こんにちわ。
今日も「ヨハネ伝」です。
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=聖句=
「諸君は、諸君らの父である悪魔から出た者だ。だから、父の欲望通りに行動するのだ」(44節)
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イエスの教えでは、この世は悪魔の側に属しています。だからこの世に生まれ生きている我々は、自然なままだったらその意識の根底は悪魔から出る状態になっている。前回、こう解読しました。本日はその次です。
そういうわけですからイエスは、ユダヤ人たちが自分の話を受け入れる可能性はない、と見透かしているのですね。でもね、こう思いませんか。もしそうだとしても、そんかこと言葉に出して言わなくったって・・・と。
だが、それは人間の常識なんですね。創り主は、真理をそのまま率直に言うしか出来ない。創り主は万能といっても、実は出来ないこともあるんですね。「偽りをいうこと」がそれです。創り主の常識ではそうなんですね。
そこでイエスは、どうしても率直に言うことになってしまう。「いや、あなたがたにも希望はあるよ」などというお上手は言えない。そういって摩擦を少なくすることは出来ない。イエスは偽ることが出来ない存在なんですね。
だから、こんな言葉がボンボン飛び出します。
「諸君らは自分の父である、悪魔から出た者だ」(44節)。
「だから、父の欲望通りに行動するのだ」(44節)
「諸君らの父である悪魔は、はじめから人殺しなのだ」(44節)
「悪魔は真理の側に立っていない者だ」(44節)。
「悪魔は偽りの父なのだ」(44節)。
真理(天)の側に立つ者、と、偽り(世)の側に立つ者とは、絶対に相容れない。だから、自分が真理を言っても、諸君は絶対に受け入れないことになっているんだ。受け入れる者は、創主から来た者だけなのだ
~~これらのことを、イエスは一気に言い放っています(45~47節)。
「このように、世は悪魔の側のものなのだ」ーーーこの認識は、この世で生きている我々人間にとっては、受け入れるのに抵抗感がありますね。だって、自分が今その中で生きているのですからね。
愛する子孫もそこで生きていきます。その場所を、「根本的に悪魔の側のものだ」と考えたら、あまりに寂しいではありませんか。
でもこの命題を、抵抗少なく受け入れる方法もあります。それは「この世ではなく、天国に真の希望を抱くという心境になる」ということですね。そうでなかったら、心が暗くなってやりきれません。
この点は、一つのポイントですね。言い方を変えますと「この世ではなく、天国に真の希望をおいている人だけが、この命題を真理だと受け入れる」ということになります。
そうなってない人にはどんな人がいるでしょうね。まず、「聖書に触れたことがない人」でしょう。知らなかったら、受け入れるも入れないも何もありませんからね。これは当然だ。
もう一つのグループがあります。
「聖書に触れたり学んだことがあったり、その教えを受け入れてクリスチャンとなった、洗礼を受けた」という人にも、そういう人が多いのです。
理由は色々ありますね。第一は「聖書のこの箇所(天と世の絶対的対立という鉄則がかいてあるところ)には意識が及ばなかった」というもの。そういうクリスチャンも、結構いますよ。
理由の第二は「ここは読んだことはある、けれども、天国に対する確信が強く持てなくて、結局、この世への希望が捨てきれない。そこで、「世は悪魔のもの」という命題は、意識から消してしまう」というものです。
キリスト教的な思想を信じているようでいて、この世に理想郷をつくろうとして身もだえている人がいます。また、そういう、変種のキリスト教に心酔している人もいます。そういう人は、みなこの類です。これがいつの時代でも多いのです。
「世は悪魔のもの」というイエスの教えの鉄則を踏まえないと、聖書の理解は基本的なところで外れていきます。他をいくら読んでも、的外れな理解しかできなくなるのです。
これはそれほど重要な鉄則です。ヨハネは、これに対して8章の中で、多くのスペースを当てています。そのことがヨハネ伝の価値をいっそう不動のものにしています。