鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.165『仕えるものは従うもの』(12章)

2006年08月02日 | ヨハネ伝解読
~~前回の「ヨハネ伝」でのコメントは鹿嶋の分がもう少しありますが、とりあえず、「ヨハネ伝」をもうひとつ進めますね。


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=聖句=
 「私(イエス)に仕えようとするものは、私に従わなければならなりません。そうすればその人はわたしの居るところに共に居ることになるのです。そして、私の父は私に仕えるすべての人に栄誉を与えます」(12章26節)
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続いてもうひとつ、意味深いイエスの言葉をヨハネは並記しています。これが本日の聖句です。

 ここで「私(イエス)に仕えるものは私に従うべき」というのは意味がわかりにくいですね。これにはこの地域に特有な人間観が背景になっています。それは人間を基本的に「自由人と奴隷」に二分類する考え方です。

 自由人とは、自分のしていることが全体の中でどういう位置にあるか、どういう意味を持っているかを知っている人です。いわば、全体観を持ちうる人であります。この人は、仕事に関しても自分の判断で臨機応変に対応できます。

 奴隷とは「全体観を与えられていない人」です。英語では、スレーブだけでなく、サーバントというのも詰まるところはそれに当たります。全体感がなかったら、人は言われたとおり与えられた職分を果たすしかありません。

               



 もともとこの思想は、中東やギリシャ世界での家庭運営の基礎になっている考え方でした。

 これらの地域の資産家市民の家庭は、大家族でした。上には血のつながっている家族員が自由人としております。彼らは家族運営ための全体的情報を主人より与えられています。

 その下には奴隷が多数居ます。彼らには料理の専門家とか、財務の専門家もいます。家庭の事務仕事を一説仕切る執事もいます。これで奴隷なのです。

 日本で奴隷というと、鞭打たれて牛馬のように働かされる肉体労働者を連想しますよね。でも西欧のサーバントというのはそうではないのです。だから邦訳に困ってしまいます。他にいい言葉がないので奴隷と訳すしかないのですが、そうすると、鞭打たれる肉体労働者がイメージされてしまう。

 それを避けるためここでは、奴隷人と言いましょう。自由人と奴隷人。苦肉の策ですけどね。で、その奴隷人とは、全体観が与えられてない人です。高度な工芸技術、事務技術を持っている人でも、全体観が与えら得てなかったら奴隷人です。

 家族に関する全体観がないと、全体の中で自分は何をしているのか、何をすべきかの判断が出来ません。そこで命ぜられるまま、従順にその義務を果たすのみとなります。そういう意識で仕事をするしかないわけです。

               


 こういう人間分類の仕方は、聖書にもあります。キリスト教が西洋に普及するにつれて、この考え方が西欧にも入りました。その結果、こういう人間観が西欧人の意識にも存在するようになっています。人間を、自らのすべきことを全体観を持って自分で判断できるタイプと、判断できないので命じられるままを行うしかないタイプに基本的に分ける考え方が・・。

 国際化時代に入りましたので我々日本人も、この感覚は知っておくべきことでしょう。そして、民族丸ごと奴隷人の方に組み入れられることのないように、注意いたしましょう。

               


 本日の聖句でもイエスもそれをベースに言っています。「私(イエス)に仕える」ということは、イエスが命じたままに「従う」ことだというのです。自分の判断でなすべきことをしていくことではないのだよ、と。

 なぜならこの段階で、弟子たちはイエスの持っている全体観には、至り得ていないですから。

 (実はもうしばらくすると、イエスは弟子たちに全体感を与えます。そして弟子たちを「兄弟」と呼ぶようになります。イエスと同じ自由人になったのですから。だが、それにいたるにはまもなく始まる衝撃的なレッスンを通過させる必要がありました。それまでは弟子たちは、とにかく従うということだけが正解の道なのでした)

               


 「まもなくわかる、だから、今は私に従うんだよ・・・」

    ~~優しいですね。そして、これから始まるすさまじい肉体的、精神的拷問を考えると、それがわかっていながらこういう優しさをもって弟子に対することが出来るイエスは、すごいですね。これだけでも、人間技をかけ離れていると思いませんか・・・。     

 しかし、「従う」状態から抜け出た弟子もいました。イスカリオテのユダがその人でした。彼はすでに、自らの判断で行動する状態に入っておりました。

               

コメント
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