こんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。
聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本ですから。
仕合わせの聖書論理、第11回です。
超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。
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「どうせ死んでオシマイ」という思いを忘れるための次の方策は~~
3.「感動!」の場面を求める。
~~です。
感動すると、人間は「どうせ死んでオシマイ」という事実をしばらく忘れることが出来ますからね。で、懸命にこれを求めるわけです。
これはもう、スポーツとか、芸術とか、映画、ドラマなどという手段がありますね。
日本は、伝統的に、この種の方策が豊かに存在する国なんですね。
「死んでオシマイ」という意識を「無常観」という哲学的な理念に高めました。
そして、あらゆるものが無常の中で滅びていく様に「美」を見つけもしました。
「わび、さび、あわれ」の美感がそれです。
「わび」は、滅びていくものを見て感じるわびしい気持ちです。
その気持ちも、じっと見つめていると人は「美」を感じる、というのです。
「さび」は、「寂しい」気持ちの凝縮したものです。
「あわれ」は、「あわれだ」と感じる気持です。
これらが美感にまで高められているんですね。
こうして、無常を「覚悟」してしまいます。
このような「死んでオシマイ」にも精神的に対処する方策が、日本では豊かに実っておりました。
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日本は、そういう伝統が確立した国です。
だから、永遠、などということには、なかなか意識が向かいません。
「そんなこと考えるなんて、ばかげている」と考えやすい精神状態が確立しているんですね。
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ところが、聖書の教えは、この「永遠」への対策が中核になっているのです。
そのことに、無常観が定着した精神構造では、正面から対座すること自体が難しいのです。
ここに「すれちがい」の条件が出来ています。
無常への悟りは韓国や中国よりも、日本でははるかにしっかりと定着しているようです。
海に囲まれた立地によるところ大きいでしょう。
異民族に政権を奪われるという体験がない。
その意味で、平和でした。
庶民には貧しさはありましたけれども、異民族に皆殺しにあったり、蹂躙されたりする恐怖が少なかった。
だから比較的じっくりと、無常観を哲学的に悟ったりすることが出来たのでしょう。
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しかし、もう一つ大きな要因があります。
それは、「永遠」の問題に対して信頼できる見解を提供してくれる書物がなかったことでしょう。
この世の人間には誰も死んだという経験を持っているものはおりません。
だから、死後のことなどは経験的手がかりをもって考えることが出来ません。
自分で考えられることは、知れているのです。
なのに、問題がさらに「永遠」ということになったら、もう手の出しようがない。
自分の経験的思考を超えたもので、内容のしっかりした信頼に足る書物がほしい。
これがないことには、この問題については実のある思考が出来ないのですね。
福音伝道がなされる以前のローマ帝国もそうでした。聖書の教えが入ってくるまでは、どうしょうもなかった。ローマ人たちは、人生のむなしさを、快楽を追求することで紛らわしていました。
そこに福音の教えが入った。
そうしたら、永遠のことに対して確信をもって、仕合わせ感をふかめる人がたくさん出たのでした。
日本でも、聖書がもっと早く入っていたら、状況は変わっていたでしょう。
実情は、まだ入ったばかりですからね。
いまのところ、仕方ないのでしょうね。