『隔冥記』に現れる勧修寺家と飯山佐久間家の交わり
吉原 実
『隔冥記』は名家で正親町天皇の武家伝奏を務めた公家・晴豊の六男で、京都にある臨済宗・の山外の一つである鹿苑寺(金閣寺)第二世住持であったが、寛永十二年(一六三五)八月二十一日から寛文八年(一六六八)六月二十八日まで和尚が四十四歳から七十六歳、死の二ヶ月前まで三十三年間に渡り書き続けた自筆日記である。
その寛永十三年以前の分は、『鹿苑日録』に含まれているが、当時の公家・武家、町人など、実に様々な人物との交流の様子が事細かに描かれており、江戸初期の京都における風物や文化を知る上での貴重な史料となっている。後の慶応三年(一八六七)に、鹿苑寺住持・憲道修により保存修装され、鹿苑寺開基の足利義満公の帰元五百五十年にあたる昭和三十三年に、当時の京都大学教授で日本中世史研究の権威であった故・赤松俊秀氏により新訂本として編纂され、鹿苑寺より発刊された。その後に、京都の思文閣文庫本も刊行された。
一方、私は先祖と伝わる佐久間久右衛門尉安政や、その兄である金沢城初代城主・佐久間盛政など佐久間一族の研究調査を続けている。
その過程で、安政と弟・勝之が婿養子となっていた佐々成政の研究者である富山市在住の遠藤和子氏より『隔冥記』の存在を御教示頂いたのである。
安政、勝之兄弟は、戦国の厳しい時代を生き抜き、江戸の初期にそれぞれが信濃飯山藩主と信濃長沼藩主の近世大名となった。
それはちょうど承章が生きた時代と重なっている。実は、安政が成政の娘と離縁した後に再婚したのが勧修寺晴豊の娘・光寿院であった。承章和尚の姉にあたる。この二人の母は従三位刑部卿であった土御門有の娘である。その様な関係もあり、私にとっても先祖に関する貴重な史料となるかと思い、県内の図書館を捜し回り、金沢大学付属中央図書館で借りる事ができた。しかし、当然内容は真名書きであり、内容も難解で読むだけで大変な思いをしたが、光寿院を通した安政が藩主を務めた信濃・飯山藩との深い関わりが方々に読み取る事ができたのである。
和尚が『隔冥記』を書き始めた寛永十二年には、飯山藩もすでに初代安政や二代藩主となった二男の安長も他界しており、三代藩主はわずか七歳の三五郎安次であった。その為に祖母にあたる光寿院が後ろ盾となり、藩の運営に努めたのである。
それゆえに『隔冥記』には、弟である承章和尚の所へ幼い安次を連れて光寿院が訪れる場面も出て来る。また、安政と光寿院の間には六人の娘があり、それぞれが大名の所へ嫁いでいるが、その嫁ぎ先との和尚を通した一族姻戚の交流の様子も垣間見える。特に、豊後・佐伯藩の毛利氏、河内・狭山藩の北条氏に嫁いだ娘たちから和尚に度々贈答品が送られて来る。その使いをするのが佐久間姓を持つ家臣達。娘たちが嫁いだ時に付いてきた一族の者達か飯山藩主から姓を賜った者達なのかは判らないが、父子世襲で仕えている者が多い。
今回は『隔冥記』の中から飯山藩・佐久間家改易の寛永十五年前後の事が書かれている第一巻から第二・三・四巻を中心に取り上げて、その時代の動きや交流の様子を描いてみようと試みた。
寛永十三年(一六三六)
正月十九日
「自江戸之佐三五郎、為年玉、白銀貮枚給。江間紹以持参也。」
江戸の佐久間三五郎より、年玉として、白銀弐枚たまわる。これは江間紹以が持参した。
(江間紹似は飯山藩の家老。和尚に藩主の三五郎安次からのお年玉を持参した。白銀二枚は、現在の貨幣価値で三十五万円位ではなかろうか)
廿一日
「亡母多年召使老婦五六人、爲禮、來、向亡母遺像、焼香。例年明日廿二日雖來、明日予赴随菴公故、今日各來。」
亡くなった母の遺像に、長年仕えていた召使の老婦たち五・六人が焼香に訪れた。例年は明日の二十二日だが、(空性親王)を訪れる約束があり今日になった。
