如水江も、松井・有吉両使を以たんごへかへり候儀、とても不相成候ハゝ当城にて必死の覚悟をいたし、敵寄来るにおゐてハ矢石精力の有ん限り防き戦ひ届ケ可仕旨、各一決仕候段申演、且密事を談し候由、其節之返書
御両人被成御越様子承届御存分無余儀候、仍今度各丹後へ御座有度之旨御肝煎之段幽齋・越中殿へ懇ニ可申候、其段ハ無御油断通尤ニ候、丹後之
事も堅固之由候間、此上は上方之一左右御聞候ハで不叶儀候、目出度内海送可申候、猶御両使へ申候間不具候、恐々謹言
如水軒
八月一日 円清 判
松佐渡殿
有四郎右衛門殿
御返報
かくても各丹後の事道や無心元、何とそ帰国いたし度存居候処、播州姫路辺より慥なる人木付に来り此人家名不知、中村甚左衛門書状到来、丹後之国は幽齋君思召を以、宮津を初久美・嶺山其外の端城共悉く引払ひ、田辺一城に集り堅固に御籠城被成候由申来候間、少心を安んし、しかれハ帰国候とも城々かゝ
へ候儀は不相成、田辺は幽齋君御老功の御事なれハ、容易落城ハ有間敷、又此所を打捨まはらかけに罷上るも本意なき事に候間、弥城を相守、如水・清正等遂相談、追々敵地ニも可相働と議定候なり、又肥後より日下部与助被差越兵粮之儀府内より可被入由也、廿九日の使札八月二日ニ到着
態以飛札申入候、其元御仕置如何候や、御心元なく存候、万御隙を被明候ハゝ此方へ御出可有候、面談を以可申承候、随而兵粮抔有間敷と存候間、
府内ニ而相調入候様ニと申付候、如何可有之や、不存候、委曲立本方より可申候間委細ニ不能候、恐々謹言
七月廿九日 清正 在判
松 佐渡殿
有四郎右殿
御宿所
覚
一、府内より兵粮之事
一、松佐御上洛候ハゝ、有四残り候始末之事
一、其御城如水御請負候ハゝ何レも一同ニ御上洛之時之事
一、如水御請をひなく其御城ニ御入候時之事
一、此方へ御越候ハゝ、北浦へ松佐御一人ニ而も又ハ有吉同前ニ御上り候共、御談合之上ニ而御報ニ可承事
一、御両人此方より御上り候共、御家中衆其下々を船数ニ而ハけつく(結句)路次如何敷候まゝ、とても主計可罷上候条、其時御同船可然候、其間ハ此
方へ御逗留可有事
一、各一同ニ御上洛、此方より人数遣候時、誰々ニ而も士衆御一人被置候事
一、此内ハ何レニ成共相極候得ハゝ、我等飛脚ニ而も与助(日下部)ニ而も帰り候時、御両人之御使一人可被下候、夫も夫より直ニ御上り候得ハ不入
候、如水と御談合不相済、此方より之申分御同心ニおゐてハ一人可被下候事
一、御兵粮入候而草与助府内ニ被遣候ハゝ、猶以我等者ニ御一人可被下候、夫迄もなく急キ松佐此方へ御越候か、又各一同ニ御越候ハんならハ夫
ニ可随候、其御城御明候而ハ如何ニ候間、右之分ニ御沙汰候而一同ニ此方へ御上り有度候へ共、先々松佐迄御越尤ニ候、左様ニ候ハゝ此方よ
り人数可遣為ニ候、以上