こんにちわ。
鹿嶋春平太です。
このところまた、海外に出ておりまして、
しばらくお休みいたしました。
ではまた「ヨハネ伝解読」いたしましょう。
「ヨハネ伝」は聖書の中の聖書です。
それだけに、記述していることがとても深淵で且つ広大な世界にわたっています。
とくに、この8章では深いです。
ヨハネは、どうしてこんなことを七面倒くさく書きつづるのでしょうね。
そもそも、何のために。
それは「これを読む人が仕合わせになるため」です。もっと端的に言えば、「人間が仕合わせになるため」です。
ヨハネは手紙も書いてます。
一番長い手紙は、最初のもの「ヨハネの第一の手紙」です。
ここでヨハネは信徒に向けて「戒め」をたくさん書いています。
「あれをしてはいけない」「これに気をつけろ」等々と、厳しいです。
これを読んでいくと、我々はついつい、キリスト教は人を縛る宗教ではないか、と思いがちになります。
だが、それを懸念してでしょう、ヨハネは先にわざわざこう述べています。
「わたしたちは、私たちの喜び(歓喜)が完全化するためにこれを書いています」(ヨハネの第一の手紙、1章4節)
ジョイは仕合わせの中身でしたね。仕合わせとは詰まるところ、心がジョイ(喜び・歓喜)で満たされていることです。それが「完全化」するためにこれを書いているというのです。
これがヨハネが生命の危険を顧みることなく、執筆している根底的理由です。
この「ヨハネ伝」8章もそうです。
とても深く、理屈っぽいことを言っています。
もっと簡単にいったらいいのに。
「創り主が人間を作ったのは人間が陽気暮らしをするためだから、みんな心を陽気に暮らしなさい」といってたらいいのに・・。
だが、ヨハネはその陽気をもっと「完全化」したいのです。
陽気暮らしを完全化するには、イエスがどんな方かをよく知るのが鍵だと確信して動じなかったからです。
そのために、この七面倒くさい論理を書き残していったのですね。
聖書は、人間に完全化された仕合わせを与えようとして書かれているものです。
この目標をいつも彼方に定めて、今日もヨハネ伝を解読しましょう。
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=聖句=
「アブラハムの生まれる前から私(イエス)は存在しているんだよ」(8章58節)
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前回、イエスがユダヤ教の僧侶たちに「諸君は悪魔から出た者、すなわち悪魔の子孫」と言った状況を示しましたね。で、この論理が理解できなかったら、言われた人はどうなるでしょうか。頭に来ますよね。
だから彼らは
イエスにはこう言っています
「あんた、悪霊にとりつかれているんじゃないの?」(48節)。
~~当然でしょうね。
しかし、イエスはこれを軽いタッチでいなすということはいたしません。創主は偽ることが出来ないのです。あくまでもストレートに投げ返すしことしかできません。
「私は父なる創主に栄誉を捧げているよ。もし、創主の名誉を汚しているんならば悪霊がついていることになるだろうけど」(49節)。
「もちろん、自分の名誉を求めてやっているのでもない。栄誉を求めるに価する方は、父なる創造主だけなんだ。そして、その方は自らの思いのままに裁きをもなされる。無視したらいかんよ」(50節)
「そして(私はその父の語られるままを語っているのだから)私の言葉に従うものは、死ぬことがないんだよ」(51節)と。
~~もちろん、イエスのいっているのは、その霊が死ぬことがない、という意味です。
ところが、ユダヤ人たちは肉体の生死しか意識にない。だから、またいいます。
「ほ~ら、そういうことを言うのが悪霊につかれている証拠なんだ」(52節)。
・・・もうすれ違いばっかり。
さらに彼らは言います。
「あの偉大なアブラハムだって死んだんだよ。君は一体、自分を何様だと思っているんだ!」(53節)。
~~するとイエスは言います。
「ああ、アブラハムね。彼は私がこの世に到来する日をありありと見たんだ。そして喜んだんだよ」(56節)。
~~これはどういう意味なんでしょうね。アブラハムは「信仰(信頼)の父」と呼ばれています。イエスは、その信頼の本質をあっさりと示しているのです。それは後に、使徒パウロの口から具体的な言葉となって出ます。
「信仰とは、望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙、11章1節)。
~~望んでいること、とか、まだ見ていない事実とかは、要するにまだ実現していない。現実となっていないものです。それを「確信し、確認する」というのは、どういうことか。
まるで現実化しているもののように、その状態をありありとイメージする、と言うことです。よく「幻を見る」といいますね。信仰(信頼)の場合はそれが核心なのです。
でもそんなことが出来るんでしょうかね?
これが出来る。そういうことが、哲学や心理学で確認されてきています。
現実にはないけれども、現実と変わらずありありと見る力、そういうイメージ力を人間は持っていると。
哲学者ポパーはそのイメージされた世界を心理学的根拠でもって「第三世界」と言っております。イエスはそれを、こんな古い時代に、ズバリ結論だけでいったわけです。
すれ違いはまだ続きますよ。
ユダヤ人たちは、肉体しか意識にないもんですから、こう言います。
「アブラハムがあなたの出現を見て喜んだって? よく言うよ全く。君はまだ50にもなっていないじゃないか。なのに、アブラハムを見たんだって? アッハハハ・・・」(57節)。
ところがイエスは、それにも真っ正面から論じるしかできないんですね。
「アブラハムの生まれる前から、私は(霊として)存在してきているんだよ」(58節)。
~~もう限度だ。ユダヤ人たちは、こういう男は律法どおり石打の刑にして殺すべきだ、と考える。で、石を投げつけようとします。しかし、イエスはそれを逃れ、神殿から出て行った、とヨハネは記しています(59節)。
以上に解説した聖書箇所は、人間は肉体と霊との二つからなっているという、イエスの思想を知っていたら、かなりな程度解読されていくところです。ヨハネはこれについてもまた、結構なスペースを割いています。やはり、人々が見逃しやすい鉄則だと洞察してたからでしょう。
またここは、そういう二元論的人間構造観を踏まえていないと、みんな誤解に流れていってしまうところでもあります。