(母は土御門有脩の娘・寿光院殿天長貞久大姉。空性親王は親王の第二王子である。大覚寺の門跡、四天王寺の別当で後陽成天皇の弟にあたる)
八月十四日
「於等持院之内大圓院、有齋會、被招予。中川内膳正先考修理大夫二十五年遠忌之辰也。予未明赴等持院、予侍衣闇首座也。」
等持院の大圓院で行われる中川内膳の父、修理大夫の二十五年遠忌を司る。
(等持院は足利尊氏や足利歴代将軍家の菩提寺である。中川内膳は豊後岡藩主・中川久盛。修理大夫は中川で、安政の兄の佐久間盛政の娘・虎姫の夫である。和尚は侍り首座は相国寺の三伊のようである。)
十一月廿一日
「自十塚、着江府。従佐久間三五郎・光壽院殿、追々迎之侍・摝酌來。於川崎、逢之。直到光壽院殿、有打付振舞。入浴室。三伊公其外供者。皆到光壽院。荷物者直遺于宿所、孫右衛門相添、竹子屋彌十郎所、有寄宿之由。通町日本橋南町一町目西カハ、自南、三間目、十左
衛門所、予寄宿也。」
十(戸)塚より江戸に着す。佐久間三五郎・光寿院殿より、追々迎えの侍・摝酌(六尺)が来る。川崎においてこれに逢う。直ちに光寿院殿へ至る。打ち付け(いきなり)振舞いがあり、浴室に入る。三伊公、その他供の者、皆光寿院に至る。荷物は孫右衛門相添え、直ちに宿所に遣わす。竹子屋弥十郎の所に寄宿これあるの由。通町日本橋南一町目の西側、南より三間(軒)目、十左衛門の所、予の宿所なり。
(承章たちが十日程かけ江戸へ行った時の様子。とは、駕籠かきや下男の事。光寿院は愛宕下の飯山藩下屋敷を住居としていたようである。現在の東京都港区虎ノ門一丁目の虎ノ門ヒルズの辺りである。とは江戸の町を南北に走る大通り。神田須田町から日本橋・京橋から芝の金杉橋に至る中央通り沿い。三伊公とはの事。相国寺・玉竜庵の・)
廿二日
「光壽院殿之内土産遺也。土産遺亭主并内方、竹子屋彌十郎亦遺之。城古座頭來。齋了、到金地院、則康首座・教蔵主亦被來。酌酉水。則高薹寺今日下着、於金地院、對談。予到三五郎、晩炊有振舞。誾公同道、到光壽院。及深更、歸宅。」
光寿院殿の内土産を遣わす。土産亭主ならびに内方、竹子屋弥十郎またこれを遣わす。城古座頭来る。斎が終わる。金地院に至り、即ち廉・教蔵主また来らるる。酉水を酌み交わす。即ち高台寺今日下着。金地院に於いて対談す。予、三五郎に到り、晩炊の振舞いあり。誾公と同道、光寿院に到る。深更(夜)に及び帰宅。
(酉水とはお酒の事であろう。教蔵主は相国寺の僧。高台寺とは住持の三江紹益。翌日の二十三日には、幕府の年寄衆や奉行たちに挨拶に出向いている)
十二月小四日
「巳刻迄雨天、令門戸不出。於三五郎公、有傀儡棚見物。」
巳の刻まで雨天、門戸を出ざさしむ。三五郎公に於いて、傀儡棚(人形芝居)あるを見物する。
十一日
「午時於北條久太郎御袋、而有振舞、」
北条久太郎母の振舞いを受ける。
(この北条久太郎とは、河内・狭山藩三代藩主の北条氏宗。父は北条氏信で、母は佐久間安政と光寿院の二女である。承章の姪の子にあたる。しかし、この本の久太郎の注訳が氏重となっていて大変疑問に思っている。父・氏信の三弟は氏重というが、長男が名乗るのが普通である太郎を名乗る訳も無く、『隔冥記』が書かれる前にすでに没している。下総・岩富藩二代目藩主も同じ北条氏重だが、河内の事や久太郎の母も後に何度も登場するので姪の子である氏宗に間違いは無いと思う。共に小田原の後北条氏の末裔にあたる。安政が北条氏政に仕えていた関係による婚姻関係だろうか。注記の事も確認したいが、この本を編纂された先生方がすでに故人となられているのが残念である)
廿六日
「自佐三五公、為歳暮、小袖壹重給。」
