廿八日、忠興君江木付より頃日之様子等言上候
如より人を被差下之由候条致言上候
一、七月晦日如御使ニ捧一所候、定而可致参着候事
一、其以後弥普請無油断申付仕置等丈夫致覚悟候間、可被思召御心安候事
一、輝元・備中納言殿・三奉行・石治・大刑少より使として太田美作守うすけへ罷げ、右各より被対松井折紙もたせ候間、作州一札佐渡・四郎右衛門両
人へ宛所ニ而使は差越、当城相渡候様ニと色々様々被申様ニ候、各一途に存切存之候条、別ニ御返事無之候、然上は御状共此方ニ留置不入由
申候而、一通も不残なけ返し、重而人を被越候ハゝ討捨可申由放し使者返し申候事
一、太田飛騨・美作親子船にて相催し、深江の古城ニ夜籠に舟を着、足懸可拵旨申候由ニ候間、本丸・二丸迄念を入引破申候、一分之働は中々成申
間敷、日向・薩摩衆相催由申候事
一、大友義統へ当郡之儀奉行衆より進候、中国迄被下之由候、うすき・府内・熊谷・垣見城四ヶ所之内へ被着、当郡へ之行可仕と存候、在々人質弥丈
夫ニ明〆申候、誰々何程ニ而参候共堅固に相抱可申候条、御気遣被成間敷候事
一、如より色々様々御心付、大筒も三丁御いれ候、先度舟ニ而御出候て被成御見廻城、無越度やうに相抱候へ、何時も可有後巻由、頼敷被仰やう申
計無御座候
一、主計殿追々人を被下御懇共ニ候、兵粮府内ニ而御借候而弐百石計被入候、玉薬五千放被下候、何程成共申次第可被差越旨候、御心入之段書中
不被申上候事
一、田辺之儀、御堅固之由候間珍重奉存候事
一、加主御女中盗出一昨日廿六中津へ下着、昨日隈本へ御通之由如より申来候、珍重無申計候事
一、竹豆州は煩とて于今不被上候、当城へ一段懇にて御座候事
一、早主馬丹後へ被立候得共、内右衛門ハ一段無踈略候、万事心付ニ而御座候
一、毛民太も丹後へ被立よし候ニ候、是も留守居者当城へ申通候事
一、中修理今ニ不被上候、四語日以前平右衛門被上候、妻子新駿へ奉行被預候故あいしらひと聞へ申候事
一、毛壱去十八日罷下熊本へ被越候旨ニ候、輝元奉行衆より主計殿へ使として被下候由候、今度伏見ニ而森九左衛門・同勘左衛門其外数多致討死
候、家中弱り無正体旨ニ候、如ハ人数被集何れ成共働構ニ而候条、小倉不成大形気遣之旨ニ候、然ハ主計殿大坂へ之御返事使者ニ而被申登、主
ハ上洛あるましきと存候、もじの城拵申由候、是も毛壱被相抱義不罷成、輝元人数可被入やうに申候事
一、御吉左右之御返事奉待存候、此旨宜預御披露候、恐々謹言
八月廿八日 松井佐渡守
有吉四郎右衛門
魚住市正
河喜多藤平
松田七右衛門
岡本源三郎
桑原才蔵
速水孫兵衛
可児清左衛門
上村孫三
加々山庄右衛門殿
牧 新吾殿
大友下向之儀清正よりも告知らせられ候
急度申入候、其城之儀大友方江秀頼様被遣由にて、差下之由申上関辺迄被下候由、我等所江申越候間、城中御用心百姓等至迄御由断有間敷
候、為其態如是候、随分各御機遣止候やうニ才覚仕候間、其首尾相調候は重而可申入候、委細之段斎藤伊豆守可申入候、恐々謹言
加主
八月廿八日 清正
松井佐渡殿
有吉四郎右衛門殿
御宿所
木付の城中弥用心稠敷、寄来ル敵を相待候、大伴譜代之家臣田原紹忍・宗像掃部は義統浪牢之時名ある者なれハとて、紹忍に三千石、掃部に二千石の領地を賜て、中川修理大夫之旗下に附置る、大友下向以前には康之等へ書を通し関東御味方の由なり、此事を松井・有吉に告、又上方の様子相聞へ候間肥後へ申越候、返書同日に木付に到着
去廿七日の御状今日廿九日令拝見候、仍田原紹忍書状之写給候、又御返事被仰遣通尤ニ候、我等方へ拵候様ニと紹忍・掃部かたより申越候、
表向ハ 内府公へ右之両人非無沙汰之通、我々ニも表裏無之可為同意之旨誓紙を差越候、其分ニ仕置心は由断無之右之御心持御由断有之間
敷候通、以飛脚申入候キ、今朝大坂を廿三日ニ出船之者参候、内府公廿五日に清須へ御着之由候、吉左右共相談候、下々迄其段被仰聞候、若
大友方百姓成共催於被及行は為後巻熊本を捨候而成共、拙者可罷出候間可有其御心得候、猶伊豆守可申候、恐々謹言
加主
八月廿九日 清正
松井佐渡殿
有吉四郎右衛門殿
御返報
去十五日之御状廿七日之御報相認候、跡々参着候、大坂十八日之出船之者口上之趣、一々被仰越得其意候、此方へ廿三日出船之者今朝参着
候、内府公廿五日清須へ御着必定之由ニ候、羽左太ハ清須を内府公へ相渡こまきを相拵被取出之由ニ候、勢州口御書中同然ニ候、長大あるの
津辺ニ而少越度之様ニ相聞候、此面之儀伊豆守可申入候条委細ニ不能候、恐々謹言
加主
