今回は西の関ヶ原ともいわれた「石垣原の戦」をとりあげ、綿考輯録・巻十五により御紹介しようと思う。51頁に及ぶものであるから、長丁場となりそうである。
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慶長五年二月、忠興君豊後国ニ而六万石御拝領被成候ニ付、松井佐渡守・有吉四郎右衛門等を以木付城請取せられ、有吉は木付の城主に被仰付、松井は検地済次第丹後江罷帰候筈なり前に詳ニしるす、四月忠興君も豊後に御入部、御領分御仕置等被仰付、御逗留の内会津御陳の儀申来候間、四月廿九日木付を御、先ツ丹後江御帰国被成候、依之当城無油断堅固に可相守之旨被仰渡、猶又上方の様子に応し追々御下知可被成旨被仰置候ニ付、松井・有吉を初め各木付に在番仕候処に、家康公会津御発向の御跡にて石田党蜂起、家康公を可奉討企之由木付表にも風聞あり、忠興君は無二の御懇意なる故、関東御一味の儀勿論たるへけれハ其覚悟仕、豊後御領地の民長ともの人質を取、城を堅固に守、丹後の事無覚束思ひける処、京都吉田の盛方院一ニ盛法院又盛法印なとは誤なるへしより康之に書通ありて上方の模様等粗告来り候、其比肥後熊本の城主加藤主計頭清正九州の押へとして在国ニ付、忠興君兼て被御頼置、豊前中津黒田孝高入道如水軒ニも御内談被成置候間、松井・有吉等木付の城を如水に引渡し、各丹後に帰るへきと評定して舟を用意すれとも、加子等上方の騒動を聞て上らんと云者一人もなし、依之康之之為相談中津に至りける折節、如水の老臣母里太兵衛大阪より下着して申候は、石田三成逆心に依て忠興公の御簾中様去ル十七日の夜御自害、御留守居の面々も切腹いたし、御館は焼失の由、同十九日石田か下知によつて丹波・但馬の諸将丹後へ攻入之旨を語る、康之大に驚き、弥以片時もはやく丹後へ帰り度思ひ、如水に対面して右之段々をも相演、御舟を借用仕度旨申候得とも、中津にも水手無之、雇加子の金銀ハ何程にても合力可有と也、保之心くるしく木付に帰り、有吉に大坂・丹後の様子等かたり、各大きにをとろき、とり/\讃(ママ)談仕候にも、いつれ速に丹後に帰り、いか様にも可相計とて、南浦ハとても上る事叶ひかたらん、北浦を上るへしと色々船を用意いたし、何程なりとも賃可遣申候得とも、落人と存候哉、いかにすかしても加子一人み上らんと云ものなく、海路通路難成、此上ハ力およハす、此城にて届可仕と各必死に相定め、不確固の所等修復し堀をさらへ持口の手配を定め置候、廿九日如水より小姓壱人被差越、去ル廿三日大坂出船の者之由直口承り可申旨御申越、上方の様子等猶相知申候、晦日清正江進候書状
態致啓上候
一当城之儀、先度如申入如水へ相渡、各一同ニ海陸共ニ成次第致帰国、城々可相抱談合極、中津へ罷越候処ニ、丹後へ人数出申由母里太兵衛
聞届、大坂より被罷下候、然時は南浦ハ成申間敷候間、北浦へ廻可申ニ相定候処、落武者と存候故加子無御座候、何程成共賃可遣旨種々様々
ニ才覚仕候へ共一切不調法候、如水へも加子之儀御談合申候ヘハ、雇加子之銀子ハいか程も可有御馳走由候へ共、右之通ニ候間不及是非候、
各もたへ申事被成御推量候て可被下候事
一右之仕合候ヘハ無了簡次第ニて御座候条、当城之儀丈夫ニ致覚悟届了仕ニ相究申候間、弥被添御心候て可被下候事
一丹後城之儀堅固ニ可有之候、被成御機遣ましく候事
一大坂越中守屋敷へ御奉行衆より人質之儀達而被申付、女房衆自害、家ニ火をかけ小笠原入道・稲富伊賀・河喜多石見両三人腹を切申旨候事
一御屋敷之儀御機遣奉察存候事
一如水之小姓去ル廿三日大坂出船、昨日此地へ被指越直口承届候、伏見弥堅固ニ候、然ハ手当ニ嶋津殿御鉄炮衆・御馬廻衆置候て惣人数勢田
へ罷通旨候事
一大津宰相殿 内府様御味方一通ニ付、是も押へ置候て勢田へ罷通被申候事
一丹後へ被差向候人数も小出和州なと勢田へ被出候へと被申越旨候、 内府様御上洛火急ニ付如此と存候事
一珍敷儀御座候ハゝ追々可申上候、乍恐此方へも可被仰聞候、此旨宜預御披露候、恐々謹言
有吉四郎右衛門
七月晦日 立行
松井佐渡守
康之
立本斎
猶々、去廿三日之御返書到来、拝見仕候、大形少仕合先度申入候ハ雑説ニ而、謀叛之杓フリと相聞申候、越中所へ人を遣候儀、従是ハ成
不申、如水より人を御下候間各書状遣申候、以上
私云、廿三日清正より之返書并此方よりの状案共ニいまた見当不申候