佐三五公より、歳暮として、小袖壹重を給わる。
(佐久間三五郎より、和尚が小袖を一重戴いたようである)
廿七日
「自北條久太郎御母儀、爲歳暮、襦袢小袖壺・鼻紙五束給。自光壽院殿、爲小袖代、金子貮兩給。頭巾・帯・踏皮給也。」
北条久太郎の母から歳暮として襦袢小袖壹、鼻紙五束戴く。光寿院殿より小袖代として金子二両、頭巾、帯、踏皮を戴く。
(襦袢小袖とは(繻子地の錦)で作られた襦袢の事。踏皮とは皮で作られた足袋の事である。金子二両は今の二十万円位であろうか)
寛永十四年(一六三七)
正月九日
「今日於光壽院殿、初逢三五公母儀也。」、
今日、光寿院の所で初めて三五郎の母に逢う。
(三五郎の母は、飯山二代藩主・佐久間安長の室で、遠江・横須賀藩主で老中であった井上正就の娘である)
十日
「予今晩振舞光壽院殿也。奥之相伴十五六人、次七八人也。各爛醉、發歌聲、及半鐘。」
夜、光寿院を振舞う。奥の者たち十五・六人、次席の者たち七・八人と、歌を唄い泥酔するまで飲みあかす。半鐘に及ぶ。
(半鐘(半宵)とは夜中の意味)
廿四日
「晩於佐久間久助殿、有振舞。木下儉校・小槇后當・城志賀座頭來。有平家物語、有咄雑談、有三美線。及二更、而歸。」
佐久間久助殿の振舞いを受ける。木下検校、小槇后當、城志賀座頭たちが来て平家物語を語る。雑談をして三味線まで楽しむ。二更に及び皆帰る。
(佐久間久助とは飯山・佐久間家の重臣だと思われるが、人物の比定が出来ない。とは、夜の時間を五つに分け(五夜)その二番目の時間。とも言い、午後九時か十時頃から二時間をさす)
廿七日
「於三五公御母儀、有振舞。及深更、酌酉水、泥醉。臺物種々馳走也。木下左兵衛殿短尺拾枚被投予、請點愚筆。」
三五郎の母の振舞いを受ける。深更まで及ぶ。泥酔する。数々の御馳走が出た。木下左兵衛殿から短冊拾枚を渡されて愚筆で応える。
(木下左兵衛とは豊後・日出藩の二代目藩主・木下伊勢守俊治。和歌でも楽しんだのであろうか)
廿九日
「佐三五公振舞、有浄瑠璃操。及初更、小槇后當來、有物語。城志賀亦來、引三美線也。」
佐三五公振舞い、浄瑠璃操りあり。初更に及び、小槇后當来る、物語あり。城志賀また来たり、三味線を弾くなり。
(初更とは午後七時から九時か八時から十時頃をさす)
二月三日
「佐久間久助殿透引山住后當、而被來、挽三美線敷返。山住后當者、三美線當代名人之二人之内也。」
佐久間久助殿の誘いで山住后富の三味線を聴く。山住后富は当代の三味線名人の二人の内の一人である。
(后當とはの事だろう。盲官の役職の一つで、上位から検校、別当、勾当、座頭となる。山住后當とは後の八橋検校の事で、筝曲の基礎を創った人である)
十三日
「狩采女同道、赴佐久間。監殿十五日御茶之禮。自其、赴松倉長州。」
狩野采女と共に佐久間将監殿の所へ赴く。松倉長州殿へ赴く。
(狩野采女とは絵師の狩野探幽の事である。因みに、探幽は佐々成政の孫にあたる。佐久間将監は佐久間政(正)勝の事。尾張・佐久間氏の始祖である盛通の嫡男・盛明の曾孫に当たる。茶人としての方が有名である。十五日に盛大な茶会が開かれた。松倉長州とは肥前島原藩主の松倉長門守勝家のことであろう。和尚の兄・坊城俊昌の妻が勝家の妹にあたる。この年の秋に起こる島原ノ乱の原因である悪政の責任を取らせられ、翌年には大名に対する処置としては異例の斬首となった)
十六日
「為暇乞、赴金地院、夕飡、三五公母儀振舞。於光壽院殿、有振舞、酌酉水、到干撥明者也。」
暇乞いとして、金地院に赴き夕食。三五公の母の振舞い。光寿院殿に於いて振舞いあり、酉水を酌み、発明に到るものなり。
(発明とは明け方の事。夜通し酒を酌み交わしたのだろうか。和尚はかなりお酒が飲めたようである)
二月廿一日
