(慶長五年六月)十七日の暮に及ひ、又最速の使多人数を引具し、玉造の御屋敷をかこミ、使を以て再三御ことハり申せとも、種々難渋に及はるゝの間、急度御迎を参らせ候、早々御越有へしと荒らかに申シ、内に押入へき様子也、小斎・無世(河北)聞之、稲留ハ御門に有て暫く敵をあしらひ給へ、我々御自害をすゝめ申さむとて、奥へ参りかくと申上候、本より御覚悟の上なれハ少も驚き不被成、忠隆君の奥様諸共ニ御自害可有旨にて、御部屋へ人を進られ候に、見へさせられすと申候間、御機嫌あしくいとゝ御力なく御支度被成候 一ニよし/\と計り被仰候とあり、忠隆君御内室の御事、隣屋敷宇喜多秀家の室ハ御姉なる故、密に末の桐と申女を以被迎合、加賀の屋敷江立退せ給ひし也
関原集に云、御前被仰候ハ我等事下々にまきれ立退可申候、若き上郎を同道ハ成申ましく候、幸屋敷隣浮田殿御前ハ姉子の事ニ候間、はしをかけ
塀を越、御退候得とあれハ、娵(ヨメ)子退申事ニ候ハゝ何方へも一所に退可申候、左なく候ハゝ退申間敷と色々御申候へとも、達てしうとめ子御断ニ付
任其意、細川幽齋妹宮川 若州武田大膳大夫元信後室、時七十余歳 在忠興宅時、忠興妻賺宮川曰、妾紛出奔、老夫人行歩不如意也、又嫡与一郎忠隆
妻 前田利長妹 隣家浮田秀家室姉妹則掲之、梯塀退去浮田家可也、両家実之如救遁隣家、又命局 於志茂 曰、汝戴袋於頭為婢女、家見炎上落行、語吾
最後於我君、然後皆自殺と云々
又一書、我等相果家に火かゝり候ハゝ、局ハ少き袋か何そいたゝき 、下女の体に成紛出、何方へも隠居て越中殿帰陳を相待候へと被申置と云々、又或
説、秀林院様御自殺の時、京都扇紺屋四郎兵衛下人五六人召連屋敷江懸付、何そ相応の御用勤上申度由申上、御前様御機嫌にて被仰候ハ、京都
より被召寄候女中を本所に御返被成度思召也、連届候へと御頼被成候ニ付、無是非御意に随ひ、京都女中返し届候、三齋様四郎兵衛を後に御前ニ
被召出、備前清光の一尺七寸の御脇差を下され候、子孫今ニ持伝ふと云々
宮仕の女こと/\く御暇被下、落去候様ニ被仰付候得共、相残たるも有之、密に忍ひ出候も有之候、中にも霜・おくと申両人の局に御遺言被成候ハ、子供之事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさる事なから藤(松の丸)を御上へ御直し不被成様ニとの事なり、両人涙を流し、ヶ様の事はかり申候はんには他人に被仰付候へし、明暮御側を離れす深き御恩を蒙り候身の此時に至りいかて立退候半や、是非御供可仕と申候得は、上様又仰に、我詞に背きてハ死するとも嬉しと不思、なからゑて最期の体を申さハ、草の陰にても満足たるへしと様々被仰候て、忠興君御子様方江の御形見の品々御消息被残置、御光様の御乳の人には御光様の御形見を御渡被成候、おく・霜も此上ハせんかたなく御受申上候、扨は心にかゝる事なし、少齋介錯仕候得と被仰候、畏候とて長刀をさけ老女を先に立て参りけれハ、御髪を御手つから上へきり/\と巻上させ給ヘハ、少齋左様にてハ無御座候と申上けれハ、心得たりとて御胸の所を両方江くハつと押ひらき給ふ、少齋敷居をへたてゝ居候ひしが、御座の間江入候事憚多候得は、今少こなたへ御出被遊候得と申上けれハ、則敷居江ちかき疊に居直らせ給ヘハ、長刀にて御胸元をつき通し奉り候
一書、上様脇指を抜、御胸に突立給ふを、少齋長刀を取のへ敷居を隔て介錯し奉と云々、一説に、長持より御小袖を取出し、左右につミかさね其中
にて御自害被成候を、少齋長刀にて御首をうち奉り、小袖共を御死骸の上に打おゝいしと云々、又一書に、御内室河喜多を召、越中殿ハ内府公に
随て関東江赴き給ふ、我其妻として敵に随ひ武名をなかくけかさんや、なましひに落んとして敵ニ生捕なれハ、長き弓矢の疵なるへし、自ら爰にて
死しなは、越中殿弥心を一筋にして忠誠を励ミ給ふへし、時うつるにとく/\とて、御手つから脇差を御こゝろもとに御立給ヘハ、無世(河北)長刀を
取のへ敷井(ママ)をへたてゝ介錯し奉る、石田か者ともハかくとも不知、御出遅しと責けれハ、少齋もさハける気色なく、女性の事ニ候得は、支度心
に任せす今少待給へと会釈しける、其内に猛火盛にもへ上る、関原集に、越中殿御前ハ地震の間に御入候て、河北石見を御呼候、石見長刀を持
来り、御祝言の時懸御目、其以後只今懸御目おさめにて御座候、追付御供可仕とて長刀にて介錯仕候て、地震の間に火をかけ、表の広間に出、
正齋(ママ)と両人一度に腹切と云々、又一説ニ、此時男子壱人女子壱人有けるをさし殺し給ふとあり、大に非なり