あて名の人物は家臣の小笠原民部であろう。
民部とは、ガラシャ夫人に殉死した小笠原秀清(少斎)の嫡男・長光であり、室は三斎の姪で吉田二位左兵衛兼治(室・忠興妹・伊也)女・たまである。
6,000石・家老、万治三年正月十日歿。
私はこの書状は、三斎の真筆ではないかと考えるが、そうだとすると丁寧な筆跡である。
しかし癖のある筆跡は相変わらずで、一見して即読み下しは出来ない。難行苦行が必要となるが興味深い書状である。
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