「晴天。出江戸。佐三五公為送行、來于品川。於川崎、壹休也。高彌五佐・金太夫・幸琢被來。」
晴天。江戸を出る。佐三五公送行として、品川まで来る。川崎に於いて、昼休みなり。高弥五佐・金太夫・幸琢が来られる。
(今回の和尚の江戸下向の目的は、将軍・徳川家光からの寺領安堵の継目御朱印拝領の為であった。前年の三月十一日、京都所司代・板倉周防守重宗の邸に高台寺・真乗院・曹源院と和尚を含む五山寺院など(御朱印之有衆)が集められ、この度「継目御朱印」が発行される事になったと告げられたのである。将軍が秀忠から家光に代わり、改めて御朱印を発行するというのである。幕府から下向せよとの指図は無いが、重宗の勧めにより下向したのである。前年十一月に京を発ち、この年の正月十九日に持参した朱印状を返納、二月十日新朱印頂戴、続けて両朱印状の請取状の加判となる予定だったが、幕府は朝鮮通信使への対応に多忙で朱印状交付に時間が掛かり、和尚たちの滞在が今日まで延びたようである。高彌五佐は高井弥五左衛門、金太夫は加藤金太夫)
三月三日
「晴天白日。自草津、着京、於大津、晝休。昨日之牀達于北山、迎者共膳所崎迄來。雲峯・前渓・仁英西堂被來于北山。自方々、有使者云々。」
草津を出て、京に帰り着く。途中昼、大津で休む。昨日の予の書状で膳所まで迎えの者たちが来ていた。北山まで僧たちも来る。
(和尚は四か月の間、京を離れていた事になる)
寛永十五年(一六三八)
正月六日
「於晴雲軒、作善執行。齋僧十員斗。久昌庵大祥忌之辰正當也。」
久昌庵、大祥忌を行う。
(久昌庵とは承章の乳母だという。その人の三回忌を相国寺の塔頭・晴雲軒でしたようである)
二月十二日
「作三五郎之内、松本喜右衛門來。紹以同道。喜斎息勘兵衛亦來。於北山、振舞、點鳳團也。」
佐久間三五郎の内、松本喜右衛門が来る。紹以が同道。喜斎の息子・勘兵衛また来る。北山に於いて振舞いあり、「鳳団」の団茶を点じた。
(団茶とは発酵させたお茶のようである。松本喜右衛門は飯山藩家老。喜斉は張付師・歯科医の親康喜庵と思われる)
三月廿二日
「自作久間三五郎母義、為年頭之嘉悦、金子貮歩被恵之。當年初而給之也。」
佐久間三五郎公母儀より、年頭の嘉悦として金子二歩これを恵まる。当年初めてこれを給わるなり。
(金子二分は現在の四万円位であろうか)
十二月八日
「齋了、歸于北山。自江戸、書状來。佐久間三五郎訃音、銘肝膽、驚嘆者也。」
斎が終り北山に帰る。江戸より書状来る。佐久間三五郎の訃音、肝胆に銘じ、驚嘆のものなり。
(佐久間三五郎安次は、十一月の末か十二月の初めに江戸で亡くなる。九歳だと伝わる。翌年には無嗣絶家と言う事で飯山・佐久間家は改易となる。母方である井上氏の意向により、八百石の幕臣として家は残るが、飯山・佐久間家としての名跡は、安政の娘が嫁いでいた長沼藩家老職の岩間市兵衛家が佐久間と改名して継ぐ。この家から幕末の学者・佐久間象山が輩出されるのである。三五郎の母であった井上氏は、この隔冥記では後に再婚し竹中式部の妻となったと書かれているが、他の資料すべてに丹波・綾部藩主の九鬼隆季の継室となったと書かれている)
寛永十六年(一六三九)
九月晦日
「長井茶之壺今日初開口也。内々來月中旬雖可開口、來月五日自江戸、上洛仕佐久間三五郎家老四人依招之、今日吉辰故、開口也。餘之壺
未開也。」
晦日、長井茶の壺、今日初めて開口なり。内々来月中旬開口すべきと言えども(思っていたが)、来月五日に江戸より上洛仕る佐久間三五郎の家老四人これを招くにより、今日は吉辰(吉日)ゆえ開口なり。余(他)の壺は未開なり。
十月朔日
