聖書ほど多様な解釈が生まれうる本は、他にないんではないかと思います。
たとえば旧訳聖書の創世記(3章21節)に、「エデンの楽園を出て行くアダムとイブに、創造主は革の衣を作って着せた」という記述があります。
これがどういう意味をもっているかは、いろいろ考えられます。





第一は簡単で「これは創主の人間への愛を示している」というもの。
この解釈は日本で一番多く、99%がこれではないでしょうか。
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第二は「以後、二人には獣性が表に出てくることを創造主は示した」というものです。
罪を犯してその霊が力を失ったアダムとイブには、肉体の欲求・衝動が霊の力を上回るようになりました。従来は、霊に活力があったので、肉体の欲求は霊の要求に従属していたわけですが「今後はそうではなく、動物と同じように、肉体の欲求が前面に出るよ」と創主が示した、というものです。
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第三は「将来、人間のために将来(イエスによって)血が流されることを、予表した」
というものです。
つまり~~動物の皮を着せるには、動物を殺さねばなりませんよね。で、動物を殺して皮をとれば、血が流れます。それが「将来、イエスが現れて、人間の罪の効力を消すために、血を流すことを早くも予表している」~~といいうわけです。ベニーヒンはこういう解読をしています。
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この3つは、各々もっともだと筋が通ります。しかも互いに大変離れた距離にある。すりあわせ照らし合わせれば、ある見解が他の見解を間違いだと論理的に悟らせてくれるようなものでもなさそうです。
だから、一人で聖書を読んでいると、その一つにとどまりやすいです。一生その一つの解釈に留まることも多いでしょう。
その場合、解釈者は独りよがりになりやすいです。独りよがりは、独善に通じやすく、さらには傲慢につながりやすいです。
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でもこれを救う方法もあります。それは複数で集まって、見解を提供しあえる場を作ることです。こういう場で互いの意見を持ち合えば、複数の見解を同時にみんなで知りあうことが出来る。
その際、ただ他者の見解を知るだけでなく、互いに議論を交わせたさらにいいですね。そうすると、個々の解釈を深く認識することが可能になります。
それを可能にするのは、数人程度のグループでしょう。経験的には6人くらいが最適なようです。そうすると、聞きっぱなしの一方通行ではなく、意見を交わしうるようになるのですね。
これを米国の南部ではスモールグループと呼んで、実行しています。
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ただし、ただ少人数で集まればそれでいいというものでもないようです。複数の解釈を平等に知れるようにするためには、みんなが自由に発言できるようにしないと難しいです。そしてそのためには、討議で正しい解釈を一つに定めることを目標にしないことが肝要です。
一つに定めようとすると、実際の話、それでもって他者を裁いてしまうことになりやすいのです。それが予想されると、メンバーは自分の意見を出せなくなります。
また、裁くまでには行かないにしても、見解を一つにしぼることを目的にしても、徐々にある一つの意見を退けていくことになる。この過程をとるとやはり、各々の解釈を自由に披露するのに障害がでるのですね。


そこで、ルールを作ります。
会が終わった時点においても、正しい一つの解釈がえられることを求めない。
会が終わりに近づいても、結論めいたことは言わない。
複数の意見が併存した状態のままにして、会を閉じる。
~~こういうルールです。
~~米国南部では、もう慣習的になっていますのでこれは暗黙のルールでしかありません。ですけれども、初めてする地域では明示した方がいいような感じがします。
(続きます)