鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.121『「輪廻」と "generational curse"』(9章)

2006年02月28日 | ヨハネ伝解読

 
「ヨハネ伝解読」第9章に入ります。
 ヨハネはまず、イエスが盲人を癒す場面を記録しています。


                 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「この人が生まれつき盲人なのは、罪を本人が犯したからですか、それとも両親ですか?」(9章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                


 一人の盲人が道ばたにいた。立っていたか、座っていたかわかりませんが、とにかくいました。イエスは哀れみを感じて、立ち止まったのでしょう。

 そこで弟子が、冒頭の聖句として示したような質問をしています。

  この質問は多くのことを含意していますね。まず「目が見えない等々の病は、罪を犯したから来る」という思想を弟子たちが持っていることを示しています。

 イエスは、そのことについては、否定をしていません。ということは「病は罪を犯すことによって、そこにすべり込むように入ってくるものだ」という考えを、イエスは間違いとはしていない、と解していいのではないかと思います。


                 


 しかしこのケースでは考えさせられる点があります。「病は罪から来る」というのはいいのですが、このケースでは盲人は「生まれつきの」盲人なのですね。そしてヨハネの文章では弟子たちも「生まれつきだと判断して」います。

 するとですね。この人が盲人になった原因である罪は、彼が「生まれる以前」のものということになりますよね。

 彼が生まれる前に犯した罪って何でしょうか? 神学でいう、いわゆる原罪が考えられそうですが、そうではなさそうです。原罪とは、アダムから継承されて人類が生まれながらにもつ罪、という意味の神学用語ですが、そういう罪の観念は、この段階では弟子になかったでしょう。

 もちろん、イエスは「人は生まれながらにして罪人」という教えはのこしていきます。しかし、ユダヤ教に育った人々の頭にある罪の概念は「行いの罪」だけです。弟子たちもこの時点ではそうだったと思われます。


                  



 すると、この盲人が生まれる前に犯した行為の罪が想定されて、この質問はなされていることになります。ええっ? 彼が生まれる前に行為の罪を犯すって?

 そういう可能性があるのは、彼に前世がある場合のみです。その時にのみ、彼が次の世で盲人として生まれつくに価するような罪を犯した、という理屈が成り立つのです。

 そして、そういう前提に立った質問に対して、イエスは「何を馬鹿な・・・」と言ってはいません。これは「人間には生まれ変わりがあるということを否定していない」と解せるではないでしょうか。

 日本の信仰者の多くのかたは「まさか!」とお思いになるでしょう。だが、それはみなさんが「生まれ変わりなんてない」という解釈だけを繰り返し牧師さんから聞いてこられたからにすぎません。

 もちろん聖書には、人間に生まれ変わりはある、といっている聖句はありません。しかし「生まれ変わりはない」という聖句もないのですね。論理上は、ある、という可能性が残っているのです。

 そして、イエスの時代人々は「生まれ変わりはある」という思想をむしろ持っていたのではないでしょうか。そしてイエスもそれが間違いだとはしていないのではないでしょうか。それが本日の聖句に現れているのではないでしょうか。


                 


<聖書の鉄則は崩れるか?>

 「生まれ変わりなんてとんでもない!」とするう人々の内にある根拠は、「生まれ変わりがある」とすると聖書の鉄則が壊れてしまう~~というものです。

 「イエスを信じたものは、それで救われる資格を得た」というのは聖書の鉄則だ。にもかかわらず、彼がまた生まれ変わって出てきたら、それは罪人として出てくることになる。だったら、今度は彼がその生涯でイエスを信じないこともありうるだろう。

 そうしたらどうなるか。今度は彼は救われないことになってしまう。それなら、前世で得た救われる資格はどうなるのか。このように、鉄則が崩れるんだ~~と。

<全員が生まれ変わるのでなかったら?>

 けれども「生まれ変わるのは、生きている間にイエスを信じなかった霊だけ」ということだったらどうでしょうか。それなら、その霊は信じて救われるチャンスをもう一度与えられたことになります。

 他方「イエスを信じた霊は、もうこの世に生まれ変わってこなくなる」などという論理は成り立つのか。ありえます。信じた霊は「パラダイス」という、別の空間に行き、そこからはもう生まれ変わりはない、ということであれば、成立し得ます。


                 



 19世紀にスタートした心霊科学(スピリッチュアリズム)は、霊界のことを経験科学的に追求しようという学問です。この領域の成果に『ブルーアイランド』(エステル・ステッド著、近藤千雄訳、ハート出版)という本があります。この本に記述されていることは、その可能性のあることを示唆しています。

 あくまでも可能性ですけどね。科学の理屈というのは、最後の最後まで「・・・ではなかろうか」というニュアンスを含めた「仮説」(仮に設定した説)です。春平太は、断定してはいません。こういう解釈の余地が、論理的に生じる、ということであります。


                 


<ジェネレーショナル・カース> 

日本のクリスチャンの方からしたら「ええっ?」という点が、本日の聖句にはもう一つあります。それは~~

 「この人が盲人として生まれついたのは、両親の罪によるのか?」という弟子の質問にイエスが「なんて馬鹿なことを言うのか」~~と叱っていないことです。

 これは、世代間に渡る「呪い」はあるものと当時考えられていたことを示唆しています。と同時に、イエスもそれを否定していないことを示しています。

 日本クリスチャンのほとんどは「まさか!」でしょうが、それも通念によるところが大きいでしょう。旧訳聖書には、世代間にまたがって呪いが降りかかる思想が記されています。

 米国では、これをgenerational curseとし、それでもって不幸に苦しむ人を説明し、また、そこから解放する成果を上げている牧師さんがいます。ラリー・ハッチ牧師とかマリリン・ヒッキーという女性牧師はその例です。


                 

~~聖書の言葉そのものにあたると、このように通念的な解釈をこえた境地に至ることも出来ます。従来の教理に縛られず、自由且つ率直に聖句を考えていくのは貴重なことです。



               


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする