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=聖句=
「そこに立っていた群衆のあるものは、これを聞いて『雷が鳴った』といった。他のものは『天使が彼に話しかけた』といった」(12章29節)
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前回ヨハネは、「私は栄光を与えてきたし、これからも栄光を与える」という声が天から響いてきた、と記していました。今回は、これに対する群衆の反応です。
ある者は「雷が鳴った」といった、とヨハネは記している(29節)。このことから我々もどういう響きだったかが想像できそうです。雷がゴロゴロと轟くような音だったんですね。
また「他の人はこれを『天使の声だ』といった」とヨハネは記しています。実際には、どうだったと解すべきでしょうか。鹿嶋は天使だろうと思います。
雷ならゴロゴロというだけで、その音に意味はありませんよね。だが、これは意味を持った言葉としての音ですから、少なくともこれはなにか霊的な存在が発した声であるとすべきでしょう。
ではどんな霊的存在か。聖書で霊的存在とされているのは、創造主と天使と人間です。そのうち人間は肉体を持っていて重いですから、空でもって声を発することは出来ません。創造主はどうか。具体的には「父なる万物の創主」と聖霊がそれに当たるのですが、どちらも可能性は少ないでしょう。
聖書の思想では万物の王でもある創造主は、自ら地表近くにやってきてこういう細かい働きをすることはあまり考えられません。聖霊もまた自らこういう動きをしないでしょう。ここでは聖霊が、天使に命じてさせたというのが最もありそうです。
聖書では「ゴッドがなさった」と記してある場面でも、実際には、天使にさせたという解釈する方が妥当なところがたくさんあります。癒しもそうですね。人の身体の病の部分は汚いことがよくありますよね。聖霊は高貴な方ですから、みずからそういうところに手を出すというのは筋が通りにくいのです。
で、天使に命じます。天使は火にもなり、風にもなる力ある霊です。病の部分を癒す力も持っているはずです。このように通常、霊的な働きをするのは天使であるとする方が筋が通るのです。
こういう解読を妨げるのは、我々に与えられてきている天使の絵でしょう。たとえばまるまる太った赤ん坊に羽が生えたよう絵がありますよね。キャラメルの箱に付いているやあつ・・・。私たちは子供の頃から、あれを天使だと教えれてきました。
だけどあれは違いますよ。あれはキューピットという、ローマの神話に出てくる全く別の存在です。これをエンゼルマークとかいってキャラメルに付けた製菓会社も責任大きいなあ。こういうことするから我々は天使というとそういうものをイメージする習性が出来てしまっています。
聖書における天使は霊的存在ですから、背中に羽根など付けなくても空を飛ぶことは可能です。大人の男性に羽根を付けた絵も、聖句を読まない人向けのものですね。
天使は霊ですから、通常目に見えません。そうしたなかで、時に応じて人間の目に見える存在に変身することも出来ます。様々に変身するとは言いますが、ホームポジションというか、原型はあるのではないか。原型は人間と同じ形ではないか、と鹿嶋は推定しています。
ともあれ天使は、すなわち「天(創主)の使い」です。創主の命令に従って働くのを本分として創られた被造霊です。ですから、雷のような音は天使が立てた、というのが、いちばん妥当な解読だと思います。