衛門は、(南東48-11)衣笠十九郎家の8代目・十右衛門(十之允)か。家紋は「四つ目菱紋」

清田源左衛門は、主計鎮乗(入道寿閑)を祖とする(南東48-8)清田弥八郎家の5代目・金次郎・親房(養子 実・堀内助五郎弟 源左衛門)
       清田氏は大友一族で、家紋は「杏葉紋」

清田角次郎は、主計鎮乗の兄・五郎大夫を祖とする(南東48-9)清田 直家の7代目。家紋同上

清田儀左衛門は、同上分家(五郎太夫流四代・清田惣右衛門・弟)又右衛門正常を祖とする(南東48-10)清田 本家。
     儀左衛門名乗りの人物が多く人物特定は出来ない。家紋同上

清田茂左衛門は、主計鎮乗の三男家といわれる(南東48-4)清田丹治家の6代目・新九郎・安明(茂左衛門)。
      家紋は「丸に  」 

                    +--鎮隅(天正15年・1587)豊前長野一揆に出陣し、戦死
           ●      | 
               ‖-------------+--五郎大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(二百石・直家)
      清田掃部鎮忠 (寿閑) ・
           ‖-------------+--●(夭折2歳?)         
 大友宗麟-----ジェスタ       |               
           ‖       +--マグダレナ(殉教・列福)(レオン・パジェス著、日本切支丹宗門史・下巻)
      (一条兼定)     |         
           ‖       +------凉泉院    大坂陳一番槍高名・石見
      (一式氏女)         ‖--------+--七助乗栄(室・忠興妹伊与の娘)・・・・・・・・・・・・・→(二百石・弥八郎家)       

                 +----主計鎮乗    |                            
                 |         +--与三右衛門(刑部家附)
                 |         |   
                 |         +--左近右衛門
                 |                      |
                 |         +---幾知(圓通院)      +--立孝・・・・・・・・・・・・・→(宇土細川家)
                                                |                    ‖ -----------------|
                                                |               細川忠興            +--興孝・・・・・・・・・・・・・→(細川刑部家)
                 |
                 | 実兄                  初代               
                 +----志賀親次------虎左衛門------少兵衛・親勝・・・・・・・・・・・・・→(二百五十石・志賀太郎家)

                      (細川家家臣志賀氏系図、サイト白鷺×城下町を参照されたし)

 

清原寿吉郎は、(南東48-23)清原 次家の6代目。家紋は「丸に抱え柊紋」

清成四郎助は、田原刑部少輔を遠祖とする(南東48-17)清成武街家の7代目。家紋は「左三つ巴紋」

北里五郎左衛門は、(南東48-19)北里八郎家の5代目・ 八郎(五郎左衛門)。家紋は「左三つ巴紋」「檜扇紋」 

北村常太郎は、(南東48-7)北村甚十郎家の8代目・常太郎(甚左衛門・甚九郎)。家紋は「三つ丸紋」

北垣市郎左衛門は、(南東48-18)北垣准次郎家の7代目・良八(市郎左衛門)。家紋は「右一つ丁子巴紋」

北川藤作は、(南東48-20)北川荘三郎家、5・6代目が同名で人物特定できず。家紋は「地紙に  」

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■御侍帳・家紋から考える(56)

2022-11-07 06:42:14 | 家紋

                                 

                                                    新・肥後細川藩侍帳【さ】の部

財津大助は、(南東46-11)財津儀角家の8代目。家紋は「鬼浜洲紋」

財津尉太は、(南東46-21)財津十次郎家の6代目。家紋は同上

財津小十郎は、(南東46-18)財津藤右衛門家の5代目。家紋は「鬼州浜紋」「州浜紋」

財津才蔵は、(南東46-20)財津市之進家の6代目。  家紋は同上

財津猪兵衛は、(南東46-12)財津九八郎家の10代目。家紋は「鬼州浜紋」

財津三左衛門は、(南東46-16)財津源之進家の7代目・日田山左右 名は永晟、三左衛門と称す。元財津氏晩年日田山左右と改称す。
      藩に仕へ食禄百五十石。祖父以来八代御城付なりしが其孝心を賞せられ、番士となりて熊本に出さる。後天守方目付、
      同支配頭を勤む。又藩の旧記に精しく藩譜採要十三冊を撰す。安政二年八月十三日没す。享年七十五。墓は寺原壽昌寺。
      家紋は「鬼州浜紋」「子持ち隅入り立角にもみじ紋」

財津団平は、(南東46-14)財津八郎家の5代目。家紋は「鬼州浜紋」「子持ち隅切り立角に州浜紋」

財津善内は、(南東46-13)財津善之允家の6代目。家紋は「四つ州浜紋」

財津団四郎は、(南東46-17)財津新八家の6代目・兵内(團四郎)。家紋は「隅立角に州浜紋」

財津永八は、(南東46-15)財津民助家の8代目・栄八か?。家紋は「一つ右丁子巴紋」

財満七右衛門は、(南東47-9)財満七左衛門は7代目・藤作(七右衛門)。家紋は「丸に(満の氵なし)文字紋」

指田次郎左衛門は、「細川家家臣略系譜」に記載なし、指田次郎左衛門家の初代か??。家紋は「隅切り立角に井桁紋」

境 喜三次は、(南東45-30)境 任八家の初代??。家紋は「丸に地紙紋」

                                                    新・肥後細川藩侍帳【き】の部

木下三郎右衛門は、豊臣秀吉室高台院の甥・日出藩主木下延俊の三男を祖とする、(南東48-1)木下嘉納家の7代目・3,000石、小姓頭、番頭、留守居大頭などを勤めた。
     家紋は「替り八つ日足紋」「木下家独楽紋」

