右之通ニ候得とも松井曽而不許容、返書ニも不及候、大坂ニは重而詮議有て太田美作守一成を差下シ、木付の城開渡スへき由申来る之趣加藤清正より御知せニ付、其覚悟にて居候処に、初月十二日美作守臼杵ニ下着、十三日小倉長斎と云者を使として大老・奉行より佐渡江当り候折紙二通、また佐渡・四郎右衛門ニ美作守より書状到来
其郡之儀、為可請取太田美作守差下候、於様子は従年寄可被申入候間、早々明可被渡候、恐々謹言
八月四日 輝元
秀家
松井佐渡守殿
急度令啓候、内府去々年已来 太閤様被背御置目上巻之誓紙を被違、恣之働ニ付而今度各申段及鉾楯候、関東之儀も伊達・最上・佐竹・岩城・相
馬・真田安房守・景勝申合色を立候而則八州無正体事候、上方より罷立候衆妻子人質於大坂相究候故是又種々懇望候、就其越中方之事、大勢
兄弟之内一人秀頼様へ御見廻をも申させす悉関東へ罷立、其上何之忠節も無之新知召置候儀、不届付而丹後之事城々悉受取、田辺一城町二丸
迄令放火責詰仕寄申付候、落去不可有程候、貴所之事 太閤様別而被懸御目知行等迄被下候間、秀頼様へ御忠節可有之儀候、於様子ハ太田
美作守方へ申渡候而指下候、其郡之事速可被明渡候、何かと候てハ不可然候、恐々謹言
八月四日 長大 正家
石治 三成
増右 長盛
徳善 玄以
松佐
御宿所
以上
其以来久々不懸御目無音背本意存候、上方之様子定而可被及聞召候、就其元御城拙者請取申候様ニと御奉行衆被申候間、前後不存候へとも
昨日罷下候、則御奉行衆御折紙為持進之候、従御返事重而可得御意候、此時候間別而御馳走申度心底ニ候、委曲小倉長斎ニ申含候間不具候、
恐々謹言
太田美作守
八月十三日 一成
松 佐州様
有 四郎右様
人々御中
長斎口上ニも、当城を異故なく一成に御渡可然と一成か所存をも演さとし候得とも、佐渡・四郎右衛門一向に同心せす、何れも当城におゐて切腹可仕覚悟ニ候間、城相渡候儀不罷成候、重而使者を被指越候は可討捨由申聞、右之折紙共投返し長斎を追返す、又尾関喜助伊藤長門守長次与者より書状相達、其後増田長盛も各別に書を以康之をまねき候へとも許容せす、其書簡
先書ニも如申候御両人之御事ハ先々被成御上候、殊我等丹後へ罷越候間、いか様ニも幽齋様へ申候て家中之妻子無異儀様可仕候、此段は可
心易候、松佐之御妻子は田辺一所ニ在之由ニ候、四郎右へも同前ニ候、可被成其御心得候、此旨(イ御)奉行衆之御手前ハ我等請取候而罷下候、
此上ハ幽齋様御分別次第ニ而無異儀候
幽齋様御身上之事、禁中よりいろ/\御理ニ候間、吉田へ御曳籠候へとの御事、多分其分ニ相済様ニ相聞へ申候、御家中妻子之儀我等罷下候
間、少も無相違様可仕候条可被御心易候、恐々謹言
八月四日 尾喜介
松佐様
四郎右様
人々御中
猶以委細盛法印より可被申候間不能巨細候、以上
先日申入候得共重而令啓候、上方弥一篇相済候、然は貴所儀連々 太閤様御懇之儀忘却候哉、羽越此心得違、貴所なとひつめられ候事、世間
無其隠候、然は縦貴所ひつそく候共、跡目をも 秀頼様より被相立、公界之はつれさるやうに御分別尤候、其分妻子なとも盛法印ニ預置候、同ハ
貴所一身之体ニ而被上候ハゝ幽齋事なとも申談度候、連々我等も無等閑候間、此時馳走申度候へとも手筋無之候、此度被相果候ヘハをしき事ニ
候、又ハ心中ニ任せられさる仁ニ引たをされ候事残多儀ニ候、貴所なとも何之情に妻子を捨 太閤様被忘御恩 秀頼様へ之逆意可有之哉、御分
別尤ニ候、恐々謹言
増右
八月十四日(イ十三日) 長盛 在判
松井佐渡守殿
御宿所
扨太田美作守は木付之城不相渡候ニ付手を失ひ、父飛騨守信佐と共に船を催し、深江の古城を取立陳すへきとの事を松井・有吉聞付て、夜中に人夫を遣し、古城の本丸・二の丸迄悉く引破りけれハ、太田父子陳取事不叶となり