十八日、木付表の様子田辺江注進可相達候
去二日播磨江伝々ニ捧愚札候、定而可相達候
一、先書ニ如申上候当城之儀、如水へ相渡海陸ともに成次第各一同可罷上談合相極申候へとも加子無御座候、何程成共賃可遣由申候へとも落武
者と見申候て不罷出候、其内に人数出し御籠城之通、相聞申候条不及是非候、然時ハ当城堅固相抱於此地御届可仕ニ相極、普請等無油断昼
夜申付下々迄丈夫ニ致覚悟候事
一、安芸中納言殿・備前中納言殿、三奉行石治・大形少各使として太田美作守うすきへ罷下使者を被越候、各より彼対佐渡守折紙共ニ候、 太閤様
御懇御知行等各別ニも被下候間、秀頼様へ致忠節候へ、然ハ当城ハ相渡可罷上之由書中ニ候、美作守方よりハ両人江之折紙ニ而何とそ談合
有度書中ニ候、於此地各腹を可仕に相究候間別ニ御返事無之候、重而飛脚も給候は討捨可申由、使ニ申渡折紙共皆なけ返し申候事
一、其御城堅固ニ被仰付度々被及一戦寄衆敗軍之由申来候、御名誉不及是非候、各手柄高名可有之と羨ミ申し候事
一、内府様去ル二日江戸御立漸伊勢・美濃へ可被打出候、謀反之一揆ハラ敗軍眼前と存候事
一、北国之事肥前殿小松之城へ被取懸、二ノ丸迄押破本城へ悉く追入、責手之人数残置き大性(聖)寺へ被働即時ニ責崩、山口父子被討果よしニ
候、府中ハ堀帯者堅固ニ相踏旨候、然は敦賀へ早速可被打出旨候、御本意不可有程候、当城之者共ハ今之分ニ御座候ハゝ、アハウ勝ニ可為本
意と各若者共無念かり申候、可被御推量候事
一、如水之儀先書如申入、女房衆甲州御内儀迄盗出、一途ニ内府様御味方ニ而御座候、当城へ兵粮、玉薬御入ニ而御懇共候事
一、主計殿是又同前ニ而御座候、当城へ兵粮・玉薬御入候而御懇共ニ候事
一、右御両人之外皆敵ニ而御座候、併内府様御上之上は何も草之なひきたるへく候事
一、態人を進上申候へ共、慥成者ハ一人も手前大切ニ御座候、僕侍中間小者なとハ其程へも不相届、直ニ走り可申と存候条、此書状も播磨江上せ
夫より相届候様申越候、目出度御返事奉待候、此旨宜頂御披露候、恐々謹言
松井佐渡守
八月十八日 康之
有吉四郎右衛門
立之
麻吉左(一ニ右)
里夕
私云、去ル八月二日幽齋君江之言上扣はいまた考出し不申候、両度ともに押立使者差上候ニ而は無之、播磨より上せ申候由書中ニも有之、又
忠興君へ両度言上ハ如水より注進之便宜ニ遣候なり、しかるを木付より使者差上、田辺より直ニ関東迄赴き候様ニなと記したるは誤にて可有之候
一、忠興君野州宇都宮辺御陳取之砌、木付江被下候御書
急度申候、石田治部・輝元申談色立候由上方より内府へ追々御注進候、如此可有之とかねて申たる事候、其外残衆こと/\く一味同心之由ニ
候、定而内府早速御上洛可在之候、然は則時ニ可為御勝手(イ利)候、此状参着次第松井と市正番子まて不残召連、丹後へ可被越候、自然之時
は松くらもすて女子をつれ、宮津へ被越可然之様ニすまさるへく候、頼入候、四郎右其外之者共の儀ハ其国のていを見合可成程、木付ニい候て
其上は如水居城にうつるへく候、如水とかねて申合てをき候、此状ハ丹後よりひめち辺へ遣舟ニて届候へと申付候
一、内府ハ江戸を今日廿一御立候由、我等ハ昨日うつの宮まて越在之事ニ候、さためてひつくり返し上方へ御働たるへきと存候、謹言一ニ恐々謹言
七月廿一日判
松井殿
四郎右殿
市正殿
目出度期見参候、以上
此書ハ紙の長二寸一歩半横九寸五歩継紙、忠興君御自筆在于今
此御書ハ森三右衛門田辺へ持参して、木付ニハ播州室津より相達する筈にて、室津ニ至り候得とも、海路関所多く木付へ下向の時、室津之名主名
村左大夫宅に止宿して懇切なる故、此時も左大夫働を以弟を漁人に出立せ、下人壱人を添て漁船に乗り、浦伝ひして日を経て漸木付に至候、忠興
君豊前御拝領の後康之之具に御聞に達し、此功によりて慶長六年十月知行百石を給り、于今相続して御懇を請候也、今の左大夫まて七代なり
考ニ家記に、関東の御通路度々申上候とあり、播磨よりの伝と有も毎度左大夫なるへし、御代々御懇被仰付、大坂御陳の時兵粮大豆等御用ニ
立、有馬御陳ニも参陳仕候、扨甲冑其外色々の物拝領、綱利君・宣紀君御筆の物は今以持伝、忠興君御感状松井・有吉書状なとハ室大火之
節焼失いたし候由、海辺にて御用ニ立候儀は忠利君御代ニも度々有之候様家記に見へ申候
一、太田作州下向一件之事、中津・熊本に達候ニ付手清正よりの返書
去十七日之御状、今日廿日戌之刻令拝見候、并奉行衆・年寄衆より之書状色々一ツ書共被入御念被差越候段一入令満足候、自是も以飛脚太
作罷下候様子申入候キ、定而可為参着候、中々其元への彼仁指念も有之間敷候、いつれも書状共不能返事之旨一段之御分別ニ候、口上ニ被
仰越候段直ニ承存寄通申入候間、可有其御心得候、猶斎藤伊豆守かたより可申入候、恐々謹言
加主
八月廿日 清正
松井佐渡殿
有吉四郎右衛門殿
御返報
(次回はいよいよ大友義統が蟄居の地から初向します)