「佐久間三五郎家老三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛幷三五公守之片岡五郎兵衛自江戸、赴高野、自高野、依上洛、為音信、今日破木者馬場大木之枯木有之。則成破木、遺者也。自膳所、紅柿一折七十被恵也。」
佐久間三五郎の家老三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛、ならびに三五公守役の片岡五郎兵衛が江戸より高野に赴く。高野より上洛により、音信として今日破木を十把づつ遣わす。破木は馬場大木の枯木これあり、すなわち破木となし、遣わすものなり。膳所より、紅柿一折七十これを恵まるる。
(破木とは薪の事。高野山の奥ノ院には飯山・佐久間家の墓所があり、初代飯山藩主・佐久間安政はじめ多くの供養墓が現存している。安次や光寿院の墓も残っていると思われる)
五日
「佐久間三五郎家老共招之。三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛、前嶋猪右衛門也。其他片岡五郎兵衛、惣十郎、加藤金太夫亦來。家田勘兵衛亦來也。江間紹以來。」
佐久間三五郎の家老たちを招く。三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛、前嶋豬右衛門なり。其の他、片岡五郎兵衛、片山惣十郎、加藤金太夫また来る。家田勘兵衛もまた来る。江間紹以もまた来る。
八日
「今日佐久間三五郎家老四人・片岡五郎兵衛・片山惣十郎・加藤作右衛門・江間紹以、於玉龍庵、有振舞。袋茶遺之。大昔白遺之。」
(大昔白とは抹茶の銘である。昔ながらの茶葉を蒸す白製法で作った高級な濃茶。飯山藩佐久間家々臣の名が残る史料は初見である)
九日
「江戸遺之状、今日爲持、遺。此夏北條久太殿給予膳所燒茶入、予不人気之故、返進也。片岡五郎兵衛下向故、言傳、遺北條久太殿也。」
北条久太郎から夏に戴いた膳所焼きの茶入れを、家臣・片岡五郎兵衛に持たせて返却する。和尚は気に入らなかった様子。
十一月十二日
「光壽院殿大津之家來玄助ト云。賣券之加判、吉權右衛門到也。」
光寿院殿大津の家の買主・玄助が来て書面を整えた。
(江戸にいる姉・光寿院が所有していた大津にある家を、頼まれて処分したようである。その手続きをした吉權右衛門は、吉田權右衛門忠継といい和尚の使用人・妙清の前夫)
寛永十七年(一六四〇)
正月二十二日
「靑天。齋了、如例年、老婦達爲禮、被來。乍次、御影之燒香也。神岡越中内・小坊黄門乳母・淸春・淸甫・神殿此衆被來、終日打談、喫
夕飡、而被歸。」
(例年のように老婦たちが訪れて、母の遺像に焼香する。小坊黄門とは公家の小川坊城俊完、和尚の甥)
二月七日
「自光壽院殿、金壹歩貮丁來。每年、雖爲金子壹両、今年者貮歩也。自北袋、如例年、自市袋、金子貮歩來。毎年壹歩在之。自去年、貮歩
也。」
光寿院殿より金一分二丁送られて来る。毎年の金子は一両。今年は二歩なり。久太郎の母より例年の通り二歩来る。森市三郎の母より二歩来る。
(お年玉を頂いたようであるが、細かく記載している。和尚の几帳面な性格が判る)
寛永十八年(一六四一)
八月朔日
「甲辰日。靑天白日。自河内、飛脚上、自江戸之状來。自北條久太郎、亦書状來、河内道明寺糒三袋給之也。自此方、切形遺之、膳所焼之
茶入参丁入小箱、今日自北久太郎。雖然、茶入之薬悪、於不入予気、宣返納之由、自北久太、依申來、三ヶ之内内壹壺留置、而残貮丁者、
卽今令返進也。自河内之飛脚相留、卽今認返翰、先於河内、遺也。」
河内から飛脚が江戸の北条久太郎の書状を届けて来た。道明寺粉が三袋添えられていた。
当方も借りていた膳所焼き茶入れ三個が入った小箱を返却する。