木村万之允は、(南東48-2)木村半平家の6代目・万之助・豊信(万之丈)。中小姓頭、小姓頭、留守居番頭、佐敷番頭などを勤めた。2,500石。
     家紋は「平四つ目結紋」「松笠菱紋」
木村清兵衛は、同上分家、(南東48-3)木村十内家の4代目・百十郎(清兵衛)。家紋は同上

木村恵一右衛門は、(南東48-16)木村恒彦家の6代目・一郎太郎(恵一右衛門)。家紋は「隅切り立角に違い鷹の羽紋」

木村吉九郎は、(南東48-14)木村荘三家の5代目。家紋は「松笠菱紋」「丸に(T)文字紋」

木村九郎吉は、(南東48-5)木村又三郎家の6代目。家紋は「丸に三つ浜洲紋」「隅切り平角に木文字紋」

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■御侍帳・家紋から考える(55)

2022-11-05 06:52:26 | 家紋

                                   

             新・肥後細川藩侍帳【さ】の部

佐方伝吾は、【丹後以来】(南東47-18)佐方弥三郎家の5代目・傳吾・昭信(養子 実・大石新五右衛門二男 室・佐方源右衛門女)。
      家紋は「丸に三つ星」  

佐方庄三郎は、【丹後以来】(南東47-5)佐方諏訪人家の7代目・廣太(庄三郎)。家紋は「隅切り立角に片喰紋」

相良孫次郎は、(南東45-19)相良新八家の6代目。家紋は「 ? 」「 ? 」

相良安之允は、(南東45-24)相良大次郎の6代目・安之允(貞之進)。家紋は「三つ左巴紋」「三つ丸紋」

嵯峨九郎次は、中院中納言通勝を家祖とする【丹後以来】(南東45-7)嵯峨三郎右衛門家の5代目である。
        家紋は「笹竜胆紋」、これは中院家の「六つ竜胆車紋」に倣ったものと考えられる。       

桜間吉右衛門は、(南東45-18)桜間慎之允家の3代・群之助(吉右衛門)。家紋は「丸に三つ覗き楓紋」??  

桜井庄次郎は、(南東47-16)櫻井才蔵家の7代目。家紋は「五徳紋」「平三つ石紋 ?」

桜井藤蔵は、       不詳

崎村茂右衛門は、(南東47-15)崎村常雄家の4代。家紋は「七宝に左巴紋」

匂坂七右衛門は、(南東47-6)匂坂平右衛門家の6代目。家紋は「三つ盛亀甲に唐花紋」 

匂坂作馬は、同上分家(南東45-15)匂坂平吾家の5代目・寿吉郎(作馬)。家紋は同上

山東平兵衛は、(南東45-12)山東平兵衛6代目・忠三郎(次左衛門、平兵衛)か。家紋は「花形五瓜紋」

猿木軍兵衛は、(南東47-1)猿木勝馬家の9代目。「隅立井桁に雁金紋」

猿木左納は、勝馬家の分家(南東47-2)猿木何右衛門家の6代目・左内(左納・彦作)。家紋は「丸に雁金紋」
     何右衛門は諱・宗那、次弟西村宗系・三弟小堀平七・四弟城義核等は小堀流踏水を能くし、その発展に尽力した。  
猿木角右衛門は、同上左納家の分家、(南東47-3)猿木角右衛門家の7代目・弥熊(角右衛門)。家紋は同上

猿渡伊平太は、(南東45-22)猿渡信左衛門家の6代目。家紋は「替り柏紋」?  

境野丈之助は、(南東45-9)境野素兵衛家の6代目、奉行副役などを勤めた。家紋は「折入り菱に左三つ巴紋」「中開き傘紋」  

里 杢之助は、(南東47-7)里 志馬之助 家。同名が多く人物の特定に至らない。家紋は「丸に小の字紋」
      初代の祖父・杢之助(養子 実・宮崎伝四郎弟・九市郎)は、細川忠利に殉死した。              

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■御侍帳・家紋から考える(54)

2022-11-02 07:12:30 | 家紋

        

               新・肥後細川藩侍帳【さ】の部

■斎藤又大夫は、(南東45-6)斎藤勘助家の8代目・又大夫(勘助)1,200石。家紋は「地紙に木瓜紋」

斎藤三郎は、(南東47-13)斎藤権之助家の7代目郡代などを勤める。父は斎藤芝山。家紋は「桔梗紋」

斎藤新左衛門は、「細川家家臣略歴」に名前が見当たらない。家紋は「丸に剣付片喰紋」

佐藤仙九郎は、(南東45-2)佐藤仙右衛門家の7代目・仙太郎(仙九郎)か。家紋は「六つ丁子紋」「反り菱に菱入れ子紋?」

佐藤寿八は、(南東45-16)佐藤七之助家の7代目。家紋は「二つ左巴紋」

佐藤鼎助は、(南東45-14)佐藤作丞家の8代目。家紋は「隅切り立角に■■」

佐藤勝之助は、(南東45-28)佐藤勝太郎家の4代目、郡代などを勤めた。家紋は「隅切り平角に毬挟み紋」

佐野次大夫は、(南東47-4)佐野亥一郎家の7代目か。家紋は「丸に違い鷹の羽紋」「梅鉢紋」
佐野左大夫は、(南東45-4)佐野権之助家、左大夫名乗りの人物が多く人物特定は出来ない。家紋は同上

佐田造酒助は、(南東47-8)佐田彦之助家の8代目・右十(造酒助)。名は英景、右州と称し、造酒之助と改む。食禄二百五十石、小姓役、使番、中小姓頭
      小姓頭等を勤む。多芸多能のひとにして俳辭、散楽、蹴鞠、茗理、篆刻、種樹等皆能くせざるはなし、又頗る剣技に長ぜり。
      文化十四年十二月五日没す。享年五十九。家紋は「左三つ巴紋」尚息・右平は奉行職を勤めた。

佐分利権平は、(南東45-3)佐分利加左衛門家の8代目・加左衛門(権平)文政三年八月(三拾挺頭)~文政七年九月 鉄炮五十長頭・後比着座ニ転。
      家紋は「   」「左一つ巴紋」
佐分利吉左衛門は、同上分家、(南東47-11)佐分利吉十郎家、同名が多く人物の特定が出来ない。家紋は「隅切り平角に■■」

佐分利運平は、(南東47-12)佐分利次郎兵衛家は7代目。家紋は「三つ扇紋」

佐分利平八は、同上分家、(南東47-10)佐分利彦右衛門家、6代8代が同名で特定できない。家紋は「片喰紋」

佐々次郎右衛門は、(南東45-20)佐々少左家の7代目・保(次郎右衛門)か。家紋は「角五徳紋」

佐々源大夫は、佐々成政の姉の子孫、(南東45-21)佐々陸助家の4代目・源大夫(勘兵衛)。曾孫に佐々干城・友房などがある。家紋は「蛇の目紋」

佐々布仙助は、佐々布貞之允家の5代目・岩太(八右衛門・仙助)か。家紋は「 不詳  」

佐々布八助は、(南東45-23)佐々布又三郎の8代目。家紋は「 不詳 」「隅切り平角に六つ星紋」

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■御侍帳・家紋から考える(52)

2022-10-31 06:42:40 | 家紋

                             

                                                新・肥後細川藩侍帳【さ】の部

沢村権兵衛は、沢村大学吉重の義弟(妹婿)沢村権兵衛を祖とする【丹後以来】(南東46-2)沢村半之助家。権兵衛を名乗る人が多く人物の国定には至らない。
     家紋は「隅立平角に丸に三つ鱗紋」 
沢村八太郎は、同上二男家【丹後以来】(南東46-3)沢村才喜家の5代目である。
     家紋は「■■文字紋」(■■は円の三画目の縦線が上に突き抜けた形)

沢村八郎次は、沢村大学嫡流二代宇右衛門・二男家【丹後以来】(南東46-4)沢村宇平家の7代目。家紋は「丸に鱗紋」   
沢村半兵衛は、沢村大学嫡流二代宇右衛門・三男家【丹後以来】(南東46-6)沢村孫七郎家の5代目・松喜(半兵衛)。家紋は同上。
沢村又作は、【丹後以来】(南東46-5)沢村脩蔵家の8代・又作(九兵衛、太兵衛・正常)。
     これは「細川藩家臣略歴(=先祖附)」によるものだが、「細川藩主要家臣系図」によると、若干の差異が伺われる。
     後日明らかにしたい。家紋は「隅平鉄炮角に■■文字紋」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(上記沢村五家は沢村大学・と下記沢村三家は中村甚右衛門系で系統を異にする)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

沢村彦作は、中村一氏の三男・甚右衛門の一族、後四流が沢村一門となった。(南東46-7)沢村弥次右衛門家の6代目。
      家紋は「丸に一文字紋」「 不詳 」
沢村武次郎は、同上(南東46-9)沢村儀之助家の7代目。家紋は「丸に一文字紋」「地紙紋」  
沢村権十郎は、同上【青龍寺以来】(南東46-8)沢村吉之允家の6代目。家紋は「亀甲に■■紋」「 不詳 」 

沢田勝次は、(南東45-17)沢田丈太郎家の5代目・勝次(勝左衛門)。家紋は「三つ石紋」

沢 源太郎は、(南東45-13)沢 荘次郎家の7代目。家紋は「丸に武田菱紋」「剣付片喰紋」

沢 八十郎は、(南東45-26)沢 弥門家の7代目・名は正博、楠木氏之兵法に精通し其師範となる。
     天保十二年二月十九日没す。年六十四。家紋は「杏葉紋」「一つ左巴紋」

坂崎数衛は、(南東45-1)坂崎 清家の10代目・直人(兵庫・数衛)か?。家紋は「碁盤紋」

坂口茂八郎は、(南東47-17)坂口騏十郎家の7代目・茂八郎(唯右衛門)。家紋は「一つ丁子巴紋」 

坂本丈大夫は、(南東45-10)坂本平左衛門家の3代目。家紋は「三つ盛左三つ巴紋」   

坂本平之允は、(南東45-11)坂本仁兵衛家の7代目。家紋は「毬挟み紋」

佐藤安平次は、(南東47-20)佐藤平四郎家の11代目・石松(安平次)。家紋は「二つ入れ子隅立角紋」

坂牧信八は、(南東45-5)坂牧栄之允家の8代目・信八(瀬左衛門)。家紋は「 不詳  」

坂本森右衛門は、(南東47-22)坂本休三家の3代・唯五郎(森右衛門・久右衛門)。家紋は「木瓜紋」

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■御侍帳・家紋から考える(51)

2022-10-29 07:01:24 | 家紋

                         

                                      新・肥後細川藩侍帳【あ】の部

新居市左衛門は、(南東44-21)新居七右衛門家の6代目・新居蝶夢 名は保輝、市左衛門と称す。時習館訓導及び所々の郡代と成る。
       弘化二年十二月廿六日歿す、年七十一。家紋は「丸に違い鷹の羽紋」「隅切り立角に揚羽蝶紋」

跡部平蔵は、(南東44-20)跡部平八家の7代目。家紋は「七宝に唐花紋」「隅立角に平四つ目結紋」

愛教四郎次は、(南東44-又24)愛敬四郎次家の4代目か。ここでは「愛教」とあるが「愛敬」が本当である。家紋は「梅鉢紋」

雨森清太夫は、(南東43-5)雨森糟一家の5代目・雨森浅之助 名は正房、浅之助と称し、後清太夫又荘右衛門と改む。藩に仕へ食禄
       百五十石、小姓組たり。大力の士にして奔馬をも抱き止め居たり。文化八年七月廿九日歿す。享年五十六。墓は河原町延壽寺。
       家紋は「丸に橘紋」

青地源右衛門は、(南東44-7)青地源七家の6代目・守次(源右衛門)。家紋は「一文銭紋」

青木左九郎は、(南東44-5)青木 競家の5代目・左九郎(養子 後・権之助)、何が原因か文政三年三月廿日御知行被召上候 高四百石とある。
       家紋は「松笠菱に丸紋」

青木純記は、(南東43-11)青木掟次郎家の7代目。家紋は「隅入り立角に鬼州浜紋」

秋山正作は、秋山玉山を初代とする(南東44-13)秋山儀右衛門家の3代目である。家紋は「薬研紋」

天野善左衛門は、(南東44-26)天野善次家。同名人が多く人物の特定が出来ない。家紋は「隅入り立角に四つ目結紋」  

天草十大夫は、天草氏の末裔(南東44-9)天草次郎吉家の7代目・郡八(後・十太夫・甚助・勘右衛門)か。家紋は「隅入角に隅立四つ目結」

粟津嘉次郎は、【青龍寺以来】(南東43-3)粟津九郎家の8代目・寿平太(後・嘉次郎・三郎兵衛)。家紋は「隅切り立角に七宝紋」 

綾部四郎助は、(南東43-10)綾部蹇吉家の6代目・素川 名は正典、通称四郎助、藩に仕えて奉行職となる。安政六年八月二十日歿す。年七十九。
      家紋は「丸に鷹の羽紋」

麻生喜左衛門は、(南東43-1)麻生喜一郎家の5代目か?。家紋は「抱き柏紋」?  

阿部多膳は、(南東43-19)阿部重五郎家。4・5代目が同名で人物の特定が難しい。家紋は「二つ丁子巴紋」

有馬彦七は、(南東43-26)有馬源内家の2代目。家紋は「細丸紋」

粟津権兵衛は、【青龍寺以来】(南東43-25)粟津 平家。同名の人が多く人物特定に至らない。家紋は「隅切り角に稲妻菱紋」 

安達仁左衛門は、(南東43-22)安達藤助家の2代目。家紋は表示なし。

          新・肥後細川藩侍帳【さ】の部

沢村宇右衛門は、沢村大学の養嗣子・宇右衛門(松井氏)を祖とする【丹後以来】沢村大学嫡流家の(南東46-1)沢村衛士家の8代目・宇右衛門友輔(養子 実・友顕弟正氏嫡子 宇衛)。家紋は「石持地抜きに鱗紋」「   」

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■御侍帳・家紋から考える(50)

2022-10-28 07:07:22 | 家紋

                             
            新・肥後細川藩侍帳【あ】の部

浅井理助は、浅井長政の子・万菊丸を祖とする(南東43-2)浅井新九郎家の5代・吉十郎(後・五左衛門・理助)。

朝山恩地は、(南東43-13)朝(浅)山亀太郎家の5代目・恩地(後・斎之助)。家紋は「亀甲に丙文字紋」
                      初代・斉助(景吉)は忠利の側近で2,822石小姓頭を勤めた、
      実兄は後水尾天皇の侍講を勤めた朝山意林庵である。
      2代目次郎左衛門は寛文九年の陽明学徒の追放事件に於いて御暇、京都に隠棲した。
      3代目は次郎左衛門の孫で齊茲公代の召し出しである。
                     

