鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.24「風水は本来は科学的な知識」

2005年12月20日 | 「考える宗教」へ

「ゼロ百」意識をもう少し考えてましょう。
          
 物事を「ゼロか百か」で考える性向は人間誰しもある程度はもっているようです。ですけど、同じ人間でもこの性向には人によって、そして民族によっても大小があるようです。そして、民族で見ますと、日本人にはその傾向が比較的大きいようです。これからそのあたりについて、いろんな角度から考えてみます。



                  


<中国の「風水(ふうすい)」>

 鹿嶋はこのところ中国に接触する機会が増えてきています。中国で社会事象を調べていましたら、この国でなされることには「風水」が意外に考慮されていることに気づきました。都市開発にもそれは入っているようです。

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 たとえば、都市には広場があります。貧しさなどの歴史的事情で作れなかった都市では、再開発のチャンスに作ります。上海の世紀広場などはその例なようです。

 どうして広場をつくりたがるかと言いますと、どうも、風水の気の流れを考慮しているようです。都市の街路を自然の気、人々の気が流れている。それが集まって気のエネルギーが渦巻く。人々はそこに来ることによってエネルギーを吸収できる。そういう空間が欲しい、ということなようです。

 広場は、そこにつながってくる街路よりほんの少し低めに土地をならして作ることが多い、と教えてくれた人もいました。そうすると気が流れ込んできやすい、ということでしょうか。鹿嶋は確かめていませんが、上海の世紀広場はそうだといっていました。高低はともかくとして、北京の天安門広場も気の流れを考慮して位置が決められ、広さが決められたうえで作られているそうです。


                  

 中国の風水は、後に易経(易学)の一環として、易学として取り入れられその一部となりました。日本にも易学として輸入されました。日本では、家の建築などにそれは大きな影響を与えました。今でも与えています。

 代表の一つは鬼門の教えでしょうね。鬼門とは方角の東北を指します。家を建てるとき、設計士や建築会社は必ずと言っていいほど、「玄関は鬼門に位置づけないように」と言います。

 家は通常四角い形で敷地の上に建てられますよね。その場合、玄関は東北の角位置に作らない方がいい、作ると不吉なことが起きる、というのですね。で、どこがいいかというと東南の位置が一番いいそうです。

 これは日本では易経の教えとして、受け取られていますが、そもそもは中国の風水の知恵です。


                  


<根暗とネアカ>

 中国の風水はそもそもはとても科学的だったようです。
 たとえば「気」という名で呼ばれているもの、これは目に見えません。けれどもほとんどの人々が感知できるものです。

 よく人を根暗(ねくら)とか根明(ねあか)といいますね。これはその人の皮膚とか姿形とかの物的なものについていっているのではありませんよね。そういう物的な肉体の周囲に醸し出されている何かを認知してのことです。

 雰囲気といってもいいかもしれません。そういう「気」です。それが暗い感じの人を根暗という。明るい感じの人をネアカといっていますよね。

 それにどうして「根」という語がつくかと言いますと、それによって、何かその人の根っこのようなもの、核心のようなものを言おうとしているからでしょう。なにか根本のところが暗い。それが身体の表に醸し出されている。

 それが多くの人に感知できるものですから、みんなの共通語として流布するわけですね。内容が感知できなかったら、なに言ってるかわからなかったら、その言葉は途中で風化して消えてしまいます。

 「気」というものは、そういう実体だから、その流れや、勢い、明るさ、暗さを人間に重要だと考える。その結果、明るいそれが集まり、渦巻く場所を作ろう、そこをみんなが集まるようにしよう。こう考えて広場が設計されるわけです。

 ともあれ、みんなが同じように認知できるもの、これをベースにいろんな法則的なものを見つけ出そうとする、これすなわち、科学です。風水は、その出発点においては、とても科学的なのです。


                  


<鬼門を避ける経験科学的根拠>

 家の主要な入り口(玄関)を鬼門に作らない方がいい、というのも、出発点ではとても科学的です。気の流れを考えている。

 東北の方角は太陽の光が当たりにくい場所で、朝のひとときをのぞいては暗いです。また、中国の多くの地域では、湿気も多いし、この方角は比較的寒いですよね。

 で、こういう方角に玄関を作ると、秋冬には入り口から寒い空気が入ってきやすいです。これは「陰気」という気に通じています。来客もこういうところから入るのは好みませんよね。だから、東北の位置に家に出入りする場所を作らない方がいい、というのは科学的な知恵なのですね。

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 この考え方でいきますと、好ましいのは、逆の太陽光線が当たりやすい位置となるでしょう。その一番の場所が東南なのですね。南は太陽が当たりやすい方角です。それが「陽気」という気につながっている。

 そして、東と西を比べますと、朝のさわやかな陽光があたるのは東となります。西は夕日ですから、午後から夕方に日が当たりやすいですよね。そして、午後の光は朝日のようなさわやかささ、すっきりした "切れ”のよさがないですよね。

 結局、経験的にも東南が一番となります。そこに出入り口を置きなさい。そうすれば多くの来客がきやすいし、それによって家も栄えやすいですよ~~こういうことになります。とっても経験科学的です。

(続きます)

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Vol.23「サリン事件も“ゼロ百”から」

2005年12月20日 | 「考える宗教」へ

 ~~みなさん、しばらくお休みいただきました。
鹿嶋です。
 もう少し「百ゼロ思考」「ゼロ百」意識に関する考察を続けます。


              



日本人の「ゼロ百」意識はサリン事件の原因にもなっています。
 これを起こしたオウム教団には、いわゆるエリート大学生、大学院生がたくさん働いていて話題になりましたね。頭のいい若者がどうしてこんな宗教教団に誘引されたか、ともみんな不思議に思いました。

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 だが、ここにも「ゼロ百」意識が働いているのです。
 日本人一般の戦後の宗教意識はほぼ完全な「百ゼロ」ないしは「ゼロ百」思考でした。
 霊的な事実などあるはずがない、とゼロで考えていました。

 これは合理的な考え方ではありません。
 見えないものが存在するかしないかは、見えないからわからないわけです。
わからなければ、見えない存在があるかないかは合理的には五分五分でしょう。
存在しない確率は50%です。
 彼らは学校でそういう論理を学んでいるはずです。

 なのに、霊的な事象に関しては確率をゼロに見積もってしまう。
 そうなる理由は、宗教に関しては「ゼロ百」意識が心の底にあるからでしょう。

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 その状態で若者たちは、教団に接触して若干の霊的体験をさせられた。
 彼らは当初、ゼロ状態で耐えます。
 そんなこと起きないはずなのに・・・と。

 しかし、耐えられなくなると一気に百にいってしまった。
 ゼロ百は、途中がないので、ゼロでなくなると突然、百にコロンといってしまうのです。

                   

 ああいう教団に入っていたら、時々「変だなぁ~」ということにも出会うでしょう。
 でも、その体験を踏まえて変化することが出来ません。
 「ゼロ百」では、百でなくなるということはゼロになってしまうことになります。
 心理的にそこまでは行かれないので、若者たちの意識はまた百に戻ってそこに留まることになります。

 それで、多くの殺人犯罪を犯すまでいってしまいました。

 「ゼロ百」意識は日本人の宗教的純朴の原因になっています。
 それがあるからどんなに学問をしても、宗教意識は成熟していくことがないのです。
 
 これへの対策は、その「ゼロ百」意識を自覚することです。
 そうしたら始めて、変わっていく可能性、成熟する可能性が生じます。


                    
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