津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

川上哲治氏逝く

2013-10-30 18:14:38 | 徒然

川上哲治氏が亡くなられた。打撃の神様と呼ばれ、巨人軍の日本シリーズ九連覇の遺業を成し遂げた球史に残るスーパースターである。

この写真は細川護立侯の二女・寺島雅子様(徳川家当主・徳川恒孝氏夫人の母)の御著「梅鉢草--思いつくまま--」に掲載されている、昭和16年21歳の頃の写真である。
細川家で行われた園遊会に出席したときのものだとされる。左から吉原・楠そして川上氏である。

さかのぼって昭和12年の秋には、ピッチャー川上を擁する熊工は、第九回明治神宮体育大会で中京(中京商業か)と対戦して優勝している。
雅子様も応援に出かけられ、皆と一緒に「ぼした~、ぼした」の掛け声をあげて応援されたとある。その後細川家に関係者一同が参上したが、川上投手は肘を痛め治療の為出席しておらず、雅子様は少なからずがっかりされたようだ。

その後の活躍は余りにも有名であり、名選手は名監督となり名実ともに日本一の野球人として名を残された。
まさに熊本が生んだ偉人である。深く哀悼の意を表したい。合掌。 

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大分・竹田の岡城

2013-10-30 15:56:26 | 徒然

                                        西中仕切から見た石垣(春) 竹田市のサイトから

「春高楼の花の宴・・・」で始まる「荒城の月」は、作詞家の土井晩翠が仙台出身であり、作曲家の滝廉太郎が大分出身でさてその御城はどちらか・・・仙台の青葉城跡とも、大分県竹田氏市の岡城跡ともいうが、なんとも云い難いところではある。
竹田の岡城はまことに歌詞にぴったりの御城で、隣県の人間としてはなんとなく応援したくなる。
この岡城、竹田にあるからついつい竹田城と呼んでしまう。最近では朝来市の竹田城がつとに有名だが、岡城も中々の風情がある。
にょっきりと雲海に浮かぶ風景は展望する場所がないのかあまり報道もされないが、どなたか素晴らしい写真を撮って発表されないものかと期待している。

               岡城跡  http://www.city.taketa.oita.jp/okajou/walk/

もともとは大伴一族の志賀氏が築いた山城だが、文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が入部した。
面白いことに、朝来竹田城の斎村政広同様、慶長五年細川幽齋が籠城する田邊城を攻撃している。後、東軍に加担して明治に至った。
随分以前だが、ご厚誼をいただいている佐久間一族のご子孫の御話から、佐久間盛政のお墓が竹田市の英雄寺にあることを知った。
中川秀成室・虎姫が盛政女であることによる。その五男・内記が佐久間氏を名乗り現在に至っている。
盛政が朝鮮出兵の折持ち帰ったという「牡丹の花」が有名である。http://www.youtube.com/watch?v=BC7em0dTKGM

大分へ所用があって何度かでかけたが、通り道の竹田は通り過ぎてしまう。機会を経て「牡丹の花」を拝見したいものだと思っている。 

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