芦村八百八は、(南東44-6)芦村嘉左衛門家の7代目・八百八(後・十郎左衛門)1,000石。家紋は「丸に結び雁金紋」

芦田平吉は、(南東44-11)芦田七右衛門家の4代目・平吉(後・七右衛門)である。400石。
      家紋は「丸に浜洲紋」「丸に石竹紋」

寺生左助は、・・・・・・・ 誤植か(て)の部参照されたし・・・・・・

安藤十郎右衛門は、(南東44-12)安藤(東)十郎家。同名の人物が多く人物の特定が出来ない。家紋は「丸に登り藤紋」「細丸紋」 

安藤清助は、      不明

安東弥左衛門は、(南東44-10)安東(藤)弥太郎家の9代目・一八(弥左衛門)か。「丸に丸文字紋」

安東角左衛門は、(南東43-8)安藤(東)■也(■=(虫扁に芋・ばいや)家の4代目・貞之允(角左衛門)か。
       家紋は同上   

安東角之允は、(南東44-15)安東(藤)角之允家の4代目か。家紋は同上  

荒瀬市之允は、(南東43-9)荒瀬軍次家の9代目。家紋は「丸に一文字紋」「蛇の目紋」

荒瀬角兵衛は、(南東43-21)荒瀬番蔵家の7代目・角之允(角兵衛)。家紋は「隅切り垂れ角に地紙紋」

荒木助左衛門は、荒木山城系【丹後以来】(南東44-4)荒木慎十郎家の6代目・熊八(後・助左衛門)。
       家紋は「六角井桁に左巴紋」「隅切り平角に  紋」 

荒木善兵衛は、荒木村重の子善兵衛を祖とする【丹後以来】(南東44-8)荒木善右衛門家。善兵衛名乗りの人が多く人物の特定が出来ない。
       家紋は「木瓜紋」「   」 

荒木四郎助は、         不明
荒木万蔵は、(南東43-16)荒木新三郎家の4代目。家紋は「隅入り平角に菱紋」

荒木権平は、(南東43-24)荒木権内家の初代(新規創家)か?。「亀甲に浜洲紋」

荒見次郎助は、【丹後以来】(南東43-12)荒見慎之助家の6代目。「五つ木瓜紋」 

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■寺本家の家紋

2022-10-25 09:24:13 | 家紋

 今朝取り上げた■御侍帳・家紋から考える(49)にある寺本家の家紋が面白い。

      
 こちらは寺本亀蔵家の家紋だが、家紋帳で類似の者はないかと色々調べているがとんと判らない。
何となく竹の子模様に見えるなと思って色々ググっていたら、「抱筍紋輪島うるし箸」のサイトに行き着いた。
「抱筍紋」を一膳の箸二本にデザインしてあるという凝ったものだが、何となく似ている。
いずれにしろ「替り筍紋」ではないかと思っているが如何であろうか。寺本亀蔵家のご子孫に教えていただく外ない。

      
 こちらは寺本八左衛門家の家紋、■御侍帳・家紋から考える(49)には記されていないが、随分以前、熊本史談会で会員諸氏の家紋を調べた折、
ご子孫から提示されたものである。
よくよく観察すると「本」の字が5個並んでいるのが判る。デザインが羽織などに映えるから、この紋をお使いだと聞いた。
「五つ寄せ本文字紋」とでもいうのだろうか。

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■御侍帳・家紋から考える(49)

2022-10-25 08:01:14 | 家紋

                         

          新・肥後細川藩侍帳「て」の部

寺尾志馬は、(南東42-13)寺尾求馬家の7代目・岩多(志馬)。家紋は「二重中太丸紋」
寺尾左助は、(南東42-14)寺尾弁治家の6代目・萬八(左助・藤兵衛)。  家紋同上

寺生寿右衛門は、(南東42-21)寺生嘉久次家の5代目。家紋は「隅切り平角に三木紋」

寺内角左衛門は、(南東42-18)寺内平格家の6代目・熊五郎(角左衛門)。家紋は「鉄炮角に沢潟紋」

寺本八左衛門は、(南東42-11)寺本多目家。八左衛門名乗りの人物が多く特定不可能。家紋は「隅切り立角に本文字紋」「丸に本文字紋」
寺本亀蔵は、(南東42-12)寺本 轍(ワダチ)家の5代目。家紋は「   」「丸に本文字紋」

寺川太郎作は、(南東42-17)寺川太郎作家の7代目。家紋は「七宝に一つ星紋」「隅切り立角に五つ星紋」

手嶋惣右衛門は、(南東42-15)手嶋源八家。何代目か不明。家紋は「丸に毬挟み紋」  

寺嶋宇吉は、(南東42-24)手嶋遊川家の4代目。家紋は「蛇の目紋」

手嶋金次は、(南東42-25)手嶋楯十郎家の4代目。「剣  紋」

          新・肥後細川藩侍帳「あ」の部

有吉主膳は、三卿家老・有吉家の嫡家、【青龍寺以来】 橘氏 代々御家老 壱万八千五百石(南東44-1)有吉興太郎家の14代、規矩次(養子・12代立芭嫡子 主膳・立直)。家紋は「隅立四つ目紋」   
有吉清助は、嫡家5代英貴の分流・(南東44-3)有吉清助家の5代目・央(清助)。家紋は「隅立四つ結紋」

