江戸城中で人違いで殺害された細川宗孝の同母妹・喜和姫は、対馬国府中藩主(3万石ー10万石格式)の宗義如(よしゆき)に嫁いでいる。
義如は8代目当主だが、9代は弟・義蕃が継ぎ、10代は義如の4男猪三郎が継いだが御目見えも済まぬまま14歳で死去した。
そこで六男富寿が身代わりとなって兄の名・義功を名乗っている。10代・11代とも側室の子だが同じ名前を名乗ったのである。
11代の義功(よしかつ)だと思われるが面白い話が残っている。中川延良が記した「楽郊紀聞」という著書に次のような話がある。
ある時義功がわずかの供の者と馬で遠乗りに出かけた折、川の近くに居る者たちを見かけ、供先の侍が「下に居れ~」と声掛けすると、大人たちは逃げ去ったが、川遊びしていた子供たちは逃げるもならず頭を下げた。
その中の一人が顔を上げて殿様を見上げ「ばあい、ぬしが殿様じゃったや」と声を上げた。殿様は叱ることもなく供の者と声を上げて笑われたという話である。
殿様の顔など見知る事のない百姓の子供だから、怖いもの知らずの正直な感想であろう。
ふと大国熊本ではこのような事が起こりえるだろうかと思った。遠乗りの道筋は前もって整備することを言いつけられ、当日は外出も制限されたことだろう。
もしこのような事態が生じたとしても子供が罰せられることはないにしても、親や五人組、村役人などは少なからずお叱りを受けるだろう。
対馬という国の小藩ならではの温かさや睦みあいが伺い知れてホッとさせられる。
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