八月廿九日 清正
松佐渡殿
有四郎右殿
御返報
其後紹忍・掃部は大伴下向を聞て、中川をはかり義統の許に至り、毛利・石田を叛て家康公の御味方たるべき由、色々諫言いたし候を義統許容なかりしかとも、旧恩を存出し、せんかたなく大伴にしたがひ候となり、吉弘加兵衛統幸ハ柳川に蟄居したりしが、江戸に下ッて大伴義乗一ニ義延勤仕せんため、小倉より船に乗りけるに、防州上の関にて不慮に義統に対顔し此度の様子巨細に承り、是も諫を入候へとも用ひなく候間、力およハす義統に先達て引返し、豊後国富来に至り城主垣見和泉守家統留守居の者に閑話し、廻文を以速見・国崎両郡之旧臣を招く、義統九月八日の暁安岐・富来両城の間に船を寄せ、城代の者に対面し其夜又船に乗り、木付の沖を渡り高崎表に船を繋き一ニ同国深江に着とあり、宗像掃部に命して廻文をはせけれハ、旧好を慕ふ者数百人参陳す、また佐伯権佐惟重ハ日向堺の輩を催し、不日に馳可来と注進し、彦山の座主も一山の衆徒地下人を語らひ旗下ニ属すへきのよしなり、然れハ戦地の便りもよく且ハ吉例なれハとて、翌九日立石に本陳を被居
私ニ曰、此段敵方の事無益なれ共かく敵蜂起候へとも、松井・有吉勇気を屈せさるを示すへき為、敵の形勢を出し置申候
松井・有吉は兼てより木付の城内に一丸普請して、速見郡六万石在々所々の庄屋頭百姓を取込、家士を添て外輪の持口を定め、二の丸に蔵を拵、其者ともの人質を入、番の者稠敷居置候か、義統立石表着の由を聞、弥油断なく可守旨を命す
右人質取入候時、安岐八郎兵衛本名片山・木村右馬允・今井惣兵衛なと云豊後侍申談、志を顕ハし候なり、右八郎兵衛ハ大伴之時に安岐の領主
の由、忠興君木付御入部之節御庄屋被仰付置候、豊前御入国以後右之功を被賞、御召之御具足被為拝領候、右八郎兵衛嫡子片山甚十郎肥後
へ御供仕、嶋原ニも罷立候、其以後御知行百石拝領、今の片山八郎兵衛祖なり、右の具足も今以伝来仕候、右右馬允・ 惣兵衛は浪人にて居候
を、松井被官にいたし候となり
細川家八代(肥後細川藩主・六代)の重賢公を銀台公と尊称している。細川家下屋敷が白銀に在ったことに由来するという。
石川昌子著「私の東京切絵図」を読んでいたら、『白金の地名は、古書に銀、また白銀とあったのを、のちに「白金」と改めた』と有る。p172
いわゆる白金長者が地名の由来だとされており、「白銀」には「しろがね」とルビがふられているが、なにか特別の意味があるのだろうか。「白金」から「しろかね」となったのだろうか・・よく判らない。
ウイキペディアで眺めてみると脚注に、[ 作家今東光は、谷崎潤一郎と話していて、うっかり「芝のしろがね町の……」と発言したために、「芝はしろかね。白金と書いてしろかねと言うんだ」「牛込のはしろがね。白銀と書いてしろがねと発音するんだ。明治になってから、田舎っぺが東京へ来るようになって、地名の発音が次第に滅茶苦茶になってきたな」と怒鳴りつけられたとのこと(『十二階崩壊』中央公論社、1978年。p.250) ] とある。
うっかり津々堂も東光和尚の如く、しろがね邸などという事があるが、こころして「しろかね邸」と申上げなければならない。
こんなバカなことをもう九年ばかりやっているが、いろんな情報を頂戴し有り難いことと役得の楽しみとしている。
お問い合わせをいただく中で、学術的に見てもビッグな情報と思われるものにも出会う。これらはご当人の研究中のこともあって、他人様にはとてもお話はできないのだが、お喋りできないことの辛さを実感したりする。一方、情報をオープンにされていていろいろご教示いただくことも有り、たくさんの事を知る事も出来た。先祖附も沢山読んだが、御家の事情が吐露されていてこれとてわが胸の内に留めておくべきと思う事がある。いずれにしろ「口にチャック」である。まとめれば一冊の本にでも出来そうに思うのだが、そんな能力も持ち合わせていないから、宝の持ち腐れと云う事に相成る。
思いもかけずいろんな方々との出会いがあり、今も長くご厚誼をいただいたりしている。時には突然数百年遡るご先祖さまをもって、新しいお付き合いが始まったりしてお喜びの言葉を頂戴したりすると、誠に望外の幸せである。
しかし、「口にチャック」が大原則で、情報の開示や提供は慎重を期すことが第一であることを、サイトの運営を通じて強く認識している。
それにしても「歴史」は誠に面白く毎日あれこれ励んでいると、私はたぶんボケ老人には成らないだろうと一人思っている。