有吉市左衛門は、英貴妹・富田与兵衛重冬室の子=市郎兵衛を祖とする(南東44-2)有吉市左衛門家の6代目益之助・時陳(市左衛門)である。家紋は「隅立四つ結紋」「丸に松紋」  
有吉七兵衛は市左衛門家の分家、(南東44-18)有吉七兵衛家の4代・辰三郎(七兵衛)か。家紋は「隅立四つ結紋」「丸に松紋」

浅野五助は、(南東43-4)浅野栄太郎家の6代・寿吉(後・五助)。「額紋」「  」

浅香清大夫は、(南東44-19)浅香一郎家の5代目・清大夫(後・彦四郎)。家紋は「左巴紋」

浅香忠兵衛は、(南東44-23)浅香市太郎家の7代目・淳助(後・忠兵衛)。家紋は「巴文字紋」

浅山才次は、(南東44-25)浅山平右衛門家の8代目。家紋は「垂れ角に菱紋」「垂れ角に一引き紋」

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■御侍帳・家紋から考える(48)

2022-10-22 06:09:26 | 家紋

       

         新・肥後細川藩侍帳【こ】の部       

■近藤英助は、(南東40-28)近藤謙之進家の5代目、近藤淡泉 名は昌明、字は子中、通称英助、淡泉と号す。藩に仕へ禄七百石、初め医員となり。
       後寛政十二年時習館訓導となり、数年にして郡代に転じ、更に府学時習館に入り天保十二年教授職に任ぜられ、六教授の一人たり。
       三代に仕へて服職六十年、恪勤精励終始一の如し。嘉永五年九月十三日没す。年七十九。春日萬日山に葬る。
       家紋は「組み合わせ角に上文字紋」

■古原武左衛門は、(南東40-24)古原信次郎家、同名人物が多く特定が不可能である。家紋は「   」

■古閑儀助は、(南東40-33)古賀作十郎家の3代目。家紋は「亀甲に三つ柏紋」

■小泉丈助は、(南東64-26 *)小泉奥助家2代目、尉助。家紋は「   」

■後藤源左衛門は、(南東40-34)後藤惣左衛門家の5代目。家紋は「   」

■駒井軍馬は、(南東64-24 *)駒井軍馬家の8代目。家紋は「隅切り立角に三つ星」

         新・肥後細川藩侍帳【え】の部

■江藤又左衛門は、(南東60-12 一代御中小姓)江藤 武家の6代目・辰次郎(又左衛門)。家紋は「五つ環に剣片喰」

■恵良卯八郎は、(南東42-9)恵良発太家の6代目・卯八郎(長助)。家紋は「亀甲に三つ雁」

■江良丹七は、「細川家家臣略歴」には名前が見えないが、次のような記事がある。
       天明九年十二月:江良丹七儀、親半内数代下益城杉嶋村江居住仕居申候処、丹七儀今度跡目被仰付候付、熊本江引出相勤
       申筈候江共、半内儀寸志差上御知行被下置候付、丹七儀父半内代ニ奉願候通、無年限在宅被御免置候様有之度、組頭より
       半切添書を以達付而之事  (熊本市史資料編第三編p254在宅願頭書)家紋は「   」

■江嶋伝四郎は、(南東42-5)江嶋 傳家の7代目・貞松(傳四郎)。家紋は「隅切り立角に浜洲」
■江嶋伴之允は、(南東42-7)江嶋 備家の5代目。        家紋は同上。

■江村悰珉は、御医師 (南東56-26 医)江村悰益家の6代目。家紋は「木瓜に  」「三つ石」   
■江村柳渓は、御医者 (南東56-27 医)江村萬春家の5代目。「三つ石」

■遠藤見寿は、(南東64-32 *)遠藤快珉家の4代目。家紋は「下り藤紋」

         新・肥後細川藩侍帳【て】の部
■寺崎俊都は、御医師(南東57-25 医)寺嶋宗澤家の4代目。家紋については表示なし、不明。

■寺本順次は、(南東42-23)寺本 登家の5代目、沖津弥五右衛門景一ノ後妻ノ連子・四郎右衛門の二男を祖とする。
       家紋は「卍紋」

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■御侍帳・家紋から考える(47)

2022-10-20 12:41:22 | 家紋

                                 

             肥後細川藩侍帳】の部

■小堀市平は、(南東40-7)小堀沿助家の6代目で郡代を勤めた。家紋は「   」
       当家を含め五家は小堀長左衛門を祖とする一族である。
■小堀平右衛門は、小堀流踏水術の(南東40-29)小堀清左衛門家3代目。茶道小堀家四代・長順からの分家である。

       名は濶看、通称平右衛門。藩に仕へ禄百五十石、兵法師範となり、特に居合長刀の師役たり。 
■小堀次郎助は、(南東40-18)小堀十蔵家の7代目である。
■小堀晋順は、茶道小堀家の6代目である。
■小堀九万次は、(南東40-27)小堀市助家の5代目である。

■小田原(こだわら)九郎左衛門は、(南東40-4)小田原武兵衛家の7代目・源之助(養子・九郎左衛門)で用人を勤めた。家紋は「三つ星紋」

■小畠伝之丞は、(南東40-16)小畠冨之助家、同名の人が多く人物の特定が出来ない。
       遠祖・小畠越前守は丹波の宍人城 (ししうど城 船井郡園部町宍人 )を築城したとされる人であると思われる。
       家紋は「   」「三つ柊巴」