(茶入れの釉薬の塗りが悪く、和尚はあまり気に入らなかった様子。三個の内の一個をそのまま置き、後の二個を返してくれれば良いと氏宗から言って来ている)
寛永十九年(一六四ニ)
六月十四日
「齋了、赴北條久太郎公宿也。昨日令堅約、今日必可赴北條久太郎公宿之由也。祇園祭也。江間紹以合聟所、見物之好處也。於其所、可令見物之由也。紹以合聟之所、御幸町三條通三條下町之角屋也。名道意也。北久太公令同道、到道意宿、山見物。於道意、切麥出、酌酉水、又歸久太郎宿、喫夕飡、而又赴道意、祭禮見物也。及晩、而予直到于相國寺也。今日、於北久太之内、佐久間清左衛門・田中權左衛門、始逢也。蒔繪師理右衛門亦、始逢逢也。桑山三右衛門是亦、今日始成知人。桑山修理殿表弟也。卽、娣聟也。桑山加賀守殿子息也。今者成町人、被居也。」
祇園祭を観るために北条久太郎が昨日上洛した。江間の相婿の家が三条通りの角家なので見物に都合が良いと皆が集まった。麦切りや酒が振舞われた。今日の昼には、久太郎、佐久間清左衛門、田中権左衛門たちが蒔絵師の理右衛門と初めて会う。桑山修理殿の表弟・桑山三右衛門が町人になる。桑山加賀守の子息である。
(表弟とはの事。蒔絵師に弟子入りしたのだろうか。桑山修理は大和新庄藩三代藩主で父は一直。継母が佐久間安政の娘で後の真照院である。真照院は安政と佐々成政の娘輝子(岳星院)との間に生まれた娘であったが、故あって母が関白・鷹司信房の継室となり、自身も養女となった。因みに、信房と輝子との間に後に出来た娘孝子は、三代将軍徳川家光の正室・本理院(中の丸殿)である。一方、真照院は豊後岡藩主・中川秀成(ひでしげ)の継室(前室は佐久間盛政の娘・虎姫)となったが子ができずに離縁。その後、鷹司家に戻り、再び桑山家に嫁いだのである)
十月五日
「予父租勧修寺晴秀公之御影、数年眞如堂内之内、東養坊有之由、常々老婦二位殿御物語有之、依然、以宥蔵主、賴眞如堂之蓮光院、而御影所望仕也。今朝宥公古御影一軸被持來也。開之、而見、則予亡父晴豊公面躰少不差、相似太奇太奇。卽、御影於此方、相留也。晴秀公薨、面到今年寛永十九年、而六十六年也。六十六年、而予對租父之遺像、感嘆有餘。」
父祖勧修寺晴秀公の御影は、数年に渡り真如堂内の東養坊にあり、常々老婦二位殿が護ってきた。以前より、宥蔵主から真如堂内の蓮光院に置くように言われていたので、今日、軸を持参した。それを開くとすぐに、その姿が亡父晴豊と似ていると言われた。晴秀公が亡くなり、今年寛永十九年で六十六年なり。
(勧修寺晴秀はの事で和尚の祖父。天正四年、南都伝奏を織田信長により罷免され、蟄居させられたそうである。「晴右記」を著す。宥蔵主とは、豊臣秀頼の娘で千姫の養女と言われる、鎌倉・東慶寺の住持であった天秀尼の事かも知れない。太奇とは、はなはだ奇妙だという意味。真如堂は東山にある真正極楽寺の事)
十一月二日
「冬至之行事如毎年也。自江戸、書状來。自北條久太郎殿御袋、爲音信、肌衣之小袖(股引之付白小袖)給之。珍敷物也。自光壽院殿、沈香買代金壹兩、今日來也。自河内北條久太郎公、書状來、薫物所望之由、申來。依然、我今日、於幡磿所、而薫物取遺、一香合、今日遺于北久太公也。」
北条久太郎の母より書状と共に、肌着の小袖(股引付白小袖)を戴く。珍しいものである。光寿院殿より沈香を買う代金として一両戴く。河内の久太郎殿からの書状で頼まれていた薫物を播磨屋で買い求め一香合、明日の飛脚で河内に送ろうと思う。(沈香とは調合したお香の事)
(文字数が32,000文字を越えたため表示がうまくいきませんので、2回に分けることにしました)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます