こんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。
聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本です。
仕合わせの聖書論理、第13回です。
今日は少し理屈っぽいです。
先回、理性が眼ざめた状態で完全化された「仕合わせ感」を得るには、永続確信が必要である、といいました。
永続確信というものを、もうすこしきちんと考えましょう。
それには実は前提があります。
「永遠」(eternity)という理念が良く理解されることです。
理解というのは、頭のてっぺんで言葉を引っかけている状態では出来ていないんですね。
端的に言えば、「体感」されていなければなりません。
永遠を体感するって?
そんなことできるのか?
できます。
体感の「体」というのは、自分の身体です。
一般的な人々ではなく、理解しようとしているその人の自分の身体ですね。
身体は、いま現世で自分の身にまとっている身体です。
でも、この場合は、霊とは別の肉体という意味ではない。
聖書で永続するとしているのは、意識体としての霊です。
この意識体がこの現世では肉体の中に入っている。
その「時点」での意識体(霊)ということです。
つまり、この現世でのいまの自分の意識だ。
その意識が体感しなければ、真の理解になりません。
意識が体験する対象は、「永遠」という理念でしたね。
どうやって?
自分の意識(霊)が永続すれば、意識活動も永遠に続けるはずでしょうね。
そういう無限に活動する意識活動をいま体感するわけです。
21世紀の終わりまでなんてものではない。
40世紀、80世紀、一億世紀時点でもズーと活動し続けているいる状態です。
そんなことが体験出来るか?
それに関しては、ベルグソンという哲学者がためになる知識を残してくれています。
よく、過去、現在、未来といいますよね。
その「現在」とは何か、という問題を彼は提起しています。
我々の頭に通常あるのは、過去と未来の間にある一点ですよね。
それより少しでも前の時点は過去だ。
それより少しでも後の時点は未来だ、というようにして。
ところがベルグソンはそれは幻想だと言います。
そういう「現在」は、我々が数学の幾何学(平面幾何学)の線(直線)と点を現実(実在)に当てはめて考えた結果である。
しかし、現実はそういう風にはなっていない。
だって、平面幾何学の「点」は「位置だけあって面積がないもの」という定義だ。
もし「現在」がそうならば、時間の広がりをなにも持っていないことになる。
でも、自分たちが感じている「現在」はそうではない。
ある時間の広がりを持った現実・実在だ。
そして、この「時間の広がり」といっているものの実体は「持続の感覚」なのだ。
われわれが実在を現在として認識しているその内容は「持続感」なのだ、という。
これいただきましょう。
「いま」という持続感を体感しましょう。
これはできるでしょう。
次に、この「現在」という持続感をそのまま将来にずぅ~と広げていきましょう。
無限に広げていく・・・。
その時の感覚が、永遠という理念の体感です。
この経験を持つのが、永遠を「理解」したことになる条件です。
これによって「永続確信」も実体を持ってきます。
それだけではない、聖書の真の理解もそこからスタートします。
聖書という書物は、人類が自分や社会を考える際に「永遠」という概念を本格的にもちこんでくれた書物なのです。
本格的、というのは、投げ下ろしの直球勝負で、ということです。
変化球でこそこそっと、というのではない。
最初から、が~んと永遠という理念を持ち込んでくるのです。
聖書は実は、我々が五感で経験認知するものを、永遠という視野の中で認識させてくれる書物なのです。
ですから、その永遠が体感理解されていないと、聖書の理解は基本的になっていないことになる。
読んだって基本的には理解していないことになるのですね。
だから、聖書の与える「仕合わせ感」も同じことになるんですね。
永遠を体感することは、「仕合わせの聖書論理」の基礎になっているわけです。