■小崎加十は、(南東40-15)小崎太郎左衛門家の7代目・唯之允(嘉十・加十)。家紋は「左三つ巴紋」  
■小崎平八は、(南東40-13)小崎杢之助家の5代目。家紋は「丸に武田菱」「隅切り立角に左三つ巴紋」  
■小崎八之丞は、(南東40-14)小崎眞左衛門家の5代目である。家紋は「子持ち平角に左巴紋」

■小嶋伊左衛門は、(南東40-5)小嶋健太家の4代目・伊左衛門高満(養子 初・門次郎)。家紋は「五つ環に左巴紋」

■小林左七左衛門は、(南東40-3)小林平三家の7代目・鶴喜(茂八郎・半大夫・左七左衛門)か。
       「御知行被召上候 天保六年七月跡目断絶被仰付 高七百五十石」と記録が残る。家紋は「隅切り平角に蔦紋」
■小林勘太郎は、(南東40-23)小林貞之助家の7代目。家紋は「隅入り立角に蔦紋」
■小林半右衛門は、(南東40-6)小林十右衛門家の6代・7代が同名で人物の特定が出来ない。家紋は「隅立平角に六つ丁子紋」「蔦紋」

■小林伝之允は、細川家家臣略歴に名前が見受けられない。名前の誤植か・

■児玉十郎大夫は、(南東40-26)児玉太郎左衛門家の8代目・澄八(十郎大夫・太郎左衛門・次郎太郎)。家紋は「中陰唐団扇 」
■児玉円次は、(南東40-17)児玉安平太家の6代目・圓次。家紋は「隅切り立角に丸」「丸に唐団扇」

■合志角右衛門は、(南東16-23 か)合志弾蔵家の5代目・要助(角右衛門)。「   」ご教示を乞う。

■近藤角左衛門は、(南東40-32)近藤一太家の5代目。家紋は「角紋」?

 

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■合志氏の家紋

2022-10-20 06:51:50 | 家紋

 次回の「御侍帳・家紋から考える」(47)で取り上げる家紋にまことに不思議な家紋があった。
合志市の由来ともなった、合志氏である。合志氏の出自の程は三説あって真偽のほどはしかとしないが、熊本の古い氏として有名である。
細川家家臣・合志氏もまたその子孫であることは間違いなかろう。
      
       すみたてよつめ 隅立て四つ目  十二日足車紋 | 家紋の和市場                                
                    四つ目結紋 十二日足紋            
「肥後讀史総覧」に紹介ある合志氏の家紋である。

        
こちらは、「御侍帳‐家紋入り」にある合志角右衛門の家紋である。誠に不思議な家紋で当然初見で、その名前が判らないのもまた当然である。
もし御存知の方がおられたらご教示賜りたい。
「凹」の字をひっくり返したような(一辺足らないが)中に、「三つ目」らしきものが入っている。
上記「四つ目結」に関連しているように感じられるが如何だろうか。現物は7.5㎜角程の大きさで、スキャンして拡大した。
これは合志家の方でなければ分からないのかもしれない。

 

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■御侍帳・家紋から考える(46)

2022-10-17 13:03:53 | 家紋

         
            肥後細川藩侍帳の部

■二塚牧太は、(南東39-8)二塚三郎家の6代目、家紋は「丸に三つ持ち合い菱紋」

■深野九郎左衛門は、(南東39-18)深野才九郎家、同名の人物が数名あり人物特定が出来ない。家紋は「片喰紋」

■船瀬儀右衛門は、御船頭(南東58-15 船)舟瀬彦雄家、同名の人物が数名あり人物特定が出来ない。家紋は「剣片喰紋」         

■深田玄随は、御医師(南東56-24 医)深田玄随家の3代目、名は當亮、玄随と称す。医を業とし、物産学に精し、禄百石。
       目見医師となり、物産師を兼ぬ。嘗て諸国を歴遊し木内石亭に石類学を修め其奥を究む。種殖の学亦深し。
       天保九年二月十一日没す。享年七十五。墓は中尾本妙寺中智運院。家紋は「深の字紋」

■古内八之允は、(南東39-22)古内圓次家の5代目、初代を尾崎藤市とするところから、尾崎家の分家か?
       家紋は「丸に笹竜胆紋」  

■藤井文四郎は、(南東39-28)藤井善九郎家の2代目、家紋は「丸に隅立て井桁紋」

            肥後細川藩侍帳の部

■米田左兵衛は、【青龍寺以来】 (南東40-12)米田藤十郎家の5代目・勘十郎(左兵衛・作左衛門)。初代左兵衛は三卿家老米田家2代是政の弟是門(藤十郎)の嫡男貞之を初代とする。家紋は「隅立角紋」
■米田元太郎は、
【青龍寺以来】 (南東40-11)米田甚左衛門の7代目、こちらは嫡家2代の弟・是門を初代とするが、同上左兵衛家の弟の家系である。家紋は同上

■郡 夷則は、(南東40-1)郡 夷則家の8代豊喜か、養子で実・沼田小兵衛弟である。
      祖は細川藤孝(幽齋)の兄・三渕藤英で秋豪→藤利→藤正→(初代)夷則氏正と至る。細川藩・郡氏は初代の父藤正が
      綱利に仕えてからの事らしい。家紋は「丸につなぎ二つ引紋」
  
■郡 仙蔵は、(南東40-22)郡 勘右衛門家の7代目である。上記郡家とは同族ではなく、將軍足利義昭・上野大和守秀政(堀孫八郎)
      の養子・五左衛門を祖とする。細川家は大和守の讒言にくるしめられ関係は大変悪いが、五左衛門を召し出すにあたって
      は姓を改めさせている。家紋は「三つ割剣花菱紋」、それに上野氏を表す「丸に上の字紋」  

■郡浦万作は、「細川家家臣略歴」に名前が見当たらなく、人物の特定が出来ない。

■後藤元兵衛は、後藤又兵衛・基次の子・又一郎を祖とする、(南東40-8)後藤又蔵家の8代目である。家紋は「入れ子桝紋」  

■後藤善大夫は、(南東40-9)後藤善左衛門家の5代・門吉(善大夫)か、家紋は「左三つ巴紋」

■後藤十兵衛は、(南東40-10)後藤半之允家の5代・内蔵八(十兵衛)、家紋は「隅立角に四つ星紋」

■木庭傳右衛門は、(南東40-31)木庭徳之丞家の3代目、菊池一族であり、家紋は「丸に違い鷹の羽」  

■木造源右衛門は、伊勢国司・北畠具晴三男、従五位下・木造城主兵庫頭具政を祖とする、(南東40-19)木造(こつくり)誠之允家の
       8代目か、家紋は「   」  

■是常武五郎は、(南東40-20)是常三之允家の6代目、家紋は「丸に毬挟み紋」

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■御侍帳・家紋から考える(45)

2022-10-05 06:39:37 | 家紋

                                         

              肥後細川藩侍帳の部

藤本伊右衛門は、(南東39-12)藤本吉太郎家の7代目・伊衛門(治部左衛門)か? 家紋は「隅立角に■■」
藤本八助は、(南東39-7)藤本九左衛門家の7代目・添(八助)。家紋は同上  
藤本亀之允は、(南東39-11)藤本学之助家の6代目。家紋は同上  

福田勝助は、(南東39-17)福田権兵衛家の7代目・勝之助、文化十一年一月~文政十年十二月 用人 文政十年六月杢平ト改名。
       家紋は「丸に浜洲」「隅切り平角に浜洲」紋。  


福田久右衛門は、(南東39-17)福田権兵衛家の6代目・勇記(久右衛門)。家紋は「丸に三つ柏紋」  

福田一八は、【丹後以来】 (南東39-14)福田平八家の8代目。家紋は「隅切り立角に隅切り陰井桁紋」  

福田平左衛門は、(南東39-16)福田抱一家の 8代目・平左衛門(十郎右衛門・十郎左衛門)。家紋は「違い角紋」  

福田次左衛門は、(南東39-15)福田三郎右衛門家の7代目・寿八郎(次左衛門)  
         文政十一年三月~天保三年七月 八代郡代 家紋は「隅切り立角に左三つ巴紋」 

不破万平は、(南東39-5)不破源次郎家の5代目、名は昌之、萬平と称し、観翁と号す。藩に仕へて食禄三百石、使番、川尻作事頭、
       江戸留守居、奉行職等の数役を勤む。当時其名高し。 
       家紋は「杏葉紋」「丸に不文字紋」 

不破大作は、同上分家、(南東39-6)不破小兵衛家の3代目。文政五年頃葦北郡代を勤めた。家紋は同上。  
不破兵太夫は、(南東39-4)不破太直家の9代目・数太(平大夫・太直)
          文政十一年十二月(三拾挺頭)~天保十一年九月 中小姓頭
          天保十一年九月~天保十二年十二月(病死)小姓頭 家紋は「丸に不文字紋」
 

不破五郎右衛門は、(南東39-3)不破仁三郎家の6代目・大次郎(五郎右衛門)。家紋は「   」「伍文字紋」  

福間恵迪は、御医師 (南東56-25 医)福間東海家の5代目、御用人支配・外科、金瘡師役兼 百石御蔵米
       家紋は「■■文字紋」

古庄角之允は、(南東39-9)古庄三郎家の5代目、もしくは7代目。家紋は「三つ星紋」  

古庄養拙は、御医師(南東56-23 医)古庄養拙家の5代目。家紋は「隅切り立角に二つ丁子巴紋」    

古市宗庵は、御茶頭(南東59-4 茶・鷹・馬)古市宗安家の7代理庵(宗庵)。千利休の女婿・円乗坊宗圓の女婿・宗庵
       を初代とし、利休正統のお茶道を伝えた。後・茶道肥後古流・家元の家であるが、後高弟、武田智徳に継
       承せられた。家紋は「   」「上り藤に一文字紋」    

古屋十次郎は、(南東64-10 *)古屋台輔家の2代目重次郎。古屋昔陽 名は鬲、字は公款、重次郎と称し、昔陽と号す。愛日斎の弟
       にして江戸に住し子弟を教授す。後兄の後を継ぎ細川藩に仕へて食禄百石を賜り儒臣となる。
       家紋は「六角に唐花紋」  

古山常助は、(南東39--26)古山文内家の6代目。家紋は「隅切り平角に蔦紋」  

船津猪平太は、(南東39-27)船津東平家の2代目・猪平太(喜右衛門)か。家紋は「丸に隅立角紋」  

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