こんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。
聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本です。
仕合わせの聖書論理、第13回です。
これまでに述べたことを、もう少し詳しく考えてみます。
以前に「どうせ死んでオシマイでしょ」という声を忘れる第三の方法は「感動!」だといいましたね。
無常ということだって、無常感にし、それを美感としてしまうという方法を日本人は確立しているのだ、といいました。
しかし、美感という感情には、あまり精緻な論理的枠組みが伴っていないんですね。
よく、「何かを確実に行うためには理論武装せねばならない」、といいますね。
この理論の部分が単純です。
だからこれは気分によって、割合簡単に崩れるわけです。
「アリガト運動」はもっとそうですね。
あるのは実践技術的なことだけで、これといった基礎理論はほとんどない。
だから、しばらくすると意識が崩れます。
そうしたら、また「ありがとう」「ついてる」を繰り返すしかない。
あるいは、テレビをつけてさらに「感動!」番組をさがしもとめるしかありません。
~~こうした方法は、基本的に「知・理性」をねむらせ鈍感にする方法です。
人間には幸か不幸か「理性」が備えられていますよね。
これが常時「どうせ死んでオシマイでしょ」という論理を意識に持ち込んできます。
これはしょうがないんだよね。
五感がキャッチする事実なんだから。
「理性」が事実判断をしてるだけだから・・・。
アリガト運動は、この事実を理性がなるだけ意識しないようにしてくれます
この方法では、基本的に「理性」を眠らすことになるのです。
しかし「理性は」はしばらくすると目を覚まします。
だから、この方法で得る「仕合わせ感」は崩れやすいんですね。
そこでまたがんばって「ありがとう、ありがとう」と何万回も繰り返すわけです。
~~これはもうどうしょうもないことか。
仕方ないことだろうか。
人間にはこれしかないんだろうか・・・・。
これに対して、そうじゃないよ、と教え始めた人がいたのですね。
これがイエスだった。
この教えが福音だったのです。
イエスは、「死んでオシマイではないよ」と言い始めた。
「ええっ?!」
とんでもないことです。気は確かか、と尋ねたい状況です。
だが、イエスは、「人間は永続するという論理を」しっかりした体系を持って教え始めました。
なおかつ彼は、その教えを「しるし(奇跡)」でもって傍証しました。
これが福音(いい知らせ)です。だってそうでしょう。「いい知らせ」に決まってますから。
そしてそれが聖書に書いてあるわけです。